FAMILY
初めての言葉
ぼくの初めての言葉は「ママ」だったそうです。
そして兄の初めての言葉は「パパ」だったのだとお父さんが自慢していました。
初めての言葉とは、文字通りぼくたちが生まれて初めて喋った「言葉」のことです。
なぜぼくが今それを話題にするのかと言うと、ぼくの妹の初めての言葉がやってきそうだからです。
妹は今、1歳になりました。
初めての女の子ということで、生まれたばかりの頃はお父さんが大変でした。
兄にもデレデレのお父さんでしたが、この新しい妹に、お父さんは真夏日のアイスクリームのようにウザかったです。
「はぁい、美涼ちゃん、こっち向いて〜」
なんて言いながらビデオカメラを回すのです。
…バカじゃなかろうか。
そう思うのですが、確かにぼくの妹は身びいきと言うのを差し引いてもかわいいです。
妹はお母さんというよりぼくに似ています。
腹ただしいですが、つまりはお父さん似ってことです。
でもお父さんほど陰険な顔ではないので、お母さんの優しい血も確かに混じっているんだなぁと遺伝子の妙というものを感じます。
そして妹はまだ自我も芽生えない1歳ではありますが、外見はお父さん似ですが、中身はお母さん似だと思います。
なぜなら「ぽやん」としているからです。
兄や母の「ぽやん」と通じるものを感じます。
お母さんはそんな妹をよく「大丈夫かな?」と言います。
と言うのも、ぼくはもちろん知らないのですが、お母さんによると、
「晴海はね。普段はクゥクゥ眠ってて大人しかったんだけど、でもいったん愚図るとすごい大きな声で暴れたりしてたの。
で、隆介はね。暴れたりとかは無かったんだけど、なかなか寝付いてくれなかったり、好き嫌いが激しくて一回キライと思ったら絶対飲まなかったり、服でも着てくれなかったりしたの。
でもこの子は……」
ハァ、とお母さんが腕の中の妹を見つめて溜息を吐きます。
妹は相変わらずぽやんとしています。
ぽやんとしながら、ニギニギと手足を小さく動かせて、そしてぼくと目が合うとはにかんだように笑います。
…かわいいです。
さすがお母さんの子だと思います。
「大人しくって、いつもぼうっとしてるし。お腹が空いててもオムツが濡れてても何も言わないんだよ?ぼうっとしたまま愚図りもしないし。赤ちゃんなんてもっとワガママ言うものだと思ってたんだけど…大人しすぎて逆に心配だよ」
そういうものでしょうか?
ぼくにはよくわかりませんが、ぽやんとした妹は、お母さんに似ていて良いなと思うのですが、お母さんの目線ではそうでもないようです。
「お父さんには相談したの?」
腐っても医者です。
「うん。でも涼介さんは…別に情緒面で問題があるわけじゃないし…お前に似たんだろう、って真面目に受け取ってくれないんだ…」
悩むお母さんには申し訳ないのですが、正直ぼくもそう思います。
「あんまり気にすることないと思うよ?そのうち嫌ってほどわがまま言うようになるんじゃない?」
「だといいけど…」
ハァ、とまたお母さんは溜息。
そしてこのぼくの言葉は当たりました。
予言とも言います。
それはその会話の二日後のことでした。
「あ〜」
だの、
「う〜」
だのばかりだった妹の声が、どんどん言葉のようになって来た頃でした。
「これはもうすぐ言葉をしゃべるぞ。さぁ、美涼。パパ、だぞ。良いか、言ってごらん。はい、パァパ!」
妹を膝に抱え、ニヤニヤと語るお父さんは……不気味の一言に尽きます。
「ダメだよ、父さん。最初は僕なの!はい、言ってみようね。お兄ちゃん、だよ。おにいちゃん、って」
お父さんに負けじと、妹の顔をのぞきこんでニコニコ、天使のような笑顔で言う兄はとてもかわいらしかったです。
同じ行為なのに、片方には不気味さを。片方には微笑ましさを感じる。
この違いはいったいなぜだろうかと考えると、やはり簡単な話で、単純に対象への好悪の感情の差であるだろうと思います。
「もう〜、涼介さんたち!そんなふうにずっとワイワイ言ってたらうるさいですよ。ね、美涼」
妹の初めての言葉争奪バトル。
盛んにアピールするお父さんと兄。
そして静かな本命のお母さん。
もしくは…ダークホースで「りゅうにいちゃ」ってのも良いかな。
ぼくも密かに、そんな瞬間を楽しみにしていたのですが、それは全てある一人の人物によって壊されてしまいました。
それは玄関のチャイムの連打から始まりました。
その鳴らし方に、お父さんの額には青筋が。
ぼくは溜息。
兄と母は困った顔で曖昧に笑いました。
「よ〜ぅ、アニキ!拓海!晴海に隆介ェ!元気か!!」
やけに真っ黒に日焼けした啓介おじさんです。
今もレース関係の仕事に携わる啓介おじさんは、ずっと世界中を飛び回っているせいで滅多に会うことができません。
でもいつもいつも、
『ああ、懐かしいな』
なんて思うことがない稀有な人です。
お父さんはその理由を、
『いつも騒々しいからな。一日いるだけで一ヶ月も一緒にいるような気分になる』
と的確なことを言っていました。
「啓介さんも元気そうですね。今日本に帰ってきたばかりですか?」
優しいお母さんが、そんな啓介おじさんに話しかけます。
無視したら無視したで、それもまた騒々しいことになりそうなので、お母さんの行動は適切だと思います。
「おぅ。空港から直だよ。ほら、土産」
ドサリ、と手渡されたのは不思議なお面。
アフリカやアジアの部族などに伝わるような……大きなお面です。
いるだけで熱帯性高気圧な啓介おじさんは、お父さんの膝の上の妹に気付き、大きな声を上げました。
「うぉ!!デカくなったなぁ〜。これ、あれだろ?ミスズ!産まれたばかりの頃にちょっと見ただけだけど、そっかぁ、こんなに大きくなったんだなぁ」
とお父さんの膝の上から妹を奪います。
「こら、啓介!」
お父さんが怒りますが、けれど抱っこされた肝心の妹は大喜びでした。
キャッキャとかわいい笑い声を上げ、啓介おじさんの短い髪の毛を引っ張ったり、ほっぺたをペシペシ叩いたりしています。
「お?気に入ったか?おれはな。啓介だぞ。ケイスケ。覚えたか?」
ぼくは見ました。
確かに、妹がおじさんの言葉にコクンと頷くのを。
「まったく!勝手に持っていくな。俺の娘だぞ?怖かったなぁ、美涼〜?」
おじさんの腕からお父さんが妹を奪い返します。
そしてデレっとした顔で顔を寄せようとした瞬間、
ペチン!
と言う音が響きました。
「や!!」
妹のもみじのような手のひらが、お父さんの顔を押しのけています。
そしてお父さんの腕の中でぐるりと身体を返し、おじさんに向かい手を伸ばし、
「けぇちゅ!!」
と叫びました。
しん、と静寂が訪れます。
しかしそんな微妙な空気に気付かないのがおじさんです。
「お?お前、俺の名前言ったのか?賢いなぁ。もう俺の名前を覚えたのか?」
よしよし、と啓介おじさんが頭を撫でれば妹はさらに大喜びです。
「み、みみみみ美涼!パパは?パパ、だよ?パパって言ってごらん?!」
衝撃から立ち直ったお父さんが慌てて妹に詰め寄ります。
けれど妹はツーンとそっぽを向きました。
「けぇちゅ!」
「み、みすぅずぅ〜…!!」
恐ろしいことに、お父さんはそこでガックリと落ち込み粗大ゴミと化しました。
兄も、眼を潤ませおじさんを睨みます。
「美涼の初めての言葉、啓ちゃんが取ったぁ〜!」
「は?え?えぇ?!」
そしてようやく、啓介おじさんも自分の失態に気付いたようです。
蛇足ですが、もちろんぼくもムカついています。
ささやかな「りゅうにいちゃ」の夢を、おじさんごときに壊されてしまったのですから。
「わ、悪ィ!別にわざととかじゃなくてさ…あ、ほら、お前もうパパんとこ行け…」
と、おじさんが妹をお父さんに渡そうとした瞬間…。
大人しいと心配していた妹が。
ワガママ一つ言わなかった妹が。
「やぁ!けぇちゅぅ〜!!」
え〜ん、と大きな声で泣き出しました。
そしてしっかり、啓介おじさんの腕を離しません。
それにつられて兄も泣き出しました。
嫌なことに…お父さんまですすり泣いています。
ぼくも…ほんのちょっとだけ泣きたい気持ちになりました。
大混乱の中、今の状況を見てお母さんがポツリと呟きました。
「大人しいんじゃなくって…今までどうでもよかっただけだったんだね…」
つまりは興味の幅が狭くて、他への関心が薄いのだということでしょう。
その唯一の興味が啓介おじさんであるという事実は、ぼくら家族に衝撃をもたらしました。
そしてぼくは、妹は外見がお父さん似ですが、中身はお母さん似なのだと、つくづく思い知らされました。
2007.8.25