キスの理由

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 藤原拓海はコンプレックスの固まりだ。
 自分が嫌いで嫌いで仕方が無い。
 女の子らしさの欠片もない高い身長。広い肩幅。そして薄っぺらい体。
 顔も平凡で、とりわけ崩れているわけでもないが、整っているわけでもない。
 初対面で女と気付かれることは無く、誰もが拓海を男だと思い込むのが常だった。
 毎日毎日、高校の制服を着るのが嫌だった。
 似合わないセーラー服。
 それを着て学校に行くたびに、みんなに笑われているかのような気さえした。
『お前がそれ着てると、まるで女装してるみたいだなぁ』
 と、幼馴染のイツキに、悪気の無い調子で言われたこともあった。
『何だよ、それ…』
 と、ムッとした様子で怒りながらも、本音は傷付いていた。
 自分がどう見えるのかなんて自覚していた。けれど、改めてそれが他からもそう思われているのだと、確認させられた瞬間でもあったのだ。
 そんな拓海だから、私服のときは男を装うようにした。
 バイト先でも、制服は男性用のものを着用する。
 だから今まで、学校以外の人間で、拓海が女だと……気付くものはいなかったのだ。

 彼以外は。

 不本意な気持ちから始まったバトル。
 やがて大きな波に浚われるように、回数をこなし、とうとうカリスマと称する人とのバトルにまで発展した。
 今までどこか嫌々だった運転と言う行為。
 それがあのバトルで自分の中が変化した。
 恐怖を覚え、負けたくないと、そう切に思った。
 上手くなりたいと、そう思ったのもあの瞬間からだった。
 負ける、そう確信させしていたバトルは、何故か勝利したのは拓海だった。
 何が起こったのか理解できず、思わず車を停車させ、彼に問いただしさえしていた。
「オレが追いついてくるのを待ってたのは…なんでですか?」
 そうだ。待ってたとしか思えなかった。
 あんなに速かったのに、途中から拓海を待つようにペースダウンした。
 だがそれを彼は否定した。
「オレがわざと後半ペースを落としたと思ってるのか?
 そいつはとんでもない見当違いだぜ…」
 困ったように、笑みさえ浮かべる彼に、尚も拓海は問い詰める。
「それじゃなぜ…?絶対にヘンじゃないですか」
 おかしい、おかしい。絶対におかしい。
 だから拓海は必死に食い付いた。
「別にヘンじゃないだろ?お前が自分でペースを上げたんだ。
 オレはフロントタイヤがあやしかったけど、ペースダウンを最小限に食い止めたつもりだ」
 その彼の言葉に、拓海は思いがけない事を聞いたとばかりにきょとんとする。
「タイヤ?」
 今まで、タイヤの食いつきなんて気にした事が無い。
 確かに、あまりズルズル滑らせると、父親に殴られることがあったので、怒られないよう、そして早く眠れるよう心がけた運転はするにはしていたが、あのバトルでそんな事を気にするような余裕は一切なかった。
 タイヤって走りに影響があるのか…。
 メカオンチを自認する拓海は、初めてそこで車の些細な不調が運転に影響する事を理解した。
 パチパチと目を瞬かせ、ぼんやりとする拓海に、けれど彼はもう一つ思いがけない言葉を発した。
「それとも…オレが手加減したと思っているのか?
 お前が若くて…そして…女だから」
 ぼんやりとしていた瞳が、驚きに見開かれる。
「……えっ?」
 今、何を言われたのだろう?
 信じられなくて、拓海は目の前の彼の姿を凝視する。
「言っておくが…それは絶対に無い。また、侮っていたなども決して無い。
 年齢や性別は関係ない。オレは、お前がどんな走りをするのか知っている。お前が…どんなに速いヤツかもな。
 オレは本気で走った。
 ただ、オレよりもお前が速かった。それだけの事だ」
 頭が彼の言葉を理解できなかった。
 呆然と、彼の姿を見つめていると、彼の端整な瞳が眇められ、そして拓海のすぐ目の前に立った。
「おい、聞いてるか?」
 ひらひらと、細く長い、けれど筋張った指が拓海の眼前で閃く。
「あ、あの…」
「どうした?」
 やっと反応のあった拓海に、彼がニコリと微笑んだ。
 ぶわ、と一気に拓海の頬が朱に染まる。
 何しろ、目の前の男は遠目からでも格好良い男なのだ。それがすぐ目の前で、おまけに微笑まれると爆弾並みの威力がある。
 けれど戸惑っている場合じゃない。
「そ、その…女って…何で…?」
 拙い拓海の言葉に、彼は「ああ」と納得したように頷いた。
「なぜオレが女って気付いたかって?
 まぁ…こう見えても将来医師を目指しているからな。男と女の違いを骨格的に見分けることができる。
 お前が…いや、君はあえて男のように思われたいらしいが、俺の目からしたら、その骨格は女でしかありえない」
 じわ、と拓海の胸に喜びが広がる。
 初めて、女って気付いてもらえた。
 それがこんなに嬉しいとは思わなかった。
 思わず、喜びに瞳が潤む。
 そして、これだけは言っておかないと、と思っていた言葉を彼にかける。
「あの…!」
「何?」
 改めて見ると、本当に綺麗な男だ。
 恥ずかしさと、気後れで、視線を逸らしがちになるが、頑張って拓海は自分より10センチは身長の高い彼を見上げた。
「オレの方が速かったとは…そんなふうには絶対に思ってませんから…」
 やっとの思いで発した言葉に、彼の目が一瞬見開き、そして困ったように甘く眇められた。
「フッ」
 吐息のような笑みさえ零し。
「そんな…頬を真っ赤にして目を潤ませて…必死な顔で言われるとな…」
 苦笑する彼の表情に、「気持ち悪かっただろうか?」と、拓海は慌てて顔を俯け両手で頬を覆う。
 頬が燃えるように熱かった。
「す、すみません…」
 恥ずかしくて、俯いたままの拓海の頭に、彼の言葉が降ってきた。
「まるで…告白されているかと勘違いする」
 え?と思う間もなく。
 頤に彼の指が触れたと思った瞬間、くい、と持ち上げられ、
「え?」
 気付いた時にはすぐ目の前に彼の顔があった。
「な……」
 なに、と続けたかった言葉の「に」は彼の唇に吸い込まれた。
 何が起こったのか、理解できず、間近にある彼の顔を凝視する。
 唇に触れる暖かいもの。ぬるりと滑り、唇が何かで舐められている。
 彼の閉ざされた瞳を覆う睫は長かった。
 鼻息を頬に感じ、ゾクリと背中に悪寒めいた感覚が走る。
 ゆっくりと、彼の瞳が開き、目を見開いたままの拓海と数センチの距離で目を合わせる。
 拓海の唇を舐めていた感触が離れ、まるで舌なめずりするように、彼が唇を舐めるのが見えた。
「…キスの時は目を閉じるものだ」
 そう低音の声に耳元で囁かれ、拓海は「ああ、そうか。キスをされたんだ」と、ぼんやりとする頭で理解した。
 そして誘われるように、ゆっくりと目を閉じると、また彼の唇が拓海を覆う。
「口…開けて…」
 言われるままに、閉ざしていた唇を開く。
 するとその僅かな隙間から、熱く滑ったものが口内に入り込む。
 歯列を割り、敏感な口腔へと浸入した舌は、拓海が今まで触れたことすら無いような箇所を辿り、そして拓海の舌へと絡みつく。
 強く吸われ、柔らかく撫でられ。
 だんだん背骨が蕩けていくようだ。
 まっすぐ立っていられず、目の前の彼の体に預けるようにもたれかかる。
 膝が震え、自力で立つ事すら出来ない。
 思う存分、拓海の口内を暴れまわった舌が抜け出し、覆っていた温かい感触が離れていく。
 名残惜しくて、思わず追いすがるように、彼の感触を求め舌を伸ばす。
 クス、と彼が甘く微笑んだ。
 もうおしまいだと、そう告げるように、長い指が散々吸われ、敏感になった唇をなぞり、舌を唇の中へと戻す。
 その感触に、また電流が走ったようになり、思わずよろめいた拓海の体を彼の腕が支えた。
「大人の男の前であんな顔はしない方がいい。
 こんな目に遭う…」
 意味が分からない。
 ただ、魅入られたように目の前の彼の顔を見つめていた。
「お前が女だと言う事は…ふふ…オレとお前だけの秘密だ。他のヤツらには絶対にバレるなよ。
 危険だからな…」
 危険…危険?何が?
 分からない。
 彼の言葉の意味が分からない。
 呆然とする拓海の頬を、優しく撫で、彼はもう一度拓海の唇にキスを落とす。今度は触れるだけの。
「オレの名前は高橋涼介だ。…ちゃんと覚えておけよ」
 たかはしりょうすけ…知っている。赤城の白い彗星。レッドサンズのリーダーで、すごい人だって、みんなが…。
「気に入ったよ。藤原拓海」
 甘く彼が微笑む。
 ゆるりと頬を撫でていた彼の指が離れていく。
 それと同時に、抱き締められていた体も遠くなる。
「あ…」
 思わず、声が出る。まるで身を半分に切り取られたかのようだった。
 不安に顔を歪める拓海に、安心させるように涼介は車に乗り込みながら笑みを浮かべる。
「また…会おうぜ」
 そして。
 彼はそのまま立ち去った。
 夢に浮かされたみたいな心地の、拓海を残して。

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