キスの理由

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 考えたくないのに、頭が勝手にあの時見た光景を甦らせる。
 睡眠が浅くなり、寝不足のままボウっとする事が多くなった。
 周囲もそんな拓海の異変を感じ取っているようだが、日ごろからボケっとする事が多いため判断に苦しんでいるようだ。
 だからと言って拓海からわざわざ言うつもりも無い。
 今はただ、何も考えたくなかった。
 それなのに、先日バトルしたランエボのチームのリーダーと言う男が、わざわざバイト先に訪れ、拓海を挑発してきた。
『赤城に来い』
 そう、傲慢に持論を翳す彼を、拓海はどこか涼介に似ていると感じた。
 涼介と気まずくなる前に、そう言えば彼から聞いた事があった。
 ランエボの、あのリーダーと言う男について。
 秋名で、エボWとバトルすると言うときに、彼らについて涼介が詳しく語ってくれた。
 けれど涼介の話は性能が、とか、難しい理論がいっぱいで、結局拓海が理解できたのは、ランエボと言う車は4WDで、性能が凄く良くて、そして、
『俺はあいつが嫌いなんだ』
 と言うこと。
 一方的な物言いと、傲慢なまでの自信。
 本当に涼介に似ている。
 似ているから、きっと嫌いなんだろう。
 その彼らは、二日後にバトルをするらしい。
 赤城になど行けるはずが無い。
 きっと彼の顔を見てしまえば、状況も考えずに泣き喚いてしまいそうだ。
 だから、絶対に行かない。
 そう思っていたのに。
 その夜、藤原家の電話が鳴った。
 意識せず電話を取ると、相手は久しぶりに聞く彼の声だった。
『今から出れるか?』
 いいも、悪いも聞かず、用件だけを告げ電話を切られた。
 今さら何の用だ、そう疑念を抱きながらも、どこかで期待する自分もいる。
 あの彼女と別れたのだとか。
 だから本当は自分が本命なのだ、とか。
 そんな有り得ない期待を。
 けれど、待ち合わせに指定された公園を訪れた拓海は、そんな期待が粉々に砕けたのを知る。
「京一に会ったそうだな」
 開口一番、涼介はそう言った。
 言われた瞬間、拓海は自分が惨めに思えた。
 彼にとって自分は何なんだろう?
 優しくする必要の欠片も無いのだろうか?
 彼が気にしているのは自分じゃない。
 あの、嫌いだという傲慢な男だ。
 自分では…無い。
 いつも命令口調で、拓海の意思なんてお構いなし。
 自分に従って当たり前だと、そう思っているのだろうか。
「どうなんだ。会ったんだろう?あいつに挑発されたのか?」
「………」
 拓海は押し黙ったまま何も答えない。
 焦れたように涼介が拓海の腕を掴む。
「はっきりしろ。まさかあいつの挑発を受けるつもりじゃないだろうな?」
「………」
「藤原!」
 彼が声を荒げた。
 だが拓海はやはり返事をしない。
 頑なに涼介の声を無視した。
 チッ、と舌打ちして涼介が拓海の腕を引いた。
「答えないならいい。お前があいつのところへ行けないように監禁するだけだ」
 不穏な言葉と、痛いくらいに掴まれた腕の力に、漸く拓海は涼介を見返す。
 物苦しいくらいに自分を見つめる熱を孕んだ眼差し。
 涼介がふい、と視線を違う方へと向ける。
 その視線の先に、公園近くに建つあからさまなホテルがあった。
 スゥ、と身体から血の気が引く。
 ――この人は…。
「俺の腕の中で一晩中閉じ込めてやるよ」
 ――オレを一体何だと思っているのだろうか?
 抱けば、すぐに大人しく従う都合の良い玩具?
 拓海にも意思があるとは、考えもしないのだろうか?
 スゥ、と拓海の眦から涙が零れ落ちる。
 それを見た涼介が動揺したのか掴む腕の力が緩む。
 ドン、とその瞬間に拓海は彼を突き飛ばした。
 彼を拒絶するのは二度目だ。
 そして、きっとこれがもう最後。
「嫌だ」
 はっきりと告げる。
 泣き顔のまま、彼をしっかりと睨み付け。
「もう、嫌だ」
 涼介が驚愕したように目を見開いている。
 自分に従うとばかりに思っていた、従順な玩具が反抗したのが、そんなに驚いたのだろうか。
 拓海は自嘲の笑みを浮かべ、そしてまた告げる。
「もう、嫌だ。あんたには従えない」
「ふ、じわら…何を言って…」
 答える彼の声は掠れていた。
 傷付けばいい。
 自分のせいで、彼が傷付けば、自分の恋心が少しでも報われるような気がした。
 伸びてくる手のひらを、パシンと叩いて振りほどく。
「触んなよ!汚い…!」
 彼女がいるくせに、自分に触れてこようとする彼が許せなかった。
 拓海の言葉に、ぐ、と息を飲み怯んだ隙に、拓海は踵を返し走り去る。
 そして停車したままだったハチロクに乗り込み、キーを回す。
「藤原!」
 彼が呼ぶ声がしたが、もう拓海は聞かない。
 振り切るように車を走らせ、そして衝動のままに彼女は赤城へと向かった。
 苛々するのだ。
 傲慢さが。
 こちらの意思など、無いものと扱うようなその態度が。
 もう一人の、あの傲慢な人。
 彼に似ている。それだけで許せなかった。
 負けるとか、勝つとか。そんなのは脳裏には無かった。
 ただ、この胸に渦巻く醜い感情を、もう一人の傲慢な男にぶつけたかった。
 自分にも意思はあるのだと、そう知らしめたかったのだ。


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