ERECTRICAL STORM
act.7
香水の匂いを付けたまま帰宅する。
玄関のエントランス部分にだけ灯されたライト。リビングの灯りは消えている。いつもの事だ。
以前のように「ただいま」も言わず、鍵を開けドアを開く。
靴を脱ぎ、廊下を歩きながらネクタイを緩めた。
前ならば拓海がそのネクタイを受け取っていたが、もう彼は出迎えてくれることは無い。
リビングの灯りを点けると、キッチンのテーブルの上にはいつものように冷えた食事が残されていた。だが今日の涼介にはそれはいらない。済ましてきたからだ。
テーブルを横目に、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。コップに移し、一気に水を飲み込んだ。
…気持ちが悪い。
強い香水の匂いに、むせ返るようだった。
その匂いの元が近寄り、自分に身を寄せてきた瞬間、突き飛ばしたい衝動を堪えるのに必死だった。
そして…。
涼介は水により濡れた唇を、無造作に手の甲で拭う。
触れられた唇。未だ感触が残っているようだ。
化粧のした肌や香水を振りまく女に触れたのは何年ぶりだろう。
その相手への嫌悪だけでなく、彼女に対し鳥肌が立ったのはきっと涼介の心がまだ拓海に囚われているからだ。
口紅越しのキスの感触。媚びた笑み。
全てが不快感を煽った。
だが、これは通り抜けなければならない事態だ。今はまだ、これを耐えなければならない。
髪を掻き揚げ、疲労感から乱暴にソファに座り込む。
緩めたネクタイをテーブルの上に放り投げ、大きく溜息を吐いた。
目を閉じ、不快感を堪える涼介の耳に、カタリと微かな物音が聞こえた。
「……涼介さん」
一ヶ月以上振りに聞く、耳に優しい自分の名を呼ぶ声。
感じていた疲労や不快感が消える。
代わりに現れてきたのは、喜びと、そして堪らなく相手を欲する感情。
動揺する心を押し隠し、涼介は声のした方に振り向いた。
そこに見えたのは入り口付近で佇む拓海の姿だった。
「…何か用か?」
感情を押し殺しているため、固い声音しか出ない。それに拓海は躊躇ったように、動きを止める。
おそるおそる自分を見つめるその表情に、涼介はもう後戻りできない事を知る。
「あの…電話があって…その、三回忌のことで…」
三回忌。
ああ…、と涼介は溜息を吐く。忘れていた。
もうすぐ両親と弟が一緒に亡くなって三年目の日がやってくる。
それに合わせ、三回忌を予定していたのだ。
だがその打ち合わせは拓海と気まずくなる前に済ませてある。日々の忙しさと状況の変化に、すっかり忘れていたが雑事は全て業者に任せていた。問題は無いはずだ。
「…ああ。それが何だって?」
「え、と…聞いてないけど、日にちとかの確認をしたいからって…」
「…そうか」
三回忌の予定は一ヵ月後だ。もうそろそろ案内状などを出す時期のため、確認の必要があるのだろう。
「判った。それは後で俺から連絡しておく」
答え、視線を外す。だが用件を終えても、拓海はずっと入り口付近に佇んだままだった。もの言いたげに涼介を見つめる。
涼介はまた振り向き、溜息を吐く。
「何だ?まだ何か用か」
見つめた拓海の表情や眼差しからは、何の感情も窺えなかった。まるで三年前のあの日、葬儀の最中の時のように、虚ろに自分を見つめている。
「……食事…」
「え?」
「…食べないんですか」
涼介はチラリとテーブルの上の食事を見下ろす。
「ああ、済ませてきた。連絡しなくて悪かったな」
拓海は無言で首を横に振った。
「……俺が…勝手に作ったから…」
涼介は心の中で舌打ちした。
謝るな。怒れ。俺の身勝手を詰れ。
そう心の中で叫ぶが、けれどその思いは涼介の我侭だ。
「…そう、だな。暫くは必要ないかも知れない。だからもう作らなくていいよ」
酷い言葉だ。だがそれでも拓海は怒らない。
「…分かりました」
涼介は手の中のコップを握り締めた。そして胸の中に蟠るつかえを飲み干すように水を煽った。
一気に煽ったせいで、唇の端から水が零れ落ちる。それを手の甲で拭い、コップを机の上に置いた瞬間に、その腕に触れる感触を感じ目を見張る。
いつの間にか、佇んでいると思っていた拓海が跪き傍にいる。
そして俯きながら涼介の腕に触れ、ぎゅっと縋るように握る。
「…俺……」
拓海の手が震えている。見下ろす肩もだ。涼介はその細い体を抱きしめたい衝動を堪えた。
「…俺…邪魔、ですか?」
俯いたまま、小さく呟かれた言葉。
「…何故、そう思う」
本当ならば「そうだ」とすぐに肯定してやらなければならない。けれどこう答えたのは涼介の狡さだ。明らかな答えを出すのが怖い。どこか心の奥底で、欺瞞でも良い。拓海をこのまま縛り付けていたいのだ。
涼介の返事に、拓海が顔を上げ虚ろな表情のまま微笑む。
「…狡いね、涼介さん」
拓海が身を乗り上げてくる。涼介は動けずにいた。
久しぶりに嗅ぐ、拓海の肌の匂い。そして口紅など無い拓海の柔らかな唇の感触。
三年前は拙かった舌が、涼介に馴染み、覚えさせられ、全てを喰らい尽くすように口腔の中を這い回る。
涼介はその体に回したい腕を、その舌の動きに応えたい衝動を必死に押し殺し、人形のように何もせずにいた。
その無反応に焦れ、拓海の唇が離れる。
目の前に泣きそうに歪んだ拓海の顔があった。
「……こんなところに、口紅の跡つけてるくせに」
今日相手をした手入れされた指先を持つ女とは比べ物にならないくらい、荒れてかさついた指が涼介の唇の端をなぞる。
「…こんな…匂い、いっぱい付けてるくせに…」
拓海が泣きながら涼介の胸に顔を埋めてくる。
けれどすぐに涼介の体をドンと突き放し、睨んだ。
「…渉さんの言った通りだ。あんたは…啓介さんじゃない」
その瞬間、涼介の心が冷たく軋んだ。
まるで鋭利な刃物で勢いよく切られた気分だ。
「…何も言わないんだ」
何も言えないんだ。
「最初から…間違ってたんだよね、俺たち」
そうだな。その通りだ。
涼介は凍りついたように動けない。衝撃が多すぎて、涼介の全ての動きを封じている。
拓海の声を間近で聞いているはずなのに、どこか遠くで喋っているかのような感覚があるだけだ。
「…出てくよ、俺」
望んでいたはずの言葉が拓海の口から零れ出る。
自らそうなるように仕向けていたはずなのに、それを聞いた瞬間に涼介の心が粉々に壊れた。
もう、守るものは無い。
感情が死に、惰性ばかりが涼介の体を動かす。
「それで…いいんだろ、涼介さん?」
自分を見つめる拓海。その頬からは涙がとめどなく溢れている。
けれど感情の壊れた涼介には、それを止める術を知らない。
「ああ」
頷いた。
「それでいい」
ますます泣かせると知りながら、涼介は他人に見せる笑みを浮かべそう言った。
くしゃり、と拓海の顔が歪んだ。啓介の死後、見せたことの無い表情。そんな表情もあるんだな、と場違いにも涼介は見たことの無い新たな拓海の表情に嬉しさを感じる。
拓海は泣き顔のまま涼介に背を向けリビングを出た。
そしてそのすぐ後に、玄関のドアが開く音がして、車のエンジン音が響く。
リビングの窓から、涼介はエントランスを見ると、そこには見知らぬ車が止まっていた。
街灯の明かりで、うっすらと運転席にいる人物が見える。…秋山だ。
涼介は苦笑した。
「…何だ。最初から打ち合わせ済みか」
拓海が秋山の車に乗り込み、走り去る。
その事実に裏切られたような気分を味わうが、そう仕向けたのは自分だ。
ずるずると床に座り込む。
力が入らない。
もう涼介を支えるものは何も無い。
「終わった…な」
三年前。
枯れ果てたと思った涙が溢れる。
今も昔も。
涼介を泣かすのは他の何でもない。
拓海ただ一人だ。
2006.10.13