キスの理由
番外3
彼女を泣かせたくなかった。
彼女を、悲しませたくなかった。
『ハチロクのエンジンな。もうすぐイっちまいそうなんだよ…』
彼女の父親からその事を聞いたタイミングと、不快に思う男が彼女に対し挑発行為を行ったというのを耳にしたタイミングが重なった。
負荷の多いバトルをすれば、最中にエンジンブローが起こる可能性は高い。
そうなれば、彼女に不必要な敗北と、悲しみを同時に味合わせてしまうことになるかも知れない。
自分の中に燻っていた臆病さを吹き消し、彼女に電話をかけ呼び出した。
そしてそんな自分に与えられたのは、彼女からの決定打だった。
「もう、嫌だ」
涙を流し、自分を拒絶する姿。
それでも、伸ばした腕は彼女に弾かれた。
「触んなよ!汚い…!」
ズクリ、と心臓に激しい痛みが走る。
ああ、そうか。
彼女に完全に嫌われたのだ。
散々、無垢だった彼女に大人の情欲を刻み込んだ。
その行為は、清純だった彼女にとって許し難い悪でしか無いのだろう。
ぐらぐらと地面が揺れるような気がした。
足元がふらつき、立っていることすら出来ない。
ドサリと、彼女がいなくなった公園で無様に尻餅を付き、彼女を穢すことに喜びを感じていた自分を呪った。
啼かせたいと、あの白い肌に欲情した自分を、嫌われてもなお彼女に対して欲望を抱き続ける自分を。
もう駄目なのだろうか?
もうあの体の、あの魂の傍にいることは許されないのだろうか?
遠くから見ることしか許されないのだろうか?
一度、あの肌身を知った今では、そんな事が我慢できるはずが無い。
彼女を見れば貪りたいと思うし、自分だけのものにしたいと、そう強く願う。
「ふじ…わら…」
ぽつりと、何度も読んだ彼女の名が唇から零れ出る。
「ふじ、わら……」
名を呼ぶと、素直な瞳が涼介をいつも見返してくれた。
けれど、もうあの瞳は自分には注がれないのか。
絶望が満たし始めて涼介を、しかし我に返らせたのは親友からの電話だった。
『秋名のハチロクが須藤京一とバトルをしようとしている』
その知らせを聞いた瞬間、涼介は自分の悲しみを忘れた。
思ったのは、ハチロクの前で涙する彼女の姿。
あの子を泣かせてはいけない。
散々、自分が泣かせた分、もうあの子には泣いて欲しくなかった。
すぐさま立ち上がり、赤城へ向かったが、バトルはもう始まっており、そして涼介が恐れていた最悪の事態が起こった。
ハチロクのエンジンブロー。
全身の血が凍りついたように感じた。
きっとあの子は泣いているだろう。
泣かせたくない、とか。悲しませたくない、とか。
そんなものは詭弁だ。
自分が傍にいたいのだ。
彼女が悲しんでいる時に、自分が傍にいれないのが許せない。
嫌われても、憎まれてもいい。
ただ、傍にいることを許して欲しい。
涼介は駆け出すように、FCに乗り込み、キーを回した。
すぅすぅと柔らかな寝息が傍らから聞こえる。
安らかなその呼吸に、涼介はふ、と目を細めた。
柔らかそうな茶色の髪を梳くように頭を撫でると、眠ったままの彼女は嬉しそうに頬を緩めた。
「…りょ…すけさ…」
小さく、呟かれた自分の名前に、涼介の頬も緩む。
隣で眠る彼女の全身は素肌のままだ。
愛情を交わし、感極まった彼女は意識を飛ばし、そしてそのまま眠りについた。
可愛い、愛しい恋人。
手に入れたと傲慢に思い、失いかけ、そして再び涼介の手の中に戻ってきた。
相変わらず、自分の中の彼女への飢えは消えない。
いつでも、どこでも彼女が欲しくて堪らない。
他の男が彼女と親しくしていれば、気が狂いそうになるし、嫉妬で彼女を手荒く扱ったこともある。
最初、彼女はそんな涼介に憤慨しながらも、けれど最後には、
『涼介さんのばか』
そう、困ったような、嬉しいような微妙な笑顔で涼介を許してくれる。
そしてその度に涼介は拓海の腰を掻き抱き、「ごめん」と謝る。
想い、想われることはまるで奇跡のようだ。
自分の焦がれる相手から、同じように求められる。
それは例えようもない幸福感をもたらし、涼介を貪欲にさせる。
この想いに果てはあるのだろうか?
日を重ねるごとに、想いは深くなっていくように思う。
ただ、思うのはもう二度と彼女を手放さないこと。
大事にしたいと、そう願うこと。
柔らかな彼女の髪を撫でながら、涼介は健やかな寝息を立てる唇に、自身の唇を寄せ囁いた。
「拓海」
ちゅ、と触れるだけのキスを落とし、そして彼女が目覚めている時には、照れくさくて言えない言葉を告げた。
「愛してる」
すると、眠っているはずの彼女が涼介の体に身を寄せ、答えるように微笑んだ。
そんな彼女に、涼介は驚きながらも笑みを浮かべる。
「本当に拓海は…」
何度も何度も死にそうになってしまう。
「俺を殺す気か…」
些細な彼女の仕草。表情。
その度に心臓が摘まれたように痛む。
しかし、それは今では心地良い痛みになっている。
涼介は傍らの彼女の身体を胸に抱き、幸福感とともに目を閉じた。
END