キスの理由

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 感情的になって成功した試しは無い。
 何かを為すにはクレバーなまでの冷静さと客観視が必要となる。
 今の拓海にはそれが欠けていた。
 だから、その罰なのだろうか。
 走行中に、グシャと潰れた音が頭から消えない。
 もうもうと、ボンネットから立ち昇る煙に、自分は何か悪い夢でも見ているのでは無いだろうかと期待した。
 けれど、熱した鉄板のようなボンネットに触れた手の痛みに、それが夢なのではない現実なのだと思い知らされる。
「現実ってもんがよくわかっただろう…。その車はもう寿命だぜ」
 傲慢な男の、言い放つ言葉に反論する気力すら無い。
 そうだ。
 これが現実。
 愚かな自分が、支配する側に楯突けばこんな目に遭う。
 そう思い知らされた気がした。
「いい機会だからハチロクはもうつぶしたらどうだ?」
 圧倒的なまでの機動力を見せるあの車は、確かに傲慢な男に良く似合っていた。
 そして今は煙を上げ、痛々しい姿を見せるハチロクは、今の自分に良く似合っている。
 いや、違う。
 自分がこうだから、ハチロクがこうなってしまった…。
 ランエボが去った後も、拓海はその場から動けなかった。
 一時ひどかった煙が治まり、徐々に冷えてきた車体に触れ、拓海は涙を流した。
 ポツポツと、ボンネットの上に涙の雫が落ちる。
「…ごめん……ごめんな…」
 こうなったのは自分のせいだ。
 自分の愚かさが、今の事態を招いた。
 玩具のくせに彼に反抗したりしたから…。
 彼に、楯突こうなんて思ったから…。
 涙が止まらなかった。
 情けなくて、惨めで、そして何の罪も無いハチロクに申し訳なくて仕方なかった。
「…ごめん…ごめん…」
 何度も謝罪を繰り返し、縋るように拓海は項垂れしゃがみこんだ。
 いつも鼓動のような音を奏でていたエンジンが今は何の音もしない。
 不気味なくらいにシンとした峠に、風の音だけが響いている。
 走る事が楽しくなってきていた。
 ずっと、一緒に走ってきたこの車が好きだった。
 だけど、もう動かない。
 走る事が出来ない。
 ああ、そうか。
 それはストンの胸に落ちてきた。
 これが涼介の復讐なのだろうか。
 自分を駄目にさせ、走れなくする。
 それが彼に勝った、自分への復讐だったのだろうか?
 だったら、彼の復讐はもう叶った。
 もう…彼が自分を気に掛ける必要も無い筈だ。
 拓海は自分の手のひらを見つめた。
 何も、無い。
 何もかも、無くした。
 残ったのは、相変わらず何の取り得も無く、男みたいなナリの女の出来損ない。
 ポタリと、また涙が零れる。
 けれど今の涙は、さっきまでの涙と意味が違う。
 前は、申し訳ないというハチロクへの謝罪の涙だった。
 今の涙は、純粋な悲しみからくる涙だ。
「う…く…ふ…」
 けれど。
 嗚咽が漏れ、本格的に泣き始めようとしたその時、耳に風以外の音が運ばれた。
 その音を聞き取った瞬間、ピタリと拓海の涙が止んだ。
 パキリと身体が固まり、小さく縮こまっていた心臓の音が、一気に激しく鳴り始める。
 ただでさえ冷静でいられない今、動揺と驚きで拓海はまるで迷子の子供のようにその場に立ち尽くすしか出来なかった。
 そして音は異常なまでのスピードで近付き、激しいスキール音を響かせ、拓海の背後で停止した。
 バタン、とドアが開く音。
「……藤原っ!」
 聞いた事の無い、焦った声が背後から響く。
 けれど拓海は振り返れなかった。
 何をしに…来たのだろう?
 オレを笑うため?
 走れなくなったオレを、確認しに来たのか?
 負の感情が拓海の中で渦巻く。
 駆け寄ってきた足音が、拓海の背後でピタリと止まる。
 そして拓海の目の前のハチロクに目を留め、息を飲んだ。
「……エンジンブローか…」
 さも、傷ましいとばかりに呟かれた言葉に、拓海の感情が爆発する。
「………満足ですか?」
 くるり、と彼を振り返る。
 険しい表情で、「何を言ってるんだ?」と彼が問い返す。
 けれど拓海には、もう彼の表情など窺う余裕が無かった。
 心が張り裂けそうに痛くて、そしてドロドロになった感情が溢れ出す。
「涼介さんは…見たかったんでしょ?」
「藤原?」
「…オレが…負けるところ」
 涼介が目を見開く。
「な…に…」
 答える声が掠れている。
 たけど拓海は気付かない。
 見せ付けるように両手を広げ、そして「ははは」と乾いた笑い声を上げる。
「涼介さんの望み通り、オレは負けてハチロクも動かないです。
 ねぇ、これで満足ですか?」
「……何を言ってる、藤原」
 彼の目が眇められた。
「だから…」
 またポロリと涙が零れた。
 ああ、あまり泣いてはいけない。
 最後くらい、彼に見合った大人の女らしくいたいのに、こんな子供っぽい泣き顔を見せてはいけない。
 けれど、裏腹に涙は零れる。
「だから…もう、消えてよ。オレに…関わるなよ…もう…ヤなんだ…」
 嫌いだ。
 涼介なんか嫌い。
 裏切られても、弄ばれても、それでも消せない恋心を抱かせる彼が嫌い。
「消えろって!」
 近寄ってくる彼の胸を、拳で叩く。
 けれど、叩こうとした腕は彼に捉えられ、叩くことを許されなかった。
 悔しくて、涙目で目の前の彼を見上げると、怖いくらいに真剣な眼差しの彼がいた。
「俺は嫌だ」
 彼の迫力に気圧されたように、拓海は息を飲む。
「俺は嫌だ。お前が嫌がろうが、どれだけ嫌われようが、お前の傍にいたい」
 くしゃりと、拓海の顔が歪む。
 何でそんな事を言うんだろう?
 心にも無いことを!
 悔しくて、彼の体を殴りたいのに、腕は捉えられたまま動かす事が叶わない。
「……嘘吐き」
「嘘?」
「もう…ヤだ……遊びなんて、もう…ヤだ」
 拓海の嗚咽交じりの呟きに、涼介の眉が見て分かるほどに跳ね上がった。
「遊び?」
 触れることを躊躇っていた手が、ガシリと拓海の両肩を掴む。
「…どう言う意味だ?」
 ギラリと、彼の瞳が怒りで煌いている。
 拓海はそれに気付き、一瞬呑まれるが、けれどすぐに気を取り直し、涙目で睨んだ。
「遊びなんでしょ?」
 ギリ、と涼介が歯噛みする音がした。
「……遊びだって?」
 涼介の怒りを感じ取り、拓海は次の言葉が出てこない。
 強い力で掴まれている肩が痛い。
「…理由を言ってみろよ。何故遊びだなんて思ったんだ?」
 ゆっくりと彼の唇が笑みを刻む。けれどその目には怒りを湛えていた。
「だって…」
 自然と涼介の怒りを感じ取り、身体が勝手に震えだす。
「だって?」
 ゴクリと、唾を飲み込み、拓海は言った。
 攻められる謂れは無いのに、何でオレが怯えなきゃいけないんだよ。
 生来の負けず嫌いが顔を出す。
 キッと睨み帰す。攻められるべきは涼介の方なのに。
「彼女、いるくせに」
 拓海の言葉に、涼介の眇められていた目が大きく見開く。
 そして、
「…はぁ?」
 素っ頓狂な、思わず漏れてしまったと言わんばかりの彼の返事が返ってきた。



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