元気ですか?
act.9
元気ですか?
未来の俺。
未来の君は。
まだ俺が呑気に笑っていた頃。
がむしゃらで、恐いもの知らずだったあの頃。
何となく、未来の自分たちを想像したことがある。
プロになり成功する。
言葉にするには簡単なそれが、現実でも簡単に行えると思えるほど楽天的では無かった。
困難はあるだろう。
けれど、俺はきっと笑っていて、そして分野は違えど、あいつも同じ世界で同じように笑っているのだと、そうバカみたいに信じていた。
あの頃想像していた未来と、今の俺たちは違う。
俺は罪悪感を払拭するために、自分を追い込むように走りの世界に浸りこみ、あいつはプロにはならず、母親になった。
五年と言う月日は、今思えば俺たちには必要な時間だったのかも知れない。
俺の手を恥じらいながらも、握り返してきた藤原に、何となくそんな事を思う。
藤原家の横に車を停め、降りる藤原に手を差し出した。
あの頃の俺のままなら、あいつに手を差し出すことをせず、一人でさっさと歩いて行ってしまっただろう。
あの頃の藤原のままなら、この手を握り返さず、怒ったように俺を置いて一人で歩いて行ってしまっただろう。
寄り添えるようになったのは、離れていた時間にお互いがどれだけ必要なのかを、そしてくだらない意地や何かで失えないと、そう思い知らされたからだ。
ガラガラと引き戸の扉を開け、中へ入るとすぐに作業場の奥の茶の間(と呼ぶのが正しいだろう)が見えた。
「……ただいま」
藤原が、見える親父さんの背中に向け声をかけた。
俺は藤原の隣で、頭を下げる覚悟をする。
けれど、親父さんは陽気に俺たちを振り返り、
「おぅ、早かったな」
と言葉を返した。
その飄々とした様子から、多少拍子抜けをしながら、俺は手土産代わりに渡そうと、途中で購入してきた日本酒を親父さんに手渡そうと、差し出した瞬間、テーブル(ちゃぶ台と表現した方が良いのか?)の上に、同じ銘柄の酒がもう置かれていることに気付いた。
そしてテーブルの上には、一人分では絶対に無いだろう鮨の桶。
察しは悪い方ではないし、ある程度予測はしていた。
「親父、どうしたんだよ、その鮨…」
ぽかんと、藤原がテーブルの上の出前と思われる鮨を指差し目を眇める。
その答えは、親父さんではなく、茶の間の奥から現れた人物により答えられた。
「俺が頼んだんだ」
にっこりと、微笑み湯飲みを持った兄がそこにいた。
思わずと言った風に、藤原が「ひっ、涼介さん!」と悲鳴めいた声を上げた。
そしてピシリと、背筋が伸びる。
その気持ち、良く分かる。
俺は奇妙なシンパシーを藤原に感じながら、手のひらにじっとりとした汗がにじむのを感じていた。
藤原家の狭い茶の間に、いま五人の人間が座っている。
「母ちゃん、母ちゃん、このスシすっげうまいんだぜー。回ってないスシってこんなにうまいんだな」
「け、啓太!」
貧乏を恥とは思わないが、キラキラとした目で食い意地の張った事を言う息子に、俺は紛れも無くこいつは俺の息子だよなと実感する。
俺もかつて、兄に何度もあんな風に同じように感動を伝えていた。
同じように兄も、昔を思い出したのだろう。
啓太を見る目が優しいものになっている。
かつての兄は、あんな風にキラキラと伝える俺に「今頃気付いたのか、啓介?」と冷ややかな眼差しを返したものだが、兄弟ではなく、甥にまで血縁が離れてしまうと、兄の冷気は和らいでしまうものなのだろうか。
はしゃぐ啓太は、十分にこの場の空気を分かっている。
分かっていて、あえてはしゃいでいるのだ。
俺は親父さんに向き合った。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
頭を下げると、親父さんがめんどくさそうに顔を顰めた。
「…かしこまった事は苦手なんだ。こいつが欲しいなら、勝手に持ってきな」
親父さんの物言いに、「そう言うわけには…」と言い募ろうとした俺に、さらに親父さんの言葉が続いた。
「意地っ張りだし素直じゃねぇし。おまけに色気も全然ねぇ、図体ばかりデカい娘だ。だが、そんな娘でも俺としちゃ心配でね。ちゃんとした嫁の貰い手があるのかってな」
ぐい、と酒を飲み、コップをコトンとテーブルの上に置く。
親父さんの目が、遠いところを見つめた。
「アンタの走りを見れば分かる」
手酌で、コップに酒を注ぎ、また口元へと持っていく。
「だから、うちの娘にしては上等なのを捕まえたと、そう思ってるよ」
俺はまた頭を下げた。
「…ありがとうございます」
だが。
でも。
その後に言葉が続く。
俺は、藤原に対し、取り返しの付かないことをした。
悪戯にあいつを振り回し、子供が出来たあいつを捨てた形になっているのに。
それでも良いのだろう?
「…まぁ、確かに。いきなりガキが出来たって言われた時には、多少な…」
ぐ、と言葉に詰まる。
「だが、その兄ちゃんに言われてな」
親父さんが、俺の背後で無言を保っていた兄を見る。
藤原も知らない事なのだろう。不思議そうに、啓太の相手をしていた藤原が兄を窺っている。
「申し訳ありません。あなたの娘さんと、俺の弟。二人を試させていただきます、ってな」
「…試す?」
チラリと兄を窺えば、そ知らぬ顔でカッパ巻きなんぞを食べている。
「涼介さん、それ一番まずくね?」
啓太が兄に話しかける。
いつの間に、涼介さんと呼ばせるようになったのか?
俺は未だにオッサンと呼ばれているのに…。
「素朴な味だろう。だから好きなんだ。物事も、何もかも、シンプルが一番だ。そう思わないか?」
「……よくわかんないけど、俺はウニのが好き」
兄と息子のやり取りに、俺は全てを察した。
……そうか。
俺は…俺たちは試されたのだ。
複雑に絡み合った、感情の糸を解きほぐすために。
試練を与え、乗り越えさせようとした。
あのまま、例えば、子供が出来たと知ったなら、俺はきっとコイツと結婚しようと言っただろう。
自分の気持ちが見えないままに。
そしてコイツはそれを察し、拒んだだろう。
素直になるには、始まりが悪すぎた。
たとえ、上手くいったとしても、最初に生まれたしこりは残り続け、きっといつか俺を、俺たち蝕んだだろう。
そして俺の夢をいつか壊しただろう。
走ると言うことを。
純粋に向き合う強さを、あの別離で学んだ気がする。
絡み合った糸を解すため、あえて兄は俺に嘘を言った。
藤原を傷つけたのだと言う、事実をこれ以上なく効果的に知らせるために。
現実に、堕胎と言う言葉は俺を打ちのめした。
あの時、俺がそれを乗り越え、藤原を迎えに行く未来を、きっと兄は希望していた。
けれど、弱虫な俺は、打ちのめされ藤原の前から姿を消すことを選んだ。
「……遅くなって…申し訳ありませんでした」
俺は頭を下げた。
頭を畳に付け、土下座する。
コトリと、また親父さんのコップがテーブルの上に置かれる音がする。
「必ず迎えに来る、そう、思ってたからな」
だから、と言葉が続く。
「気にすんな。あんたに頭下げられると、居心地が悪くてかなわねぇ」
頭を上げると、藤原は何が起こっているのか理解できない顔で、俺と親父さんを交互に見ている。
そして困った末に兄を見たが、兄は初めて会ったはずの甥っ子と車の話に夢中で藤原を見返すことは無かった。
「…何か…よく意味がわかんねぇんですけど…」
置いてきぼりにされ、ふてくされたように唇を尖らせる。
ふ、と俺は笑い、藤原のふくれた頬を引っ張った。
「俺がろくでなしだったって話だよ」
嫌そうに俺の指を避け、藤原はまた唇を尖らせる。
「全然意味分かんねぇ」
啓介さん、ろくでなしじゃねぇし。
そう続いた言葉に、胸にじんわりとしたものが広がり、けれど「バカだな、こいつ」と苦笑する。
「そんで、お前がバカだったってぇ話だよ」
俺が思っていた事を、親父さんが口にする。
すると、ますます藤原の頬が膨れた。
「バカじゃねぇし!」
いや、バカだ。
散々俺に酷いことをされながら、何で俺をろくでなしじゃないって思えるのか。
「ろくでなしとバカか…。ぴったりだな」
こちらの話を聞いていないと思っていた兄が、視線を啓太に向けたままにっこりと微笑み口にする。
兄に言われると反論できないのか、唸ったまま藤原が黙る。
「それって母ちゃんとオッサン、お似合いだってこと?」
啓太の声に、兄と、親父さんと、そして俺が笑った。
「ああ、そう言うことだ」
答えたのは兄だった。
嬉しそうな笑顔だった。
ずっと兄に心配させていたのだなと、兄に対してもろくでなしだった俺を自覚した。
「…やっぱ意味わかんねぇ」
不服そうにぼやく藤原が愛しかった。
まわり道をした分、俺はきっと強くなっている。
大事な人たちを守る力を、きっと俺は持てている。
「拓海」
名前を呼ぶと、きょとんとした大きな瞳が俺へ向けられた。
この瞳から目が離せないと思ったのはいつの頃からだろう?
最初からそうだったのかも知れない。
ぼんやりとした覇気の無い瞳。
どうでも良いとばかりに遠くを見ていたその瞳を、自分へと向けさせたいと思った。
一目惚れ。
そんなことに気付かないほど鈍感だったのだ。
月並みな言葉だが、言いたかった。
「大切にするから」
そして、
「愛してる」
臭い言葉だ。
だけど、宣言したかった。
周囲に心配させたぶん、俺たちだけではなく、周りも安心させたかった。
そんな俺の言葉に、藤原は一気に首筋まで赤くなり、親父さんを、兄を、最後に啓太を窺い、拳を握った。
「何言ってんだよ、アンタ!」
頬に来る拳は警戒してはいたが、まさか鳩尾に来るとは思わなかった。
呻きながら、藤原の意地っ張りは不治の病かよと、そんな事を思う。
けれど涙目で見た藤原の表情に、意地っ張りではなく、恥ずかしがり屋なのだと理解した。
そんな潤んだ瞳で俺を見るな。
皆の前だってのに、キスがしたくなる。