ERECTRICAL STORM
act.12
住み慣れた土地を離れ、新たな土地で新たな生活を築く。
始めは慣れないことに戸惑い、忙しさに追われ、何も考えることもなく過ごせた。
ただ目の前にある事だけを義務のように果たし、そして徐々にこの新しかった場所が馴染んでくる。
日本よりも厳しい冬の冷たさも、最初は上手く伝わらなかった言葉の壁も。
そして季節は巡り、ボストンの長い冬が終わり、春が来て夏が来る。
そして旅立った頃より早や一年半が過ぎた秋。
ボストンでも街路樹の木々が赤く色付き、夜にはコートを手放せない季節がやってくる。
その日は暖かかった。
インディアンサマーと言うのだと、行き着けのパン屋の主人が笑いながら涼介に告げる。
昨日まで着ていたコートを脱ぎ、煉瓦作りの家が建ち並ぶ通りを抜け、通いなれてきた家路を急ぐ。
涼介の住むアパートメントは、医療関係の建物が多いウエストエンドの近く、バックベイの地域に位置する。最初は高級住宅街でもあるここの治安の良さだけで選んだが、今は古い昔の町並みを残すこの場所に、愛着を感じ始めている。
日本とはまた違った趣のある街だ。
石畳の道を歩み、涼介は買ったばかりのパンの匂いを嗅ぎながら暖かい陽射しの下を歩く。
良い天気だ…。
空を見上げながら、ほっと息を吐く。
日本にいた頃は、いつも人の目を気にして窮屈に生きていたような気がする。
過去や世間体に縛られ、いつも自分を抑えていた。
だがここで涼介を縛る者は何もない。
ありのままに、みっともなくとも侮蔑や詰る視線、そして幻滅した眼差しを向ける者もない。いや、いたとしてもここでは気にならない。
やっと、ずっと止まっていた時間を歩き出せているような気がする。
拓海の事は今でも涼介の胸に甘い棘となって突き刺さっている。
焼けつくすように胸を焦がし、そして息も出来ないくらいに胸を締め付ける。
彼が傍にいない。
傍にいれない。
そんな事実に狂おしい夜を過ごすこともあった。
だが涼介は離れたことに後悔は無い。
今でも、あの選択は間違いでは無かったのだと自負している。
本来、彼は強い人間だ。
けれど自分がいることで、彼を弱くし立ち直りを遅らせてしまっている。
あれから、密かに秋山と連絡を取った事があった。
まさかとは思うが、彼が後ろ向きに生きているのではないかと危惧をして。
だが秋山の返事は涼介の期待通りのものだった。
『あいつは明るくなったよ』
『前は啓介の事に触れようもんなら、壊れちまいそうだったのに…今は笑うんだ。とても嬉しそうにな』
『あいつは大丈夫だ。あんたが…望んだ通りにあいつは幸せになるよ』
人間とは勝手なもので、その言葉にそれを望んでいたはずなのに悔しさを感じる。
けれど、涼介は自分の感情よりも拓海が大事だ。
だから…拓海が幸せなのは涼介にとっても喜びだ。
涼介は微笑んだ。
腕の中の美味しそうな匂いを立てるパン。
暖かな秋の小春日和。
肌寒い季節の、陽だまりのような暖かさは拓海を思い出す。
まるで拓海が傍にいるような錯覚を感じ、充実していながらもどこか寂しかった涼介の気持ちが温まる。
店が並ぶ並木を通り抜け、枯れ落ちた落ち葉を踏みアパートメントのある通りへ向かう。
だんだん近付いてきた頃に、そして涼介は何か騒がしいことに気付く。
「だから俺はあやしいもんじゃないって!」
瞬間、ドキリと胸が騒いだ。
記憶にある、大切な人の声に似ていたから。
だが話す言葉は英語だ。彼ではない。涼介は詰めていた息を吐いた。
近付くたびに言い合う声は大きくなる。
「何と言われても通せません」
その声は、涼介のアパートメントの警備員のものだ。
どうやら話の内容から、不審な人物を内部に入ろうとするのを警備員が押し留めている、そんなところなのだろう。
「帰りなさい」
しょちゅうと言う事はないが、住人の恋人や対人関係のトラブルからそんな押し問答が繰り広げれることも無いわけではない。
どちらにしろ涼介には関係の無いことだ。
「嫌だ!会えるまで帰れない!」
「…警察を呼びますよ」
「フン、呼べばいい」
いつもは警察の言葉でたいていのトラブルは収まる。けれど今回の相手はかなり勝気なようだ。
ふと視線を騒ぎの方向へと向け、…そして固まった。
「俺は絶対に帰らない。リョウスケさんに会うまでは」
英語の中に混じった日本語の名前。
それだけでなく、騒動の中心にいる記憶の中よりもしっかりとした面差しになった彼から目が離せない。
「……拓海…?」
思わず呟く。
するとその声に警備員と、そして拓海が振り返る。
少年の印象の強かった彼は、すっかり青年になっている。
だが髪や、瞳には変わらない柔らかさがあった。
「…ミスター、お知り合いですか?」
拓海と目が合う。驚愕のあまり目を逸らすことも、瞬きすらも忘れる。
拓海は涼介と視線を合わせたまま微笑んだ。
とても嬉しそうに。
幸せそうに。
陽だまりのような笑顔で。
「…涼介さん」
愛しそうに自分の名を呼ぶ。
一年と半年ぶりに聞く彼の自分を呼ぶ声。
夢を見ているのだ、自分は。きっと。
「ミスター?」
呆然としていた涼介は、警備員の言葉で我に返る。
「あ、…ああ。知り合いだ」
その言葉に拓海が勝ち誇ったように笑った。
「ほらね、知り合いだって言っただろ?」
彼の話す言葉は流暢ではないが、ちゃんとした英語だ。
以前の拓海は、英語など授業でも満足に喋れなかったと言っていたのに。
「ミスター、もし彼がご迷惑なようなら…」
「失礼だな、あんた!」
そしてこんなに強気でもなかった。
けれど…。
涼介は首を横に振る。
「いや、大丈夫だ。迷惑をかけてすまない」
本来の彼は、こんな感じだったのかも知れない。
まるで眩しいものを見るように、涼介は拓海を見つめた。
目の前の、少年だった彼が鮮やかに微笑む。
しっかりと自立した、大人の顔で。
2006.11.27