元気ですか?

act.6




 強張った顔で俺を凝視するあいつがそこにいる。
 五年前と変わらず、見えない壁を作り、俺の侵入を許さない。
 ケイタと呼ばれた子供が母親の元へと駆け寄っていく。
 髪は、ほんの少し伸びただろうか。頬や、体のラインに女性らしい丸みを帯び、以前よりもきれいになっている。
 藤原が子供を庇うように前に立つ。
「何しに来たんですか?」
 強張った声。
 子供が厳しい態度の母親を不安そうに見上げている。
 俺は零れる涙を拭うため、眼鏡を外し、手の甲で乱暴に拭った。
 何と言えばいいんだろう?
 何を言えばいいのだろう?
 色々考えていたはずなのに、いざ目の前にすると一切言葉が出てこなかった。
 緊張した空気の中、言葉を発したのは俺でも、藤原でもなく、声変わり前の子供の声だった。
「あ。高橋啓介」
 眼鏡を外した顔で、気付いたのだろう。背後に隠そうとする藤原の後ろから、ひょっこりと子供の顔が覗く。
 生意気そうだった顔を輝かせ、嬉しそうに俺を見ていた。
 そして藤原のシャツの裾を引っ張り、見上げる。
「なぁ、母ちゃん。高橋啓介だよ、高橋啓介。母ちゃんいつも応援してるじゃん。一番好きだって、いつも言ってるじゃん」
 子供の言葉に、藤原が気まずそうな表情で俺と、子供と視線を往復させる。
「ケイタ、黙って!」
「え〜。何で?母ちゃん、俺の名前、高橋啓介からもらったって言ってたじゃん。すげぇ好きなんじゃねぇの?」
 オロオロとうろたえる藤原の顔が、どんどん赤くなっていく。
 その時、漸く俺は自分が最初に何を言うべきなのかを理解した。
「…ありがとう」
 そう言った。
 伝えるべきなのは感謝の気持ちだ。
 子供を産んでくれてありがとう。
 こんな最低な俺を、許してくれてありがとう。
「ありがとう」
 俺の言葉に、藤原が眉を顰める。
「…どう言う意味ですか?」
「ありがとうって言葉しか出ねぇ…」
 また目が涙で滲む。
 俺はこんなに涙もろかったかな?藤原に関してだけ、俺の涙腺がおかしくなってしまうらしい。
「意味わかんねぇ」
 ぷい、と懐かしい仕草で藤原が唇を尖らせそっぽを向く。
 俺は、情けなく涙を零す目元を手のひらで覆いながら言った。
「藤原が一番好きなんだよ」
 見えないながらに、藤原が息を飲んだのが分かった。
「藤原がすげぇ好きなんだ」
「な、に言って……」
「下らない嫉妬で暴走しちまうぐらい…すげぇ好きなんだ」
 ああ、もう駄目だ。立っていられない。
 顔を覆ったまましゃがみこむ。
 まるでガキの仕草だ。
 でも、まぁ、いい。これが俺だ。もう藤原の前では、意地を張っていたくない。
「すげぇ好きで、けど、どうしていいかわかんなくて…ただ自分のものにしたくて…」
 抱けば、自分のものになると思った。
 けれど、だけば抱くほどあいつは遠くなった。
「い、いまさら…!」
 おれは目を覆っている手を外した。
 顰めっ面で俺を見るあいつがいる。
「今さら、何いってるんですか!あ、あの時…何も…何にも言わなかったくせに…!」
 じっと見ていると、藤原の顰め面が、くしゃりと歪む。
「…だから俺、てっきり…啓介さんに嫌われてるとばっかり…」
 つぅ、と藤原の頬を透明な涙が伝う。
 目の前にあったはずの、見えない藤原の壁が消えるのが分かった。
 いや、最初から無かったのかも知れない。
 俺が怯えて、踏み出せなかっただけで。
 震える藤原の肩に触れていいのだろうか?
 抱きしめてもいいだろうか?
 俺は立ち上がり、藤原の前に立ち、おそるおそるその肩に触れた。
 指先に藤原の熱を感じた瞬間、五年間、いやその前からずっと堰き止めていた感情があふれ出すのを感じた。
 力強く藤原を抱きしめ、互いに濡れた頬を摺り寄せる。
「……ごめん」
 俺の背中に、藤原の腕がまわり、同じように力が込められるのが分かった。
「…啓介さん」
 柔らかな身体。体温。藤原の匂い。
 それに漸く触れることが許された。
 しばらく二人で、時間を忘れたように抱き合っていると、視線を感じ、足元へと目を移した。
 子供が俺たちの足元で、じっと俺たちを…いや、俺を睨んでいる。
 藤原もその視線に気付いたのだろう。
 お互い、我に返ったように身体を離した。けれど手は離さない。
「なぁ」
 話しかけているのは藤原にだろうが、横目で俺を睨みながら言う。
「もしかしてさ、俺の父ちゃんって…高橋啓介?」
 子供の言葉に、藤原が恥らったように俯いた。
 その態度で、子供は答えを知ったのだろう。
 子供らしくなく、「チッ」と舌打ちし、続いて俺の足に衝撃が走る。
「おっせぇんだよ、バーカ!」
 蹴られたのだと気付いたときには、もう子供は翻って逃げるところだった。
 俺も思わず「チッ」と同じように舌打ちをし、そしてつい、
「この、クソガキ!」
 と怒鳴った。
 家の中へと逃げ込む子供から、捨て台詞のように、
「うっせぇ!クソオヤジ!」
 と言う声が届いた。
 詰る言葉のはずなのに、その言葉に父親と認められたようで、胸にじんわり熱いものがこみ上げる。
「…いでんですか?」
 そんな俺たちをぼんやり見ていた藤原が、いきなりそんな言葉を呟いた。
 意味が分からず、藤原を見ると、きょとんと首を傾げ、ほんの少し困ったような顔をしている。
「…啓太、啓介さんに似てるんですよね。言い方とか、反応とか。遺伝ですかね?」
「そうか?表情とか態度とか、お前にそっくりだけどな」
 そう言うと、藤原がムッとした顔をする。
「俺、あんなに生意気じゃないですよ!あれは啓介さんに似てるんです!!」
 どうだかな、と思いながらも、俺はあえて反論しなかった。
 今は藤原と喧嘩するより先に、したいことがあった。
「なぁ」
「はい」
 藤原が俺を見上げる。
 大きな、薄茶の瞳。
 その瞳に見つめられたかった。
 今、その願いが叶っている。
「ケイタ、だっけ?抱いていいか?」
 はい、と言いかけた藤原の言葉が止まり、俺を殴ったのは、その後に続いた俺の言葉のせいだ。
「…お前の後に」
 女だてらに拳で殴る、藤原のパンチはかなり痛い。
 だが、俺の愚かさの行為の代償と、そして五年間と言う時間。そして、藤原の照れ隠しなのだと思うと、その痛みも嬉しかった。
「あんた、そればっかり!」
 抱く、と言っても抱きしめるだけもあるだろうに。
 即、セックスに結びつくのは、俺の品行が悪いからか、それとも藤原もそれを望んでいるからか?
 期待には答えたくて仕方ないが、今は無理だ。
 屋外で、おまけにまだ話さなければいけないことがある。
 だけど、これぐらいは許されるだろう。
 俺は藤原を抱きしめ、そしてキスをした。
 触れるだけの軽いものから、徐々に深いものへと。
 藤原にキスをしたのは、セックスまでしたと言うのに、子供まで生ませたというのに、実にこれが初めてのことだった。



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