ERECTRICAL STORM

act.13


「すごいところですね、ここ」
 普通のアパートのようなものを想像していたので驚いたと、明るい笑顔で拓海が笑う。
 キョロキョロと内装を興味深げに見渡し、歴史と、日本とは異なる文化を伝える石壁に触れる。
「まさか警備員までいるとは思わなくて…絶対に会うんだって決めてたのに止められたから、ついムカついて…」
 恥ずかしそうに、警備員とのやり取りを説明するその顔は、以前の拓海のままだった。
 あのまま外にいるわけにもいかず、涼介は拓海を部屋に通した。
 一人で生活するには十分すぎる広さの部屋と、必要最低限で揃えた家具。
 疲れが溜まったときに、そこですぐに寝転がれるように買った二人がけの大きなソファに座るよう薦める。
 拓海は頷きながらも、そのシンプルな布張りのソファの背もたれに触れ、座らずに曖昧な笑みを浮かべた。
 涼介は彼のためにコーヒーを用意しながら、いつになく饒舌な拓海の背中を見つめる。
「…あの、さ、涼介さん」
 涼介はコーヒーメーカーを使わない。ドリップで炒れる。ゆっくりと豆を蒸らし、円を描くように湯を注ぐ。
 香ばしい豆の匂いが部屋に広がり、どうしても意識してしまう涼介の緊張を和らげた。
「突然来て…迷惑だった?」
 抽出し終わったコーヒーをソーサーに乗せ、運ぶ。テーブルの上にそれを置きながら涼介は首を横に振った。
「いや…ただ、よくここが分かったなと思ってね」
 座れよ、ともう一度拓海にソファを薦める。けれど拓海はそれに首を横に振った。
「聞いていい?」
「何だ?」
 一年半ぶりの彼は、まるで初めて会った他人のような感覚がある。
 久しぶりだからだろうか?
 いや、今の彼が、かつて涼介の知っていた彼と、あまりにも印象が違うせいだろう。
「ここに…涼介さん以外の誰か…座った?」
 質問の意図が分からず、涼介は首を横に振る。
「いいや。ここには誰も入れていない」
 すると拓海はあからさまにほっとした表情で笑みを浮かべた。
「そっか。だったらいいや」
 そしてさっきまでの遠慮など無かったように、遠慮なくソファに座り込む。
「涼介さんも座ろうよ。立ったままじゃ話しにくいからさ」
 ポンポンと、自分の横を叩き座るように薦める。
 二人がけのソファは一人で座るにはゆったりとしているが、二人で座るには互いの距離感が近くなってしまう。
 まだ戸惑いのある涼介にはそこに座る勇気がない。
 けれど、その戸惑いを拓海が吹き払う。
「ほら、座ろう」
 ぐい、と腕を引っ張られ、無理やりのように隣に座らされる。
 久しぶりに嗅いだ拓海の匂いと、そして微かに触れた腕の感触に、離れていた距離も、年月も関係なく涼介の胸が甘くざわめく。
 どこか戸惑いぎこちない涼介に、拓海がおかしそうにクスクスと笑う。
「変な感じ。前はさ、いつも遠慮するのは俺ばっかりで、涼介さんがそんな俺を引っ張ってたのに」
「そう…だな」
 涼介も苦笑する。まるで立場が逆転したかのような状況に、一番困惑しているのは涼介だ。
 いただきます、と美味しそうにコーヒーを飲む拓海に視線を移す。明るい表情の彼に、以前のような陰はない。
 彼は前へ進んでいるのだ。未来へと。過去になど縛られず。涼介や…啓介の望んだ通りに。
 それに寂しさもほんの僅かにあったが、けれど嬉しさの方がある。
 涼介は安堵の笑みを零す。
 だが安心すると同時に、湧いて出てきたのはそんな彼が何故いまさら自分のところに?と言う疑問だった。
「拓海」
 拓海がコーヒーカップに向けていた視線を涼介へと移す。
 じっと、その真っ直ぐで、大きな瞳に見つめられ涼介の心が甘く震える。
「何?」
「…どうして来たんだ?」
 まさか、日本にいられないような大変な事でもあったのだろうか?だがそう問いかける涼介の心配は杞憂だった。
「涼介さんに会いたかったから」
「………」
 驚いた。
 心臓の鼓動が止まりそうなほどに。実際に呼吸は一旦停止した。
 時間が止まったかのような錯覚を覚え、そしてゆっくりと肺から詰めていた息を吐き出した。
「涼介さん、渉さんに電話したでしょう?」
 アメリカに移って三ヶ月した頃だろうか。どうしても拓海の様子が気になり、秋山に連絡を取った時の事だ。
「…秋山が言ったのか?」
 あの時の秋山の返事は、『あいつは大丈夫だ。あんたが…望んだ通りにあいつは幸せになるよ』と言う、期待以上の言葉だった。
 そんな密かなやり取りを、知っていたのだろうか?
「その時に、涼介さん、渉さんにここの住所も教えたよね」
 万が一、と言う事もある。電話番号の他に、秋山に請われここの住所も教えた。もちろんそれは同じ人間を愛した者同士の信頼もあったし、自分から別れを告げておきながら、拓海との繋がりをどこか残しておきたかったと言う涼介の弱さでもあった。
 驚き、拓海を凝視する涼介に、彼が微笑む。
「俺が訊かせたんだ。渉さんに頼んで」
 …どう言う意味だ?
 さっきから拓海の言葉に、涼介の明晰な頭脳が停止したまま動かない。
 疑問ばかりが脳内を渦巻き、そして簡単である筈の答えを出させない。
「俺は賭けたんだ。涼介さんが…渉さんか…俺の親父に連絡を取ってくるか」
 拓海の手の中のコーヒーカップ。
 ボーンチャイナの白のそのカップを選んだ時、脳裏に思い浮かんだのは拓海がそれを手に取る姿だった。
 思った通り、この柔らかな白は彼に似合う。
 ふう、とまだ熱いカップの中に息を吹きかけ覚ます。
「…もし連絡が来なかったら…諦めた。けど…涼介さんは連絡してきた」
 コクリと、拓海がコーヒーを飲み込む。涼介は扇動するその咽喉の動きを見つめる。
 カップから口を離し、そして拓海はまた涼介を見つめる。
「俺は賭けに勝った。だから……」
 微笑む。泣き出しそうな表情で。
「涼介さんに会いと思った。だから来たんだ。それだけだよ」
 ドクドクと心臓が激しい鼓動を奏で喚きだす。握り締めていた膝の上の拳が、勝手に震えだす。
 緊張しているのだ、拓海の言葉に。彼の顔を見ていられず、視線を下へ向ける。
 だがそこで、涼介は拓海の足が涼介の拳と同じように、小刻みに震えているのを見た。
 緊張している、拓海も。涼介と同じように。
 拓海は大きく息を吐き、そしてまたカップに口を付けた。
「…涼介さんは考えすぎなんだ」
 そして、ぐい、とカップを煽り、残りの中身を飲み干す。
「優しすぎるし…心配性だ」
 カツンとソーサーとカップが触れ合う音が部屋に響く。
「自分の事より…俺のことばかり心配して…そして損するんだ」
 拓海の視線が上がる。
 ひたり、と熱を孕んだ眼差しが涼介を射た。
 射抜かれ、涼介は感嘆の溜息を零す。
 もう五年近く前。
 彼に初めて会った時も、こんなふうに煙になっていく啓介を見つめていた。
 激しく、熱く…けれど切なく。
 あの視線を見た時から、涼介の恋は始まっている。
 そんな眼差しで見つめられる啓介を、羨ましいと妬んだ心も。
「だから俺…遠慮するのは止めたんだ。啓介さんを見習うことにした」
 拓海の口から出た、啓介の名前にピクリと体が震える。条件反射のように弟を気にしている。拓海の中の啓介の存在を。
「俺は……啓介さんが今でも好きだよ」
 そして決定打のような言葉に、涼介の心が暗く沈む。だが……。
「だって、嫌いになる理由がない。…死んじまったから、喧嘩も出来ないし、心変わりすることも出来ない。だから…好きなまんまなんだ」
 拓海の手が、傍らにいる涼介に伸びる。その指先が、微かに震えている。
「……でも…傍にはいてくれない。…触れないし、抱きしめることも、キスも、セックスも何も出来ないんだ」
 ぎゅっとその手が涼介の腕を掴む。強い力で握り締められ、涼介は拓海の必至な想いを知る。
「最初はさ、涼介さん。あなたを啓介さんの代わりにしてた。寂しくて…似てるあなたを啓介さんの身代わりに、俺は啓介さんとの関係を続けてたんだ」
 涼介は握り締めてくる拓海の手に手を重ねた。
「…ああ。分かってた」
「…うん。涼介さんは分かってたよね。分かってるから…俺の望みを叶えてくれた。俺はそんな涼介さんに甘えて……甘えすぎたんだよね」
 拓海の奮えが全身に広がる。
「…拓海」
「…啓介さんは好きだ。だけど……気持ちは変わる。俺の中で、啓介さんは『好きな』人じゃなくて…『好きだった』人になってるんだ」
 肩を抱きしめる。細い肩だ。涼介よりも、一回りは細い体。
 この結論を出すまで、どれだけの葛藤を繰り返したのだろうか。
 涼介も苦しんだが、拓海もまた苦しんだのだ。
「…認められなかった。自分が…啓介さん以外を好きになるなんて。だから…ずっと涼介さんを見ないようにしてた。ずっと啓介さんに恋してる振りして…自分を甘やかしてた」
 頬に零れ落ちる涙。
 涼介は指でその滴を拭う。温かな熱。その滴さえ愛おしい。
 拓海が顔を上げる。その泣き濡れた瞳で涼介を見つめる。
「俺は………」
 …啓介。
 心の中で弟に呼びかける。
「俺は…涼介さんが好きだ。……愛してる」
 …拓海を俺にくれ。
 必ず幸せにすると誓う。だから…許して欲しい。
 啓介は笑うはずだ。『仕方ねぇな』と不満そうに、だけど微笑んで。
『幸せになれよ』
 とそう言うはずだ。
「あんたが日本を離れた時…すげぇショックだった。裏切られたって思った。だけど…すぐに分かった。裏切ってたのは、俺の方だって」
 初めて会った時から。
 ずっとだ。
 彼が好きだった。
 興味が恋慕へと形を変え、そして愛へと進化した。
 たとえ彼が傍にいなくても、涼介は拓海を愛し続ける。
「…もう遅い?あんたには俺は必要ない?それとも……前に言ったみたいに男同士はめんどくさい?」
 たとえ同じ想いを返されなくてもそれは変わらない。
 だが、同じ気持ちがあるなら…きっとこの想いはもっと深くなる。涼介は微笑んだ。ありったけの愛しさを込めて。
「拓海は…どう思う?前に言ったみたいに、俺が男同士のセックスを面倒だと本気で言ったと思う?」
 暫く考えた後、拓海は唇を尖らせ、そして首を横に振った。
「思わない。だって…あんたすごい…エロかった…」
 ハハハ、と何年かぶりに声を上げて笑った。心の底から。
 そして拗ねたように尖らせた唇にキスをする。軽く、触れるだけの。
 ささやかな挨拶のようなそれに、これ以上ないくらいに胸がときめく。まるで恋を覚えたての少年のように。
 そして拓海もまた、顔中を真っ赤に染め固まった。パクパクと金魚のように口を開閉し、涼介を大きな瞳を見開き見つめる。
「拓海のせいだよ。忙しくて倒れそうなのに寝る暇を惜しんでセックスしたのも、疲れてるのに次の日の朝はやけにスッキリしてたのも。それで、その夜は昨日の事を思い出してまたしたくなるんだ。…まるで麻薬だよ。お前に溺れて…毎日だって、いつだってしたかった。他の女や、もちろん男にだって性欲なんぞ一片たりとも湧かないぐらいに夢中だった」
 恋が、叶う。
 それがどんなに幸せな事か、生まれて初めて知る。
「…愛してる。拓海」
 ぎゅっと胸を掴む拓海の手に力が篭る。
 そしてドンと、拓海の額が胸に当たる。項垂れたその首筋は真っ赤だ。熟れたトマトのようなその色と艶は、麻薬よりも激しく、涼介の欲望を煽る。
「…女の人と…シテたってのも…嘘?」
「他の奴としてる暇があると思うか?」
 涼介の忙しさと、どれだけ疲労していたのかを、一緒に暮らしていた拓海が一番よく知っている。拓海は涼介の胸に額を押し当てたまま首を横に振りかけたが、すぐに止まり顔を上げた。
「………最後、のは?」
「最後?」
「……口紅…付いてた」
 ああ、とすぐに涼介は思い出す。そして眉間にくっきりと皺を刻み、舌打ちまで打った。
「…キスだけだ。お前を誤解させるために女といた痕跡だけ残せれば良かったのに、あの女…」
 精神的な疲労により、ぼうっとしていたところに不意を突かれた。二度とあんな失態は許さない。
 そんな涼介の表情に、漸く拓海が安心したように深く息を吐き、そして微笑んだ。
「……良かった」
 綺麗な笑顔だった。今まで見たことのないくらいに、晴れやかな笑顔。
 涼介の箍を壊すほどに。
 抱きしめ、その唇を貪った。
 折れそうなぐらいに力を込め、もう離れないと腕の力で語る。
 二人がけのソファに窮屈そうに座っていたのに、今は二人重なり倒れこむ。
 水音を立て唇に喰らいつき、舌を絡める。前はぎこちなかった拓海の舌の動きが、涼介に負けじと深く絡み付いてくる。
 シャツの裾から指を這わせ、久しぶりのその肌の感触を楽しむ。
 さっき欲望を煽られた艶のある首筋に噛み付き、涼介の跡を残す。
 クッキリと付いた、涼介の印。獰猛な獣のような表情で、満足げに涼介は笑んだ。
「……俺のものだ」
 うっそりと呟く。誰にも渡さない。啓介にも……。
 何度も何度も跡を付ける。
 組み敷いた体の下から、すんなりと伸びた腕が涼介の首に絡む。引き寄せ、そしてしがみ付く。
「…好き……」
 うわ言のようなそれが、耳に注ぎ込まれる。
「あんたが…好き、だ……」
 拓海の大きな瞳から涙が一筋、零れ落ちる。彼の目は涼介だけを見つめている。もう過去を彷徨うことは無い。
 涼介の目をしっかりと見つめながら、名を呼ぶ。
「…涼介さん」
 涼介は泣き笑いの表情で微笑み、そして愛しげに自分の名を呼ぶ拓海の唇を塞いだ。
 かつて、涙は苦い思いしか味あわせなかった。悲しみとともにしか知らない。
 けれど今は、それだけでないことを知った。
「……愛してる」
 万感の想いで告げた言葉は、同じ言葉と想いで返ってきた。
「俺も…愛してます」
 涙が零れる。
 喜びで。嬉しくて。幸せで。
 ――ただひたすら。
 涼介は拓海の体を抱きしめた。




2006.12.3

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