キスの理由

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「誰に?」
 心底、意味が分からないとばかりの涼介の言葉に、拓海はムッと唇を尖らせる。
 男の人のずるさなんて、茂木の彼氏の話で立証済みだ。
 何も知らないと思ってごまかされてなんかやらない。
「…涼介さんにです」
「俺に?…彼女?」
 眉を顰め、逆に何を言っているとばかりに見つめられ、拓海の中の怒りは増す。
「白ばっくれないでください。彼女、いるんでしょ?」
「……まぁ、いるにはいるが…」
 ほら、やっぱり。
 ぐ、と込み上げてきた涙を堪え、拓海は涼介を睨む。
 しかし。
「勘違いするな。彼女はいる。だがそれは…」
 ガリガリと、常に冷静な彼らしくなく、髪を乱暴に掻き毟る。
「お前だろう。藤原」
 逆に、何を言っているんだとばかりに挑まれ、拓海は一瞬怯むが、けれどごまかされてやれるほど拓海はもう愚かではない。
「………嘘ばっかり」
 ぷい、とそっぽを向きながらそう言うと、涼介は目を眇め、さらに肩を掴む腕の力を強める
「何が嘘なんだ。お前こそ、俺とのことが遊びだったとでも言うつもりか?!」
 何でそうなる。
 ムッとして、掴む腕を振りほどこうとするが、やはり振りほどけない。
 そんなところに、男女の力の差を見せ付けられたようで、ますます拓海の悔しさは増す。
「遊びなのは…涼介さんでしょう!?」
「誰が…!俺は本気だ。これ以上なくな!」
 常に冷静な彼らしくない、激昂した様子。
 通常ならそれで、彼の態度に嘘が無いことを察せられただろうが、今の拓海にはそれが分からない。
 ただ、涼介が嘘を吐いていると、自分を騙そうとしているのだと、そうとしか思えていない。
 頑なな拓海の態度に、どう言葉を重ねても伝わらない。そう察した涼介の吊り上がっていた眦が落ちる。
 ハァ、と深い溜息を吐いた後に、涼介は視線を落とし、そして。
「……頼むよ、藤原」
 ガクリと地面に膝を付いた。
 そして肩を掴んでいた両腕が、拓海の腰に回る。
「…な!涼介さん?!」
 ぐい、と引き寄せられ、腹部に涼介の頭が押し付けられる。
「遊びでも構わない。だが……傍にいさせてくれ」
 いつも見上げていた彼が跪き、そして自分の腹部に顔を埋め、頼りない声を上げている。
 拓海は目を見開き、そんな涼介を見下ろした。
「……涼介さん?」
 頑なだった心に、ふわりと綻びが生まれる。
「確かに…俺は強引だった。お前の意思を無視して、大人の手管でお前の身体を奪った。
 それに腹を立てているというなら謝る。だが…頼む。俺を嫌わないでくれ…」
 一体何が起こっているのだろうか?
 あの涼介が自分の前で跪いて許しを請うている。
 これは夢だろうか?
「な、に…言ってんですか、涼介さん…」
 遊びなのはあなたのはずなのに。
 嫌っているのは、あなたのはずなのに。
「…分かれよ、藤原…」
 ぐ、とさらに腰に回された腕の力が強まる。
 腹に押し付けられた頭部。その固さに急速に愛おしさが増す。
「…俺は…今まで誰かをこんなに欲した事は無かったんだ。不器用なのは認める。だが…俺の気持ちまで疑わないでくれ…」
 頭のどこかで、
『騙されちゃ駄目よ』
『男なんて嘘ばかりなんだから』
 友達の声を借りて、忠告する言葉が響く。
 だけど、
『騙されててもいい』
 そう自分の声で、叫ぶ気持ちがあった。
 震える指先で、跪く彼の頭に触れる。
 セックスの最中、何度も彼の頭部に触れることはあった。
 頬に当る髪の感触も。
 けれどそれはいつも熱に浮かされた時の事で、その手触りを味わう事は無かった。
 サラサラなのかと思ったのに、意外と髪質が固い。
 ふ、と自然に口元が緩む。
 涼介が好きだ。
 大好きだ。
 そんな気持ちが湧き水のように溢れ出てくる。
「…涼介さん」
 気持ちのままに、跪く彼の頭部を抱き締める。
 彼の体温が心地良い。
 キュンと子宮が疼き、身体の奥が彼を欲する。
「俺のこと…好き?」
 プライドが高くて、傲慢で。
 頭も良くて背も高くて、おまけにお金持ちで、走りの世界でもカリスマで。
 完璧だと、手の届かないと思っていた彼は、けれど今拓海の前に跪き許しを請うている。
 そして拓海は、手が届かないどころかそんな彼を抱き締めている。
 どんなに凄い人でも、彼は今拓海の腕の中なのだ。
 腹に顔を埋めていた彼が、顔を上げる。
 そして拓海の質問の意味を解し、目が合った瞬間に、彼の顔に朱が昇った。
 頬を少年のように真っ赤に染め、気恥ずかしそうに視線を逸らし、何度も唇を動かす。
 けれどその口から拓海の望む言葉は出てこなかった。
 だけど、拓海はそんな涼介の態度だけで満足した。
 言葉にしなくても、十分に伝わった気がした。
「涼介さんって」
 可笑しくて、自然と笑みが零れた。
 そんな拓海の表情を、涼介がぽかんとした顔で見上げている。
 そしてまた頬を染めた。
 もう、分かった。
「言葉がすげー足りないんだ」
 あんなに手は早いのに。
 そう付け加えると、涼介は気まずそうに「ゴメン」と小さな声で呟き、そしてまた拓海の腹に顔を埋めようとする。
 それを拓海は両手で阻み、顔を上げさせた。
 好きだ、とは思っていたけど。
 こんなに愛おしいと思うなんて。
 微笑みながら、拓海は見下ろす涼介へと顔を近付けた。
 無防備に自分を見上げる彼の唇に、自分のそれを重ねる。
 ゆっくりと目を閉じながら、拓海は初めて彼とキスをしたあの日の事を思い出していた。
 もしかしたら。
 あの時の彼も、自分に対しこんな気持ちになっていたのかも知れない。
 だとしたら、ついキスしてしまった理由も良く分かる。
 だってこんなにも愛しくて堪らない。
 抱き締めてキスをして、そして。
 自分の腕の中に閉じ込めてしまいたくなる。
 だったらいいな…。
 そう、拓海の胸に湧いた淡い希望が真実であったと知るのは、あとほんの少しの時間が必要だった。




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