ERECTRICAL STORM
act.2
うっかり、携帯を落としてしまった。
カツンと廊下に落ちた音に、振り向くと自分よりも先に後ろに控えていた看護師がそれを拾った。
白衣の下に着込んだシャツの内ポケットにずっと入れてあったのが、屈んだ拍子に落ちてしまったのだろう。
「高橋先生。落としましたよ?」
弟が生きていたならば今頃は同じ年齢なのだろう若い女が、微笑みながら涼介に携帯を渡す。
その笑みに、媚が含まれていることを涼介は感じ取り、苛立ちを抑え苦笑しながらそれを受け取った。
「…ずいぶん古い機種ですね。それに、病院用のものではないみたいですけど…」
院内は携帯の電磁波が医療用の機械などに影響を及ぼすため、専用のPHSを使用する。だが彼女の手の中から奪い返した携帯は、そうではなかった。
詮索する看護師に、涼介は対外用の愛想笑いで答えた。
「判ってるよ。電源は入れてない。ちょっとワケありでね」
白衣のポケットに入れたままのPHSを取り出し、これが通常使用していないものなのだと暗に伝える。
女の顔が、今度は好奇心に輝く。
「あ、何ですか?もしかして彼女専用の携帯とか?」
こんなふうに不躾な詮索に合うことはしょっちゅうだ。
良い意味でも、悪い意味でも、涼介は目立つ存在であった。
医師と言う職業の上、院内の評価は優秀、さらに顔も良く身長も高く、おまけに資産も持っている。
そんな存在は、特に女性からのアプローチは受けやすく、この何年かで何度女性からのこんな目を向けられたことか。
だがそれが恋愛方面におけるものなら、涼介は笑ってごまかせた。
だがこの携帯に関しては笑えない。
涼介の笑顔が消える。
「…弟の形見なんだよ」
愛想の良かった男の、突然の突き放した空気に、目の前の看護師が凍りつくのが分かった。
「あ、あの、ごめんなさい…」
彼女の謝罪の言葉も聞かず、涼介は背を向け歩き出した。
きっとすぐに、涼介の悪評が広まるだろうが、それさえも構わない。
涼介は手の中の携帯を握り締めた。
葬式の後、涼介は両親と啓介の遺品を整理していて、これを見つけた。
弟の部屋のベッドの上に置かれた携帯。
明らかに、出かける際に忘れて行ったのだろう状況に、悲しみが落ちき始めていた涼介はそれを手に取り微笑んだ。
――笑う。
その行為はもう何日ぶりだろうかと言うぐらい、悲嘆以外に現れた自分の感情だった。
そして何気なく二つ折りの携帯のフリップを開き、涼介は今度は驚愕をその顔に現した。
携帯の待ち受けの画面に現れたのは、ふて腐れたような表情で、けれどその目に嬉しさを隠しきれない顔の少年。
あの日、火葬場で見たあの少年だった。
そして画面には、メールの通知を知らせる表示がされていた。思わず、ボタンを押し、メール画面を開く。
受信されていたのは弟が出したメールへのリターン。差出人の名前には「拓海」と言う名前。
『Re:ドライブ
あんたの運転は恐いんで嫌です』
そっけない言葉。だが涼介は送信画面を開き、弟が送ったのだろうメールの欄を見る。
ほとんどが、「拓海」宛へのメールだった。
アドレスの一番に「拓海」の名前が登録されている。それだけで彼が弟にとって特別な存在なのだと分かるが、涼介はそれだけではない事を直感で悟っていた。
悪い事と知りながら、弟が彼に宛てたメールの内容を見る。
飾り気の無い、けれど素直な啓介の言葉の羅列。
それらの言葉の大半に、友人に向けるものとは思われない、恋人相手に使うものが多かった。
『好きだ』『一緒にいたい』
それらの言葉に対する拓海の返事はそっけない。
けれど、紛れもなくそこには、恋人同士の甘やかな雰囲気が秘められていた。
思わず手が震え、携帯が床に落ちる。絨毯の上に落ちた携帯は、壊れることなく待ち受けの少年の顔を映した。
差別をするつもりも、理解が無いわけでもない。
啓介が、同性の少年を相手に恋情を抱いていた事に驚いた事は確かだ。けれどそれだけなら、こんなにも動揺はしない。
思い浮かぶのは弟の顔ではなく、脳裏に焼きついたあの少年の姿。
その少年と弟が、特別な関係にあることに、涼介は純粋にショックを受けていた。
悩んだ末に、震える指で啓介の携帯のアドレスを探り、「拓海」の番号を知る。
そして自分の携帯で彼に電話をかけた。
『………はい』
見慣れない番号に、不審さをいっぱいに表した少年の声が答える。
「藤原拓海君?…高橋涼介です」
名乗ると、電話の向こうで一瞬息を飲む音がした。
「…啓介の兄です。…分かるかな?」
初めて聞く少年のかすかな声は、涼介の予想通り、どこか心地好い響きを持っていた。
『…分かり…ます。いつも啓介さんから聞いてましたから…』
「そうなのか?」
『はい。…自慢の、アニキだって…』
拓海の言葉に、いつだって自分を慕い笑ったり、時には拗ねながら自分を呼ぶ啓介の姿が浮かんだ。瞬間、泣き出したい衝動に襲われ、けれどそれを堪えわざと明るい声を出した。
「…それは嬉しいな。てっきり悪口でも言われているのかと思ってたから」
けれどそんな強がりを壊すように、少年の声が涼介を突き崩す。
『違います!啓介さんはそんな事言いません!…いつだって、嬉しそうにあんたの自慢ばかりしてました』
じわり、と涙腺が緩む。
『…自分が捻くれてるから、あんたに、いつも迷惑ばかりかけてすまない、って…』
常の涼介なら、当たり障りのない言葉で返して感情を押し殺し決して本音を見せない。けれどこの少年の前では、そんな涼介のくだらないプライドは通用しないらしい。
「………っ」
唇が震え、上手く言葉が出てこない。嗚咽を堪えたような掠れた吐息だけしか発する事が出来ない。
『…あの…もしかして…泣いてるんですか?』
悲しみが広がる心に、じわりと不器用そうな声で気遣う少年の声が染みた。
『…すみません、なんか、俺…』
先ほどの威勢の良さとは一点、狼狽し気弱な声が涼介の耳に響く。
自然と、今度は口元に笑みが浮かび、啓介もまた、こんな気持ちになったのだろうかと考えた。
そして迷いが消え、心の中にあった考えがするりと口から零れるように落ちた。
「…会えないだろうか」
『え…?』
「君と…会って話したい」
『な、何で俺…』
「君が啓介の特別だから」
『…俺、は…』
「勘違いしないでくれ。責めてるわけじゃないんだ。ただ……」
この気持ちを言い表す上手い言葉を捜し、現れた単語に涼介は苦笑する。
「感傷…だな。俺は誰かと、啓介がいなくて寂しい気持ちを分かち合いたいんだ」
『………』
電話の向こうで、彼が言葉を無くしたのが分かった。
「…会えない…だろうか?」
窺うように問うと、電話の向こうで拓海が頷く気配がした。
そして遅れて、潤んだ声の彼の返事が聞こえた。
「……はい」
弟が好きだった少年に会いたい。
その気持ちは感傷なのだと思った。けれど、それだけでは無かったのを、その時の涼介はまだ理解していなかった。
病院を出て、駐車場に向かう。するとタイミング良く電源を着けたばかりのプライベート用の携帯が胸の内ポケットで震えた。
着信の相手は「藤原拓海」。かつての啓介の恋人で、そして現在の涼介の同居相手。
「…もしもし?拓海?」
最初は「藤原君」だった名前が、「藤原」に変わり、「拓海」になった。
涼介に「拓海」と呼ばせたのは拓海本人だ。
『啓介さんが呼んでたみたいに、俺を呼んでよ!』
泣きながら涼介に詰め寄り、そして泣き喚く唇を塞ぎ、「拓海…」と直に伝わるように囁いた。
あれからもう二年近くの歳月が過ぎている。
『涼介さん?今、大丈夫ですか?』
そして歳月は、遠慮がちでどこか硬かった彼の声音を甘いものへと変えた。
「ああ。今、終わって出たところだ」
『え?そうなんですか。じゃ、今日は早くに帰れるんですね』
「ああ。そうだな。あと三十分もすれば帰るかな」
『分かりました。じゃ、すぐにご飯作りますね。涼介さん、何が食べたいですか?』
まるで新婚家庭のような会話だと、胸に甘ったるい気持ちが広がる。けれどすぐに蘇るのは啓介の面影。
彼の、こんな声を聞くのは自分では無かった。
そして拓海もまた、言いたい相手は自分では無かったはずだ。
ズキリ、と心臓が痛み、電源を落としたまま胸ポケットに持ち歩いたままになっている啓介の携帯を重く感じた。
「…何でもいいよ。拓海が好きなもので」
『何でもいいが一番困るんですよ。はっきりして下さい!』
甘い会話。それに浸れない理由は、自分の中の啓介への罪悪感だ。
「そうは言ってもな…作る人にお任せしたいんだが…」
『じゃ、あっさりとか、こってりとか』
拓海の寂しさに付け込み、彼を手に入れた。
その自覚が涼介にはある。
二年前のあの時。
初めて拓海に電話をかけてすぐに、涼介は彼と会った。
高橋の自宅に彼を呼び、かつて両親と弟が喧嘩も繰り広げたリビングで拓海と顔を合わせた。
最初の鮮烈な印象とは裏腹に、明るいリビングの下で見た彼の姿は、普通のどこにでもいる少年に見えた。
聞けば、年齢は啓介より二つ下の高校一年。
品行方正とは言い難い啓介と、普通のこの少年の接点を聞けば、それは喧嘩だと言う意外な答えが返ってきた。
『俺…サッカー部にいたんですけど、そこでイヤな先輩に目ェ付けられて。で、俺、キれちゃって、その先輩殴ったら、そいつ後で人数集めてフクロにしようとして…そん時に、啓介さんが助けてくれたんです』
大人しそうに見えたこの少年の勝気な面と、そして啓介の名前を言うたびに現れる寂しそうな表情。それに涼介は目を奪われた。
普通だと思っていた彼の姿が千差万別に変化する。
彼を知りたいと、啓介のことを抜きにして涼介はその時に思った。
だから啓介の名前を理由にして、また拓海を誘った。
『また…会えないだろうか?』
そう告げると、少年は躊躇いがちに頷いた。
そして涼介の目を、あの真っ直ぐな眼差しで見つめたかと思うと、途端に目を伏せ、儚げな雰囲気を漂わせ呟いた。
『…いいですよ。俺も…寂しいから…』
拓海の言葉に、心の奥に隠していたはずの寂寥感を見破られたようで、涼介は自分より十は下の少年の体を抱きしめ、子どものように泣いた。啓介の名前を呟きながら。
拓海の前では涼介の矜持が全て取り払われる。むき出しの感情を晒され、生身の心を刺激する。
あれから二年。
キスしかしていないと言った啓介よりもさらに涼介は拓海の深くに押し入った。
そして家族が、長距離トラックの運転手をしていると言う父親だけと言う拓海に付け入り、立派な大人の仮面で彼の父を騙し、拓海を自分の手元に引き寄せた。
かつて家族四人が過ごした邸宅。
そこには今、拓海が家事手伝いの名目で住み込んでいる。
幸せな生活。
けれど、薄い氷の上に乗ったような生活だ。
家族を失い、付け込み騙すようにして手に入れた恋人。
失う痛みを知っているからこそ、手放さないために幾らでも狡くなれる。
「…拓海」
『…涼介、さん?』
黙りこんでしまった自分を気遣う優しい声。
これを手放さないためなら、自分のこの焦燥など捨てられる。
「…いや、何でもない。ちょっと疲れてるみたいだ。何か体力の付く食べ物がいいな」
『分かりました。じゃ、何か精のつくもの考えます。
涼介さん、忙しすぎですよ。仕方ないことだって分かってますけど、気をつけて下さいね』
「ああ。ありがとう、拓海」
電話を切り、空を見上げれば、青かった空が曇り、薄汚れた色になっている。雨が降る予兆のような空に、まるで自分の心のようだと涼介は自嘲の笑みを浮かべた。
2006.7.30