元気ですか?

act.1




 ガムシャラに始まった「走る」と言う行為が、やがて目的となり、仕事となった時、俺の中に芽生えたのは枯渇感だった。
 俺を良く知らない奴らは、ストイックだとそう評するが、俺を良く知る兄は、的確に「俺」を表現した。
 不器用、なのだと。
 自分でも自覚はある。
 真っ直ぐしか見えないから、真っ直ぐにしか突っ走れない。脇目も降らず、ただ走るだけ。
 夢中になっている時は、それで良かった。
 だがふと、プロの世界に身を置き、ある程度の実績を積み、自信の欠片のようなものが生まれると、周りを見る余裕も生まれる。
 その時に俺は気がついた。
 大事なものを、たくさん犠牲にしてきたことに。
 それは友人だとか、家族だとか、そして…大切な人だとか。
 周りの感情を思い遣ることが出来ず、身勝手に人を拒絶し、目的のために全てを蔑ろにしてきた。
 その頃の俺は、それで良いと思っていた。
 拒絶し、離れていく奴らなど、どうでも良いとさえ。
 自分をちゃんと理解してくれる人間だけが残れば良い。そう思っていたのだ。
 だが今になって漸く気付く。
 大切なのは、自分を理解し、支えてくれる人たちではない。
 自分が必要とし、大切に思う、たった一人なのだと。



 プロの世界に足を突っ込み、しかし最初はそれだけで食ってもいけず、バイトを挟みながらの兼業状態から五年後の今。
 漸く胸を張って、職業欄に「レーサー」と書ける。
 国内で何度かタイトルも取り、昔から騒がれることの多かったこの外見も合わさり、巷ではレーサーの前に「人気」と言う言葉まで付く様になった。
 だが例え形容詞が変わろうとも、俺が俺であることには変わりは無い。
 何度目か忘れた優勝。チームメンバーと共に祝勝会を上げたのは、浮ついた小奇麗な店などではなく、昔からよくあるカウンターが似合う居酒屋だった。
 洗練された空間など、20代前半で飽きた。
 27歳となった現在、人間味を感じさせる小汚いと評される居酒屋の方に落ち着きを感じる。
 グラスではなく、コップを傾け、乱暴にビールを煽る。
 レースと言う世界は概ね体育会系の男が多い。
 どうしても騒がしく、そして会話の内容も粗野になることが多い。
「なぁ、高橋はどうやって処理してんだ?」
 酒臭い息で問いかけられ、俺は顔を顰めた。
「お前、決まった女いないだろ?かと言って遊んでる気配もねぇし、どうしてんのかと思ってさ」
 プロの世界に足を踏み入れ、この質問を良く聞くようになった気がする。
 俺の見た目とは違い、女っ気が無いことがそんな疑問を抱かせるのだろうか?
「別に。自分で処理してるよ」
 素っ気なくそう答えると、質問してきた男とは別に、他の奴が大げさな声を上げる。
「マジかよ?空しくならないか。お前、モテるのにさー」
 言葉の裏に、『贅沢いいやがって』だの、『モテる奴はいいよな』と言う僻みの感情が見える。
 自分で処理することに空しさは感じない。
 他の女を身代わりにする方が、空しい。
 三年前は、こんな質問を毎度投げかけられるのに辟易したものだが、今はもう慣れた。
「モテねぇよ。いつも振られてばかりだ」
 これは嘘じゃない。
 俺の外見だけに寄って来る女は、優しくない俺に幻滅し去っていく。
 皆も、あいつも。
「…ああ、分かるかも。高橋にとって女にマメじゃなさそうだもんな」
 ビールのグラスが空いた。
 ガラスの表面に浮かぶ結露。
 冷えた雫を指でなぞりながら、俺はあいつを思い出す。
 しっとりと潤っているのに、冷たい。
 あいつはこんな感じだった。
 そんなあいつを熱くさせたくて、身体を奪い、そして。
 空いたグラスに気付いた奴が、俺のグラスにビールを注ぐ。
 そうだ。
 俺の行為は、こんな形でしかなかったのだ。
 相手のペースを考えず、悪戯に押し付けるだけ。
 馬鹿だったと、思う。
 そして今はもっと上手くやれたのかと問われると、変われない自分を自覚し、ただ俺はグラスの中のビールを煽った。
 グラスの中のビールが、やけに苦く感じた。



 あいつ。
 藤原拓海と会ったのは六年前になる。
 最初の印象はクソ生意気な高校生。
 その当時、少しは尖って来た俺のハナっ柱を叩き折り、兄以外には受けたことのない敗北を味あわせた。
 棒みたいにヒョロっとした、印象の薄い奴だと思った。
 しかし何度か顔を合わせるうちに、その目鼻立ちが整っていることや、男にしては柔らかな、甘い容貌をしていることに気がついた。
 そして中身は、気が強いかと思えば、ぼんやりとしていて頼りない。
 ガラでもないのについおせっかいを焼いてしまい、何度かあいつを怒らせた。
 最初は、弟のように感じていたのだ、俺は。
 けれど、兄が始めた関東最速プロジェクトで、同じチームに属した時、初めてあいつの性別が、認識していたのと違っていたのだと知り、その感覚が狂った。
 少年のような体型に服装。そして俺や、兄や、並居る奴らに勝利したと言う事実。それがあいつを男だと誤解させた。
『なんか…男だと思われてるなーとは思ってたけど、しょうがないかなーと思って』
 女なのに、男扱いされれば気分が悪いだろう。ましてや多感な18歳の少女だ。
 気まずそうに誤解していた事を謝罪する俺に、あいつはケロっとした顔でそう言った。
 けれど、俺はあいつのその言葉に罪悪感を抱いた。
 俺だけじゃない。
 全ての奴の、あいつに対する誤解にだ。
『ゴメン』
『え?』
『…俺らの…少なくとも俺の中にはさ、自分を負かすような強いヤツってのは、年上で、俺がどうしても適わねぇヤツって思い込みがあるんだよ。
 その思い込みはさ、年下の、しかも女じゃあり得ないとか、思ってんだ。
 けどさ、それってお前に対して、ずいぶん失礼な話だよな。年上だから、とか、男だから強いってワケじゃねぇのにさ。
 ただ…そう。お前が強かっただけなのにさ』
 あいつの目がパチパチと、驚いたように見開き、瞬きを繰り返した。
 その時の俺は、謝罪しながら、いつも眠たそうにぼんやりとしていたあいつの目が大きなもので、そのまま零れ落ちてしまうのではないかと、場違いな事を思っていた。
『…え、と』
『だから、ゴメン。自分勝手な思い込みで、ホントのお前にフィルターかけて見てた。俺が馬鹿でした』
 土下座する勢いで頭を下げると、今度はあいつが慌てた。
『そ、そんな謝らないで下さい!俺が男だって思われたのなんて、どうせこの見かけのせいなんですから』
 俺、男みたいに胸なんてないし、背も高いから。
 そう恥ずかしそうに言うあいつに、俺は、素直に、そう、心から素直に、その言葉が出た。
『は?でも顔は可愛いじゃん』
 ポロリと出た本音だった。
 すると、俺の言葉をゆっくりと噛み締めるように、徐々にあいつの顔が朱色に染まって行き、そして。
『何いってんだよ、あんた!』
 林檎のように顔全体を真っ赤にさせたあいつに、俺は殴られた。
 不当に殴られ、俺も黙っていられず、
『何すんだよ!』
 となり、謝罪してたはずが喧嘩になった。
 騒ぎを聞きつけた兄が仲裁するまで、俺たちはぎゃあぎゃあと喚いていた。
 今なら、なぜあいつが俺を殴ったのか、分かる。
 不器用なヤツ。
 照れ隠しが、暴力だなんてあんまりだ。
 そんな風に認識した、藤原の「女」と言う事実は、俺に遅行性ドラッグみたいに浸透し、そして感情全てを支配した。
 目であいつを追い、兄に頬を染めるあいつにイラつき、俺を無視するあいつに傷付いた。
 俺の前では、いつも兄に対するような可愛らしさは無く、唇を尖らせ、まるで「何か文句でもあるんですか?」と言いたげに睨んでくる。
 つい、怒らせてしまう俺も悪いのだろう。
 だが、あの頃の俺には、そんな自分を反省する余裕は無く、ただひたすらにあいつの関心を自分に向けさせたくて、愚かなことばかりを繰り返していた。
 好きな子を苛めてしまう。まるで幼稚園児だ。
 そしてそれは結果的に、俺にあいつを強姦させた。
 愚かだった。
 最低の、ろくでなしだ。

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