ERECTRICAL STORM
act.5
午後11時。
玄関の扉が開く音に、涼介は意識して目を逸らした。
目の前のパソコンを注視し、気付かない振りをする。
間を置かず、書斎の扉をノックする音がした。
「…どうぞ」
振り向かないまま返事をする。遠慮がちに扉が開かれ、涼介の背後に拓海が立ったのが気配で分かった。
「…あの、涼介さん…」
名を呼ばれ、涼介は聞こえるように溜息を吐く。
そして振り向き、背後の人物に目を向けた。
「お帰り」
飲みに行く、と言ったわりに拓海は素面に見えた。酒の匂いはうっすらするが、どうやらそれは全て移り香のようだ。
「…すみません、遅くなって」
遠慮がちな言葉に、キシリと涼介の心が軋んだ。
「いや、構わないよ。それより、こっちこそ悪かったな」
「え?」
涼介に謝られる理由が分からないのだろう。困惑の眼差しが涼介を射る。
「俺に遠慮して好きに遊びにも行けなかったんだろう?気付かなくて悪かったね。これからは拓海が好きな時に遊びに行って構わないから」
秋山の言っていた言葉は正論だ。
自分と言う存在が拓海をこの家に縛りつけ、満足に気晴らしも出来ない状態にさせている。
けれど拓海は勢いよく首を左右に振った。
「俺は、そんな事…!」
「だが俺の帰りなんて不規則だ。毎日待っていてくれるのは有難いと思うが、それでは息が詰まるだろう?」
そう言った瞬間、拓海の顔が泣きそうに歪んだ。涼介にはその表情が、隠された拓海の本心を感じさせた。
「好きにすればいいんだ。俺の世話なんて強制じゃないんだから、お前が無理することはない」
拓海は俯いた。その表情は見えない。
涼介はその頬に手を伸ばした。
少し、顔を持ち上げ表情を見えるようにすると、拓海の顔は泣く寸前の子供のような表情になっていた。
「…突き放してるわけじゃない。ただ、俺の存在がお前の重荷になっているようなら、無理はしないでいいと、そう言いたかったんだ」
拓海は俯いたまま小さく頭を振る。
「…俺は…無理なんて…」
涼介は拓海の頬から手を離す。
「今だけの話じゃない。これから先、そうなるかも知れないことを踏まえて言ってるんだ」
聡い大人の振りで理屈を振りかざす。本音は違うのに。
けれど脳裏には啓介と、そしてあの秋山の顔がちらつく。
啓介が叫ぶ。
『拓海は俺のものだ!』
と。
そして秋山が涼介を嘲笑しながら言い放つ。
『アンタはしょせんあいつにとって身代わりなんだよ』
「…涼介さんも…」
「え?」
心の闇の部分に触れていた涼介の意識が、拓海の声により浮上する。
「それは…涼介さんにとってもそうだって事ですか?俺が…重荷って…」
拓海が重荷?
そんな事は一生ないだろう。重荷になるのは自分だ。そう断言できる。
涼介は苛立ちから髪を掻き揚げる。珍しい涼介の苛立った雰囲気に、あからさまに拓海は怯えて見せた。
けれどそれを取り繕う余裕は、今の涼介にも無かった。
「…未来は分からない。そうだろう?」
そうだ。今はまだ良い。けれどこの先、拓海が間違いに気付いたときに、きっと拓海は自分を捨てられない。
優しくて、そして情が深いから。
それに甘えて縋りついてきたのは自分だ。
だからもしこの先の未来。
彼が離れたいと、そう僅かでも思ったのなら、手を離すのは自分でなければならない。
「…あの、…お、怒ってるんですか?」
俯いていた拓海が顔を上げる。その目には先ほどまでの怯えはなく、逆に問い詰めるような意思が見えた。
「怒る?何に?」
拓海には怒っていない。怒りを覚えているのは、情けない自分に対してだ。
「…渉さんと…飲みに行ったから」
涼介は苦笑した。
それは怒りではない。嫉妬だ。もちろんそれは感じている。けれどそれを正直に言えるなら、今のこの状況にはならなかった。
「別に構わないよ。会社の人間と交友を深めるのは必要なことだろう?」
「でも……」
「俺は怒っていない。それでいいだろう」
涼介は拓海に背中を見せた。またデスク上のパソコンに目を移す。
だがその背中に追い縋るように、拓海が叫んだ。
「でも渉さんは啓介さんの友達です!」
…啓介。
拓海の口からその名は聞きたくなかった。
「俺が、そのこと黙ってたから、だから涼介さん、怒っ……」
ドン、と部屋の中に衝撃音が響く。
拓海の声が止んだ。
止ませたのは、自分の固められた拳が立てた机を激しく叩く音だ。
し、ん…と静寂が部屋中に響く。互いの冷静を保とうとする呑んだような呼吸音しか聞こえない。
「…悪い。これを急いで纏めたいんだ。だから静かにしてくれないか」
狡い。そして臆病だ。逃げて平穏を保とうとする。真正面からぶつかり破綻を恐れる。
背後から返事は無かった。
ただ、そっと静かに扉を閉める音が、微かに響いただけだった。
その夜は涼介は拓海の眠る寝室のベッドには行かなかった。
書斎に置かれた二人がけのソファに眠ることも出来ず横たわり、そして朝は拓海に顔を合わせることもせず夜明け前の早朝に家を出た。
足元の下の薄氷。
それがどんどん崩れてきているのが、今の涼介には判っていた。
だがどうする事も出来ず、ただ目を閉じる。
2006.10.9