元気ですか?

act.5




 渋川までの道程に車を使わなかったのは臆病な気持ちからだ。
 兄に名刺代わりと揶揄されたFDで向かえば、少なからずあいつに俺が帰ってきていることを知られるだろう。
 藤原が自分の来訪を歓迎してくれるなど、夢にも思っていない。
 罵倒されるならまだ良い。あいつからの拒絶に耐えられるほど、俺の中での藤原の存在は軽くなかった。
 そしてもう一つの理由として、車で向かえば、自分が途中で逃げてしまうかも知れないと、そんな危惧があった。
 交通手段として電車を使えば、途中下車することさえ耐えれば、勝手に俺をあいつの住む駅まで運んでくれる。
 電車を利用して、渋川まで行くのは初めてだった。
 降り立った駅は、五年前車で通りすがる時に見た限りだったが、外装が新しいものへと変化していた。
 五年の歳月は、建物を、道を、あらゆるものを変化させていくらしい。
 折しも時刻は下校時らしく、駅には制服姿の学生が溢れていた。
 その中に立つ俺は、明らかに異質なものだったのだろう。周囲の好奇心に満ちた視線が自分に集まっているのを感じた。
 自分の容貌が人目を集めることは自覚していたので、簡単な変装もどきはしている。ありふれたジーンズにTシャツ。その上からシンプルなジャケット、さらに頭にはニット帽とメガネと、比較的目立たない服装を心がけてはいるが、身長の高さとばかりは隠せない。
 どうしても注視を集めてしがいがちではあるが、顔見知りに、一見して高橋啓介であると分からなければそれで良かった。
 駅から藤原の家まで、道は実はうろ覚えだった。
 確認する時間もなく、衝動のままに電車に乗った。
 かつて、何度かあいつの自宅にまで車を走らせたことはあったが、徒歩と車では道の感覚が違う。
 ましてや町は五年で少し様変わりをしている。
 とりあえず、うろ覚えのまま歩を進めた。
 藤原の家である豆腐店は、通りに面せず、住宅街の中のひっそりとした路地に隠れるように存在している。
 車が一台、通れるだけの狭い路地。
 一度だけ、あいつとこんな関係になる前に送って行ったことがあった。
 ミーティングの帰り道。
 ハチロクを松本に預け、帰る足が無い藤原を俺が送って行った。
 しきりに恐縮し辞退するあいつを、兄と自分の二人がかりで脅迫するように説得し、FDに乗せた。
 その時、車にかかっていた音楽まで覚えている。当時、流行っていたダニエル・パウターの「BadDay」
 今思えば俺らの関係を暗示するような曲だ。
 車の中であいつは静かだった。
 低速で走るロータリーの音と、スピーカーから聞こえる意味の分からない英語の歌。
 小さく、道を示すあいつの言葉に合わせ、ステアリングを切る。
 振り返ると、あの時が一番幸せだった。
 下らない弁当の取り合いだとか、小競り合いばかりだった俺たちなのに、車内で二人きりになると、途端に静かになり黙り込む。
 けれど、どこかその沈黙が心地よかったのだ。
 すぐ隣に藤原の存在を感じ、あいつの指し示す方向へ向かう。
 家の前は狭い道だからと、近くで降りようとするあいつを止め、家の前まで乗りつけた。
 ありがとうございます、と小さな頭を下げ、ドアを開けたあいつの腕を反射的に掴み、驚いた顔で振り向くあいつに、俺は「じゃあな」ぎこちなく微笑んだ。
 あの時、俺の不器用な笑顔に、あいつも同じくらい不器用な笑みを返した。
 あの時。あの瞬間。
 俺が自分の感情に自覚があり、そして素直だったならば。
 名残惜しいと思う気持ちが、好きだったからなのだと気付いていれば、俺たちの関係は変わっていただろうか?
 そんなあり得ないことを考えながら歩いていると、見覚えのある通りに出てくる。
 ああ、そうだ。ここを曲がると、あいつの家が見えてくる。
 壁面に蔦が這った古びた外観。あの頃より、多少豆腐店と書かれた文字が薄くなっているだろうか。
 けれど概ね五年前の記憶のままだ。
 一気に意識が五年前に飛ぶ。
 あの頃のままの店構えに、タイムスリップしたかのような心地で、ふらふらと店の前まで行くと、店内には誰もいないようだった。
 けれど表の扉は無用心にも半開きで、先ほどまでそこに誰かがいた形跡のみが残っていた。
 奥を覗き込んでも、人の気配はしなかった。留守だろうかと横へ回ると、店の横にあの頃のままのハチロクが駐車されていた。
 あの頃の、まま。
 思わず、自然と涙が溢れた。
 これに乗ってるあいつが好きだった。
 最初の出会いからずっと、あいつは俺を追い抜き、そして置いてきぼりにするんだ。
 ボンネットに手を触れると、そこに熱は感じられない。
 これが熱くなる瞬間を知っていた。
 俺の横を走っていた。
 並んでいた。
 けれど、ずっとどこまでも共に走ると思っていたこいつは、俺たちを残し去っていってしまった。
 去らせたのは、俺だ。
 だからこそこいつが愛しかった。
 藤原と同じくらい、俺はこいつにも恋していたのだ。
 ひたすら嬉しかったし、切なかった。
 背後から忍び寄る、人の気配に気付かないほどに、意識はハチロクに集中していた。
 だから突然、後ろから足を蹴られ、俺は痛みよりも、夢から強制的に目覚めさせられた衝撃で顔を顰めた。
「うちの車にナニしてんだよ、オッサン」
 振り向いてもそこに人はいなかった。
 いや、正確に言うと、俺の視線の先には。
 声のしたのは俺の足元。下方だ。
 そこに視線を落とすと、小さな子供がふてくされた表情で俺を見ていた。
 年齢で言うと、まだ幼稚園ぐらいの年だろう。
 ふわふわとした栗色の髪に、薄茶の瞳。
 幼いながら険しく目を眇めさせ、明らかに体格の良い俺を睨む生意気な子供。
 知らなくてもすぐに分かった。
 これが、藤原の息子なのだと。
 それは俺が、脳内で勝手に想像していた藤原の子供の姿からは遠いものだった。




 勝手な想像で、藤原の子供はまだ一歳か二歳程度の、そして藤原に良く似た可愛らしい容貌の子供と思い込んでいた。
 けれど、目の前の子供は想像よりも大きく、そして藤原に顔立ちが全く似ていなかった。
 唯一、類似点であるのは髪と瞳の色だけ。
 きつい切れ長の眼差しに、尖った鼻筋。そして唇は薄く、それをへの字にした目つきの悪いガキが俺を睨んでいる。
 藤原の瞳は大きく、鼻筋も柔らかく、そして唇はぽってりと厚みがある。
 容貌はあいつと全く似ていない。正反対と言っても良い。
 だが俺にはすぐにそれが藤原の息子だと分かった。
 何故なら、表情が一緒なのだ。警戒心も露に、俺を睨む表情がそっくりだ。
 昔の話になるが、GTRとバトルをすると言うあいつに待ち伏せをし、初めてマトモに喋ったときのあいつの表情と同じだった。
自然と、生意気そうなその子供を見る目が優しいものになる。
「お前、藤原の息子だろ?」
 そう言うと、子供はますます不審そうな顔になる。
 眉まで顰めやがった。
「……オッサン誰だよ?」
 口の悪いガキだ。
 だが、口が悪いのは俺も同じだ。
「高橋ってんだ。よろしくな」
 しゃがみこみ、目線を合わせながら手を差し出すと、胡散臭そうな顔をしながら、子供はおそるおそると言った仕草で俺の手を握り返してきた。
 小さな手だ。
「お前の、母ちゃんの昔の知り合いだよ」
 本当に藤原の子供なのだな、と思い知らされる。
「母ちゃんの?」
 藤原の名前を出すと、子供の警戒心がほんの少し和らいだ。
「ああ。お前の母ちゃんと、…このハチロクのファンだったんだ」
 その言葉に、子供の警戒心がさらに緩んだ。
「母ちゃんが走ってた頃、知ってんのか?」
 キラキラと輝き始めた瞳の色に、俺はこの子供が母を、そしてこのハチロクを愛しているのだろう事を悟る。
「ああ、知ってる。お前の母ちゃんは今もこいつで走ってんのか?」
 子供がコクンと頷く。
「けど、母ちゃんの友だちとか、昔の方がすごかったって言うんだ。今、母ちゃん、配達のときしか走んねぇし…」
 ふてくされたように唇を尖らせる。
 その仕草が本当に藤原に似ていて、俺は微笑ましくなる。
「お前の母ちゃんは誰より速かったよ。俺も、最初に走ったとき、あっさり追い抜かれちまったしな」
「ふぅん」
 子供の顔が誇らしげに輝く。
「車、好きなのか?」
 そう問いかけると、子供はやはり頷いた。
「じいちゃんの運転も好きだけど、母ちゃんのがやっぱ一番好き。ワクワクしねぇ?」
 俺もまた頷いた。
「ああ、ワクワクするな」
 子供が仲間に向ける笑顔でニッコリ笑い、けれどすぐにまたしょんぼりと肩を落とす。
「オッサンも運転するんだろ?」
「ああ」
「…いいなぁ。俺、早くおっきくなりてぇ。自分で運転してみてぇもん」
 見上げたガキだ。
 さすが藤原家の遺伝子と言うべきか。
「子供でも乗れる車はあるぞ?」
 レースの世界に飛び込むと、子供の頃から英才教育を受けた奴らが多いことに驚く。
 主にそう言う奴らは、ほんの五歳かそこらの年齢からカートでレースの世界に踏み込み、プロへと歩みを進めて行く。
 レーシングカートで実績を積んでおけば、若年層の頃からフォーミュラへと参加することも可能になる。
 最終的に俺が目標とする到達地点。
 その最短ルートがそれであるだろう。だが、俺はたとえ時間を戻せたとしても、そのルートを辿るつもりはないが。
 俺は今の過程に満足している。
 兄に導かれ、ストリートの世界で研鑽を積んだ、今の自分を。
 だが、もし可能ならばその最短ルートで成長していく過程を見たいとも思う。
 自分には適わないが、他の誰か…幼く、才能もある前途有望な…。
 そしてそれに最適な人物が目の前にいる。
 ふと思いついたことだったが、それは魅力的な夢のように思えた。
 兄もそうだったのだろう。
 才能を前にすると花開くのを見たくなる。
「…カートのこと?それ、他の人にも言われたけど、無理だよ。うち貧乏だもん」
 けれど、それはしょせん思いつきに過ぎない。
 目の前の子供にとって自分は赤の他人であって、育てる権利など有していないのだ。
「そうか。…しょうがねぇな」
「うん。それに、じいちゃんも母ちゃんも、サーキットで走るとか、そう言うの得意じゃねぇし、無理だよ」
 確かに。
 藤原の父娘は、主にストリートに特化した才能だ。ラリーの世界では生きるだろうが、決められたコースを周回するサーキットでは、ストリートほどの才能は見せられないだろう。
 それにしても、それらをこの幼さで見抜いてる子供に改めて驚きを隠せない。
 正直、藤原はぼんやりとしている。藤原の親父さんにしても、飄々とはしているが、どこかトボけたところもある人だ。
 生意気ではあるが、利発そうなこの子供の遺伝子は、いったいどこから来たものだろうか?
 今更ではあるが、その時になって漸く俺は気が付いた。
 この子供の、父親の存在と言うものに。
 子供がいると言うことは、相手がいると言うことだ。
 藤原の傍らにいる誰か…それを想像した途端、俺の胸の中に灼熱のような憤りが沸き起こる。
「…なぁ」
 その誰かは藤原を抱いたのだ。
 だから、目の前のこの子供がいる。
 子供に、父親のことを尋ねようとして、だがやはり躊躇った。
 子供相手に詰問するには、感情を殺せず毒が混じってしまう。
「…お前は、サーキットのレースと、ラリーやストリートを走るレースの、どっちが好きなんだ?」
 迷い、口から出たのは当たり障りの無い質問だった。
 子供は「う〜ん」と悩み、そして明るい表情で「サーキット」と答えた。
「好きな選手がいるんだ。GTで活躍してる人!」
 子供の瞳がまたキラキラ輝く。
「最初、母ちゃんが応援してるから好きだったんだけどさ」
 ほんの少しだけ胸がざわめく。
 まさか、な。
 まさかだ。
「オッサン、知ってる?高橋啓介って人?」
 心臓が止まるかと思った。
 兄が言うには俺は頭が悪いわけではないらしい。
 自分ではそんな自覚も無いけれど、今、俺はバラバラになったパズルのピースが、脳内で一気に組みあがるのを感じた。
「母ちゃんが言うには、父ちゃんに似てるんだって」
 まさか…。
 そうだ、いや、この子供の年齢。そして、未だ実家で暮らす理由。
「お前…」
 問う声が掠れた。
「…もしかして、父ちゃんの顔知らないのか?」
 子供は頷いた。
「うん。母ちゃんとじいちゃんと三人だけ」
 唇が戦慄いた。
 目尻に、熱いものがこみ上げそうになる。
 藤原。あのバカ。
 いや、バカは…俺だ。
「ケイタ!」
 背後で響いた久しぶりに聞く声に、涙が堪えきれず零れた。
 ゆっくりと振り返ると、五年と言う歳月を経たあいつがそこにいた。
「あ、母ちゃん」
 子供が嬉しそうな声を上げる。
 俺の頬を、ゆっくりと涙の粒が伝った。
「……藤原」
 そう、名を呟くと、あいつの顔が強張った。
 五年前と同じ。俺を拒絶する表情だった。



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