キスの理由
8
考えたくないのに、頭が勝手にあの時見た光景を甦らせる。
睡眠が浅くなり、寝不足のままボウっとする事が多くなった。
周囲もそんな拓海の異変を感じ取っているようだが、日ごろからボケっとする事が多いため判断に苦しんでいるようだ。
だからと言って拓海からわざわざ言うつもりも無い。
今はただ、何も考えたくなかった。
それなのに、先日バトルしたランエボのチームのリーダーと言う男が、わざわざバイト先に訪れ、拓海を挑発してきた。
『赤城に来い』
そう、傲慢に持論を翳す彼を、拓海はどこか涼介に似ていると感じた。
涼介と気まずくなる前に、そう言えば彼から聞いた事があった。
ランエボの、あのリーダーと言う男について。
秋名で、エボWとバトルすると言うときに、彼らについて涼介が詳しく語ってくれた。
けれど涼介の話は性能が、とか、難しい理論がいっぱいで、結局拓海が理解できたのは、ランエボと言う車は4WDで、性能が凄く良くて、そして、
『俺はあいつが嫌いなんだ』
と言うこと。
一方的な物言いと、傲慢なまでの自信。
本当に涼介に似ている。
似ているから、きっと嫌いなんだろう。
その彼らは、二日後にバトルをするらしい。
赤城になど行けるはずが無い。
きっと彼の顔を見てしまえば、状況も考えずに泣き喚いてしまいそうだ。
だから、絶対に行かない。
そう思っていたのに。
その夜、藤原家の電話が鳴った。
意識せず電話を取ると、相手は久しぶりに聞く彼の声だった。
『今から出れるか?』
いいも、悪いも聞かず、用件だけを告げ電話を切られた。
今さら何の用だ、そう疑念を抱きながらも、どこかで期待する自分もいる。
あの彼女と別れたのだとか。
だから本当は自分が本命なのだ、とか。
そんな有り得ない期待を。
けれど、待ち合わせに指定された公園を訪れた拓海は、そんな期待が粉々に砕けたのを知る。
「京一に会ったそうだな」
開口一番、涼介はそう言った。
言われた瞬間、拓海は自分が惨めに思えた。
彼にとって自分は何なんだろう?
優しくする必要の欠片も無いのだろうか?
彼が気にしているのは自分じゃない。
あの、嫌いだという傲慢な男だ。
自分では…無い。
いつも命令口調で、拓海の意思なんてお構いなし。
自分に従って当たり前だと、そう思っているのだろうか。
「どうなんだ。会ったんだろう?あいつに挑発されたのか?」
「………」
拓海は押し黙ったまま何も答えない。
焦れたように涼介が拓海の腕を掴む。
「はっきりしろ。まさかあいつの挑発を受けるつもりじゃないだろうな?」
「………」
「藤原!」
彼が声を荒げた。
だが拓海はやはり返事をしない。
頑なに涼介の声を無視した。
チッ、と舌打ちして涼介が拓海の腕を引いた。
「答えないならいい。お前があいつのところへ行けないように監禁するだけだ」
不穏な言葉と、痛いくらいに掴まれた腕の力に、漸く拓海は涼介を見返す。
物苦しいくらいに自分を見つめる熱を孕んだ眼差し。
涼介がふい、と視線を違う方へと向ける。
その視線の先に、公園近くに建つあからさまなホテルがあった。
スゥ、と身体から血の気が引く。
――この人は…。
「俺の腕の中で一晩中閉じ込めてやるよ」
――オレを一体何だと思っているのだろうか?
抱けば、すぐに大人しく従う都合の良い玩具?
拓海にも意思があるとは、考えもしないのだろうか?
スゥ、と拓海の眦から涙が零れ落ちる。
それを見た涼介が動揺したのか掴む腕の力が緩む。
ドン、とその瞬間に拓海は彼を突き飛ばした。
彼を拒絶するのは二度目だ。
そして、きっとこれがもう最後。
「嫌だ」
はっきりと告げる。
泣き顔のまま、彼をしっかりと睨み付け。
「もう、嫌だ」
涼介が驚愕したように目を見開いている。
自分に従うとばかりに思っていた、従順な玩具が反抗したのが、そんなに驚いたのだろうか。
拓海は自嘲の笑みを浮かべ、そしてまた告げる。
「もう、嫌だ。あんたには従えない」
「ふ、じわら…何を言って…」
答える彼の声は掠れていた。
傷付けばいい。
自分のせいで、彼が傷付けば、自分の恋心が少しでも報われるような気がした。
伸びてくる手のひらを、パシンと叩いて振りほどく。
「触んなよ!汚い…!」
彼女がいるくせに、自分に触れてこようとする彼が許せなかった。
拓海の言葉に、ぐ、と息を飲み怯んだ隙に、拓海は踵を返し走り去る。
そして停車したままだったハチロクに乗り込み、キーを回す。
「藤原!」
彼が呼ぶ声がしたが、もう拓海は聞かない。
振り切るように車を走らせ、そして衝動のままに彼女は赤城へと向かった。
苛々するのだ。
傲慢さが。
こちらの意思など、無いものと扱うようなその態度が。
もう一人の、あの傲慢な人。
彼に似ている。それだけで許せなかった。
負けるとか、勝つとか。そんなのは脳裏には無かった。
ただ、この胸に渦巻く醜い感情を、もう一人の傲慢な男にぶつけたかった。
自分にも意思はあるのだと、そう知らしめたかったのだ。