キスの理由

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 聞きなれないエンジン音がする。
 うちの近所で、あんな煩い音がする車なんてあったっけ?
 でも、どっかで聞いたような覚えのある…。
 うつらうつらと、外の音を眠ったままの頭が感知する。
 下から、父親が上機嫌に会話する声まで聞こえてきた。
 珍しい。あの親父があんなに嬉しそうに喋ってるだなんて…。
 絶対に近所のおばさんたちやお客さんではない。きっと車関係の知り合いかな?
 そう思いながらも、まだまどろむ拓海に、
「お〜い、拓海ぃ!」
 会話していたはずの父親の、自分を呼ぶ声がした。
 うるせぇな、と心の中で悪態を吐く。
 昨夜は結局明け方まで眠れなかったのだ。
 目を閉じると、どうしても昨晩自分の身に起こった出来事を思い出してしまう。
 間近で見た長い睫、触れた唇の感触。口内を動き回る舌の熱さも。
 振り払おうにもどうしても意識してしまい、眠らないままに豆腐の配達に出かけた。
 配達を終えた帰り道、昨夜の記憶を辿るように、あのバトルでの出来事を思い出しながら道を下る。
 そうすると、改めてあの人の凄さだとか、恐ろしさを再確認し、あの後に起こった出来事は夢ではないのだろうか?とさえ思い始めてきた。
 だっておかしい。
 自分なんかに、あんな凄い人が……するはずなんて…。
 だからきっとあれは夢。
 バトルで高揚した心が見せた幻。
 そう思い込むと、徐々に眠気が訪れ、帰宅してから漸く拓海は眠りに就けたのだ。
「おい、拓海!何してやがる!」
 また父親の怒鳴る声がする。
 今日はバイトは休みだ。
 昨夜がバトルだったからか、シフトから外してくれたのだ。
 時期も今は夏休み。ずっと眠っていても文句は言われないはずなのに、まだ階下から父親の自分を呼ぶ声は続く。
 仕方なく重たい瞼を開く。
 枕元の目覚まし時計を見ると、時計の短針は11の数字を指していた。
 時刻を確認すると同時に、朝食を食べていないお腹がギュルルと音を立てた。
 健康な体は睡眠も欲するが、食欲の方を優先させた。
 まだ眠気の残る体を起こし、ゆらゆらと布団から抜け出し階段を降りていく。
 ふわぁ、と欠伸をしながら、さっき呼ばれていた父親の声に返事する。
「なんだよ、親父ぃ…」
 ゴシゴシと、子供のように目を擦りながら、いつも二人の居住空間にしている居間の引き戸をガラリと開けると、そこには父親だけではなく別の人間がいた。
「おはよう。藤原」
 クス、と優雅に微笑むその人の顔を拓海は知っていた。
 端整すぎるその容貌と、日本家屋の我が家では軒に頭がつかえそうな身長のその人は、昨晩拓海とバトルを交わした人だった。
「たかはし…りょうすけ…」
 呆然と彼の名を呟くと、粗末な座布団に座り、ちゃぶ台に肘を付き寛いだ格好の彼がクスリと笑った。
「ちゃんと覚えていたか。お邪魔してます」
 居住まいを正し、拓海に向かい挨拶をする彼は、藤原家の居間に恐ろしいほどに似合わなかった。
 端の欠けた使い古しの皿の上に、高級料理を盛り付けたかのような違和感だ。
「な、んで…」
 拓海の動揺も気にせず、彼は平然と足を崩し、また寛いだ様子になる。
「何でって、藤原に会いに来たんだよ」
 だから、それが何でなのだが、涼介は飄々として意に介した風もない。
 逆に、「それより…」と、悪戯っぽく拓海を見上げる。
「その寝ぼけた姿も可愛いけどな。顔を洗って髪を整えた方がいい。頭…寝癖が付いてるぞ」
 そう言われ、自分が寝起きのままだった事に気付く。
 服も、パジャマ代わりのTシャツにハーフパンツ。
 ものすごくだらしのない姿で彼の前に立っていることに気付き、全身が羞恥に真っ赤に染まる。
 慌てて洗面所に飛び込んだ拓海の背中に、楽しそうな彼の笑い声が追いかけてきた。



 何でこんな事になってるんだろう…。
 拓海は酷く緊張した様子で彼の隣に立っている。
 チラリと横を見上げると、
「何?」
 と、甘く微笑む彼が見返してきた。
 またぼわっと拓海の頬が染まり、慌てて視線を逸らす。
 藤原家にあの高橋涼介がやって来た。
 それだけでも不思議なのに、涼介はちゃっかりと藤原家で拓海が作った昼ごはんを文太も含めた三人で美味しそうに食べ、さらには食後、文太に、
『お嬢さんをお借りします』
 と爽やかな笑顔でのたまったのだ。
 それに答える文太の態度も拓海を絶句させた。
『おう、デートか。うちのはそう言うのに縁がねぇからな。遠慮なく持ってきな』
 で、デート!
 パクパクと、酸欠の金魚のように顔を真っ赤にさせ言葉も出ない拓海の腕を取り、涼介は「じゃ、遠慮なく」と、昨夜バトルしたあの恐ろしいまでのオーラを感じさせる白い車に連れ込んだ。
 そして現在。真昼の秋名湖のほとりで、二人で湖を散策なんてしている。
「いつも夜にしかこんな場所に来ないからな。明るい内に来ると新鮮だよ」
 気持ち良さそうに息を吸い込み、柔らかな笑みを見せる。
 気後れしながら、拓海はまた気付かれないように涼介を見上げる。
 隣に立つと、改めて背の高い人だなと思った。
 拓海の身長も低い方ではない。
 女にしては大きい方だ。
 だが涼介の身長はその拓海よりも頭半分は高く、ちょうど視線が涼介の肩辺りになってしまう。
 男性を見上げる。
 そんな経験は拓海には少ない
 いつも視線が同じくらいか、もしくは幼馴染のイツキのように見下ろす。それが常だったのに、今はそれとは逆になっている。
 自分が彼に見下ろされている。
 それだけでも落ち着かないのに、横にいるのがあの涼介だ。
 夜目でも綺麗な男だと思った。
 男なのに、綺麗と表現するのはおかしいような気もするが、そう表現するのが一番正しいような気がした。
 サラサラな艶のある黒髪。
 その髪の下には、怜悧な印象を放つ切れ長の瞳。
 その瞳を覆う睫が、意外の長い事を拓海はもう知っている。
 す、と尖った高い微量が自分の頬を掠める感触も。
 薄く整った唇がどんな熱を放つのか、その奥に隠された舌が、どんなにいやらしく動くのかさえも。
 思い出すと、また顔が真っ赤になり、心臓がドクドクと戦慄き出す。
 ――何でこの人はオレとこうしているんだろう?
 理由が分からない。
 自分は、こんなどこから見ても上等としか言えない人の隣にいれるような人間じゃないのに。
 高揚した心臓に、ズキリと痛みが走る。
 そうだ。自分の事なんて自分が良く知ってる。
 じゃあ、何故?
 グルグルと思い悩み始めた拓海に気付かず、涼介は楽しげに歩を進める。
「ほら、藤原」
 桟橋に向かい、拓海の手を握り締めた。
「あ、あの…」
 ささやかな触れ合いだ。
 けれど、彼に触れているという事実と、思ったよりも力強い彼の手のひらの力に、また心臓がドキドキと跳ねる。
「落ちるといけないからね」
 落ちるはずがない。そんなに鈍くはない。
 そうムッとしながらも、顔は裏腹に照れて俯いていた。
 それに、どこかでその言葉が言い訳なのだとも知っていた。
 水の微かなざわめきを聞きながら、二人で手を繋ぎ桟橋を歩く。
 ゆったりとした歩調。
 繋いだ指先から、自分の激しい鼓動がばれてしまわないかと心配した。
 指先から伝わる彼の温度。
 乾いていた手のひらが、夏の日差しのせいか、どんどん水気を帯びしっとりと拓海の手に張り付いてくる。
 けれど、気持ち悪いなど言う感覚はなかった。
 汗ばんでいる事で、逆に触れ合いが密になったような気さえして、さらに胸の鼓動は早まる。
 ずっと。
 ずっとこの桟橋が永遠に続けばいいのに。そう思う。
 けれどそれは願いでしかない。
 道に終わりはあるし、この手が離される時は必ずやって来る。
「藤原は…まだ18歳なんだってな」
「え?」
 手の感触にばかり気取られていた拓海は、不意に投げかけられた質問に、ハッとして顔を上げる。
「お父さんに聞いたよ。まだ高校生の18歳だって」
 拓海は戸惑い視線を彷徨わせた。
 そう言えば、涼介と父親は何やら楽しそうに会話をしていた。
 ほとんど車関連の話だったので、気に掛けていなかったが、自分の話までしていたのか…。
 気恥ずかしくて、また俯く。
「若いとは思ってたけど、そんなに若いとはね…。驚いたのもあるが、少々困ったよ」
 困る?
 何故だろうか?
 分からなくて、また見上げる。
 するとそこには、言葉通りに目を眇め、困った顔で自分を見つめる彼がいた。
「倫理的に、高校生に手を出すのはどうかな、ってね」
 リンリ…。
 意味がやはり分からず、首を傾げると、彼が本当に弱った顔で苦笑を浮かべた。
「けれど、理性を凌駕する感情があれば…免除されても仕方がないかなとも思う。
 幸い、お父さんの方には了承を得ているし…将来的なことを見据えれば、嫌でも年は取るのだから問題はないかとも思うんだが…」
 どう思う?
 と問われ、さっぱり意味が分からず、拓海は日本人特有の曖昧さで、取りあえず頷いた。
「はぁ…」
 それは相槌とも取れるような仕草だったが、涼介はそれで満足そうだった。
 どうやら涼介は父親と仲が良くなったらしい。
 それと自分が高校生であると言うことがどう繋がるのか、理解できないが、涼介が満足そうなのでそれで良いかとも思う。
 それより、どうも自分の事は色々知られているらしいが、拓海は涼介の事を何も知らない。
 赤城の白い彗星と言う異名を持ち、レッドサンズと言うチームのリーダーで、とても有名で凄い人なのだと言う事は知っているが、その他の事は分かってない。
 聞いたら鬱陶しがられるかな?
 でも、と勇気を出して拓海は尋ねた。
「あの…高橋さんは…」
 しかし問いかけたところで、言葉を止められる。
「涼介だ」
「え?」
「高橋、じゃない。涼介と名前で呼んでくれ」
「でも…」
 図々しくないだろうか?不安で上目遣いで見上げると、涼介が安心させるように微笑んだ。
「オレには弟がいるからな。紛らわしいだろう?」
 弟、と言われ、最初にバトルした相手を思い出す。
 名前まで覚えていないが、そう言えば高橋兄弟と呼ばれていた。
 兄が涼介なら、あれは弟なのだろう。
「ああ、あの…」
 わざわざ自分を待ち伏せて、何だかよく判らないけど怒って帰ってしまった人。
 その後もバイト先にも訪れたりしたらしい。
 嫌われてはいないのだろうが、目の前のこの兄と同じくよく分からない人だ。
 ぼやっと啓介の事を考えていると、握っていた手に力が込められた。
 痛みに、力を込めた相手を見ると、さっきまでの笑みが消え、少し不機嫌そうな顔になっている。
「あれはお前に何かと接触しているからな…。お前がもし女だと知ったら……いいか。絶対に二人きりで会うなよ。あいつは勘がいいから、絶対に勘付いてくる」
 どうやら、あの弟は勘が良いから女だとばれてしまう怖れがあるらしい。
 それは拓海にとっても本意ではないのと、真剣な表情の涼介に気圧されるように、拓海はしっかりと頷いた。
 頷いた拓海に、涼介は満足そうに微笑む。
「よし」
 そして、桟橋の上で。
 他に観光客の目もあったはずなのに。
 涼介の手が、繋いでいた指を外し、拓海の髪に向かう。
 ふわりと、優しく撫でられ、少しだけうっとりと目を眇めた拓海が体の力を抜いた瞬間、
「いい子だ」
 抱き寄せられ、そして目の前にはまた涼介の顔があった。
 長い睫の瞳が、ゆっくりと誘うように閉じられていく。
 それにつられるように、拓海の瞼もゆっくり下りていく。
 真っ暗になった視界の中、唇に温かいものが触れてきた。
 それが何であるのか?
 もう分からないほど、拓海は無知では無かった。

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