ERECTRICAL STORM

act.8


 家が荒れるのはそこに人が住んでいないから。
 それか、そこに住む人間の心が荒んでいるからだ。
 拓海がいなくなった事で家事をする人間がいなくなり、掃除もせず片付けもしない家は荒れている。
 だが代わりのように新たに家政婦などを雇い入れるつもりも涼介には無かった。
 それに、もうすぐ涼介自身も「ここ」は必要ではなくなる。
 両親と、そして啓介の三回忌が近付く。
 その日に、全てを終わらせるつもりで涼介は行動してきた。
 だがその予定よりも早く拓海が出て行ったのは誤算だった。拓海がいなくなってしまった事で涼介の気力が萎える。それを無理に奮い立たせ、何とか以前のままの生活を心がける。
 表向きはいつも通りの高橋涼介だろう。
 だが今の涼介は抜け殻だ。
 笑顔を作りながらも、心から笑ってなどいない。
 患者の死に、哀しむ振りを装い心から哀しんでいるわけでもない。
 何もかもが虚ろだ。
 まるで啓介たちが突然いなくなってしまったときのように。
 今の涼介には守るものが無い。
 涼介と言う一人の人間の全てを支えていたのは拓海だ。
 けれどもう、それも無いのだ。
 涼介は教授の机の上に封書を置いた。
 その表書きには、「辞表」と言う文字を書いた。
 受け取った教授は、あからさまに動揺し、涼介を見上げた。
「…どう言う事だね、高橋君」
 滑稽な芝居のようだ。涼介は無表情のまま口元だけで笑みを作る。
「お読みになったとおりですよ。辞めさせて頂きたいんです」
 ぐしゃり、と教授の手の中の封書が崩れる。
 破るのだけは勘弁して欲しい。もう一度同じ物を書くには涼介には時間が無さ過ぎる。
「どうしてだね、突然。娘とも上手く言っていると思っていたが…」
 彼女との事を断れば左遷すると脅迫してきた彼を涼介は知っている。
 だが、もし彼女を断っても、彼がそうしないだろうことを涼介は理解していた。
 失うには大きすぎる手駒。涼介は彼にとっての自分をそう認識している。だからこそ血縁関係に持ち込み、手元に引きずりこんだまま離さないようにしようと考えたのだろう。
 けれどその涼介の優秀さこそ、彼を手駒と言う枠に縛り付けることを由としなかった。
「いいえ、上手くなど言っておりません」
「…どう言う意味だね?」
「教授の顔を立てて、彼女とは数回会いましたが僕には彼女と結婚する意志など最初からないと言うことです」
 目の前の男の顔が青ざめる。娘の言葉を鵜呑みにし、上手くいっていると信じていたのだろう。愚かなことだ。
「で、では、これは娘のことを気にしてかね?それは気にしなくても構わんよ。娘との事がなくとも、君とは長く付き合いたいと思っているのだからね」
 予想通りの展開に、涼介は苦笑する。
 姑息で、狡くて、けれど浅はかな男。
 ずっと気付かなかったのか?本当に。
 涼介が三ヶ月以上も前から、ずっと動き続けていたことに。
「俺は御免です」
 人当たりの良い笑みを消す。
 代わりに出てきたのは、かつて敵を相手に見せてきた嘲笑だ。
「…下らない派閥の道具にされるなんて真っ平ですよ」
「た、高橋…お前…」
「怒りましたか?では大人しくこれを受理していただけそうだ」
 受け持っていた患者も、少しずつ引継ぎをし他の医師に任せた。表だっての行動では無いが、少しでも注意深く見ていれば自分の行動などすぐに分かっただろうに。
 それをせず、安穏と椅子に座りふんぞり返って注意を怠っていた方が悪い。
「ここを辞めてどこへ行くつもりだ!どこへ行っても、貴様など使えんようにしてやる!!」
 涼介は笑った。それぐらいの覚悟が無くて、自分がこんな行動を起こしているとでも?彼の愚かさに笑いしか浮かばない。
「構いませんよ。お好きにどうぞ」
 泰然とする涼介に男が逆に狼狽を見せた。
「ただ、貴方の権力とやらが、国外でも通用するのでしたらね」
 そう言うと、男の動きが止まった。
「な、何…」
「僕は医者です」
 涼介は男の手から落ちた辞表を拾い上げ、また机の上に戻した。
「幸いなことに、働ける場所はどこにでもあるんですよ。人間がそこにいる限り」
 震える男の手が、それを受け取った。
「こんな小さな場所に留まらなくても…それこそ世界中に」
 項垂れたまま男は言った。
「…好きにしろ」
 解放される。ここから。この町から。そして逃げられない想いからも。
「ええ。好きにします」
 ここは思い出が多すぎる。
 両親と育ち、啓介と過ごし、そして拓海と出会った町だ。
 ここでの仕事内容に不満を持ちながらも、どこかへ移る気がしなかったのは思い出と、そして拓海の存在の為だ。
 けれど今はもうそれは必要ない。
「最後に、余計なお世話かも知れませんが娘さんの事をよく観察された方が宜しいですよ」
 涼介は辞表とは別に、大きな封筒を男の前に差し出す。
「僕の家は多少ですが資産がありますから。お節介な親戚とやらが僕に近付く人間には勝手にこんな事をするんですよ。その事を黙ったままでいるのは心苦しいので、貴方にもこれをお渡ししておきます」
 その封筒の中身が、波紋を呼ぶと知りながらも彼に渡したのは、彼女に付き合い心的な疲労と不快が激しかった仕返しのようなものだ。
 封筒の中身は彼女の身上書。親戚などではなく、涼介自身が調査会社に依頼したものだった。
 封筒の中を開き、見たのだろう。
 男は青ざめ、驚愕の表情のまま固まっていた。
「では、失礼します」
 そんな男を尻目に、涼介は背を向け部屋を辞去した。



 教授の部屋を辞し、そのまま病院を後にするつもりだった。
 身の回りのものはもう整理済みだ。
 廊下を通り抜け、エレベーターホールで一般患者と共に上がってくるエレベーターを待つ涼介に、けれど看護師が声をかける。
「あ、高橋先生」
 その呼びかけで、周囲にいた患者や見舞い客たちも涼介を見つめる。涼介は舌打ちした。
 彼の退職は内密なもので、引継ぎを頼んだ同僚の医師だけが唯一それとなく察しているだけに過ぎない。
 今の涼介はネクタイを締めたスーツ姿と堅い服装ではあるが白衣ではない。もう涼介の中ではここでの医師と言う肩書きは捨てたつもりだったのだ。
 けれどその名で呼び止められ、一気にまた元の立場に戻った錯覚を起こし不快を感じる。
「……何か?」
 もう愛想よくする必要もない場所。
 涼介は感情のままに、冷めた声音で呼び止めた看護師を振り返った。
「あ、あの……」
 戸惑い、彼女は声を詰まらせる。けれど閊えながらも彼女は後に続く言葉を発した。
「…その、高橋先生にお客様が……」
「客?」
 訝しげに目を細める。
 一瞬、拓海の顔がよぎるが、それは無いとすぐに自嘲の笑みを浮かべた。
「どこに?」
「あの、玄関ロビーでお待ちだそうで…」
「そう。ありがとう」
 そして振り返りもせず、涼介は三年勤めた職場を後にした。



 外来の患者でごった返すロビー。
 客の名も聞かず降りてきてしまったが、けれど見てすぐに誰が呼んでいたのかを涼介は理解した。
 ぐるりと見回し、即座に目に留まる。
 強い視線で自分を睨むように見つめる男の姿を。
「……秋山」
 一気に気持ちが沈む。
 秋山は無言で、射るような眼差しを眇め、そして視線で外へと涼介を誘導する。
 歩き出した彼に付いて、涼介もまた歩き出す。
 彼には会いたくなかった。
 彼の存在は涼介を醜くさせる。
 けれど会ってしまった。いや、向こうから会いに来たのか。
 建物の外へと出て、そして入院患者の散策用に設えた公園のように整備された庭へと出る。
 涼介は前を歩く秋山の背中を見つめた。
 湧き起こるのは見たくない感情。ドロドロとした嫉妬だ。
 …もう拓海を抱いたのだろうか?
 あの、体を。
 あの肌を。
 そしてあの…心を。
 ギリ、と噛み締めた奥歯が軋む。目の前が真っ赤になって、我を忘れて彼に殴りかかるより先に、彼が振り向いた。周囲に人気はない。
「…急に呼び出して悪かった」
 向こうも、涼介に対し良い感情は抱いていないはずだ。
 なのに面と向かって謝罪する。
 その、どこか啓介と通じる真っ直ぐさが眩しく、以前は羨ましかった。
 けれどもうそれは無い。拓海がいなければ、そんなものを羨む必要は涼介には無いのだ。
「いや、暇してたからな」
 見つめてくる視線を外し、涼介は懐から煙草を取り出し、口に咥え火を点ける。
 煙を深く吸い込み、そして吐き出す。
「…煙草、吸うのか?」
 決意を孕んだ眼差しを浮かべていた秋山の視線が、その瞬間にふと揺らぐ。
 よく分からない奴だ、涼介は煙を吐き出しながら咥えていた煙草を手に持った。
「だから何だ」
 秋山が気まずそうに涼介から目を逸らす。
「…いや、前に啓介がアンタは吸わないって…」
 啓介。
 以前は焦燥ばかりを感じていたその名は、今の涼介には懐かしさしか思い浮かばせない。
 初めて、涼介の顔に作ったものではない自然な笑みが浮かぶ。
「止めてたんだよ。啓介が吸うようになったからな。あいつに吸うなって言いながら、俺も吸ってたら説得力がないだろう?」
 あれから、気付いたことがある。
 それはもしも啓介が生きていたなら、涼介は拓海を好きになる事は無かっただろうという事だ。
 いや、恋心は抱くかも知れないが、涼介はそれを無理にでも忘れただろう。
 両親が存命中なら、涼介の肩には家と親の期待がのしかかる。
 そして啓介の恋人であったと言う事実が無ければ、涼介は男同士というラインを一生越えることが出来なかっただろう。
 啓介があのまま生きていたなら、今頃両親を相手に拓海との仲を認めさせようとする彼らを応援していただろうか。淡い恋心など無かったものにして。
 自由な弟を誰よりも愛し、羨んでいた涼介だから。
「…あんたの煙草の吸い方、啓介にそっくりだ」
 呟かれた秋山の言葉に、涼介は眉をしかめた。
「似てないとお前が言ったんじゃなかったか?それに、啓介が俺に似てるんじゃない。啓介が俺の真似をしたんだよ」
 煙草を吸う涼介の真似をして、啓介もまた煙草を吸い始めた。
 涼介の煙草を盗み飲みしたことから啓介の喫煙歴は始まっている。
 いわば涼介が啓介に煙草を教えたようなものだ。
「それより、一体何の用だ?啓介の思い出話でもしにきたのか?」
 短くなった煙草を足で踏み、携帯用の灰皿を取り出し捨てる。
 涼介の言葉に、ハッとしたように秋山が向き直る。また険しくなる視線に、涼介は溜息を零した。
 この男が涼介の下へくる理由など一つしかない。
 そして今、涼介はそれに関する話を一切したくない。未だ、思いうかべるだけで心が凍りつくのに。しかも彼が今身を寄せている、この男からなど。
 けれど秋山は言った。
「…拓海のことだ」
 涼介は目を閉じた。瞬間、思い浮かんだのは最後の時に見たくしゃりと歪んだ泣き顔。
 ずっと閉じ込めていた感情が湧き上がる。
 胸に広がるのは一つの言葉。

 ――愛している。

 愛している。
 そう、泣きそうな拓海に向かって、言いたかったのだ。抱きしめたかった。
 いつだって、どんな時も、涼介は拓海にそう言いたかった。
 啓介よりも、他のどんな誰よりも愛している自信がある。
 その名前を聞いただけで、泣き出しそうなほどに強く。



2006.11.10

1