元気ですか?

act.4




 後悔は呪いのように俺を苛む。
 五年経った今でも、その呪いは解けず、忘れた頃に突如蘇るあいつの肌の感触を、発作のように思い出し、胸を焦がし、漸くこの想いが呪いなどではなく、「恋」であったのだと自覚した。
 笑えることに、これがどうやら俺の初恋らしい。
 男はいつまでも初恋の相手を引きずると言うが、二度目の恋の予定も無い、いや、出来ない俺には、この恋は最初で最後のものとなるだろう。
 そんな達観した想いを抱くまでには、やはり五年の月日は必要だった。
 俺は取り返しの付かないことをした。
 後悔している。
 だが。
 あいつに恋をしたことを後悔したことは無い。
「……結婚?」
 俺を苛む後悔は、緩慢な過去との絶縁と言う形を俺に取らせた。
 あからさまでは無いが、プロジェクトDのメンバー、とりわけ兄からの連絡を自然と避けるようになっていた。
 忙しい、今ちょっと手が離せなくて、そんな断り文句を折りに触れ他用していると、かつてのメンバーたちからの連絡は徐々に減っていった。
 兄は、自身の多忙もあるのだろう。そして俺に気を使ってもいるのだろう。滅多に無い連絡の内容は、些細な近況と俺の体調の心配のみだ。
 だから俺は藤原が今何をしているのか、どうしているのか、一切知らなかった。
 知ると、傷が痛む。
 ずるいのかも知れないが、あいつが少しでも苦しんでいたと言う事実も知るのが恐かったのだ。
 だからその知らせは不意打ちだった。
 止める間もなく、目の前の男の口からその言葉が発せられた。
『そういや、藤原がさ…』
 懐かしそうにそう笑う男は、プロジェクトDでかつて対峙したこともあるハチロク乗り。秋山渉だった。
 偶然、お互い関連性の無い場所で出会い、懐かしさから俺の警戒も緩んでいた。
 少し話さないかと言われ、断る理由もなく、連れ立ち近くにあった居酒屋に移動した。
 あの頃も、この男とは何度か酒を酌み交わし、語ったことがある。
 主にあの頃の会話の内容は、彼のハチロクと言う車種へのこだわりと、そして俺のロータリーへの執着とも言える、いわば傍から見れば気恥ずかしい青臭い自車に対する情熱が主だった。
 そして久々に会う彼との会話も、主に車への、走りに対する内容が多かった。
 まるでほんの少し、昔に戻ったようで俺は油断していたのだ。
 その話は、彼の妹が結婚し子供が出来たと言う流れの中で、ついでのように発せられた。
「そういや、藤原も結婚したらしいな」
 渉にとっては、何気ない世間話の一環だったのだろう。
 だが俺にとっては、そうではなかった。
 必死に平静を装い、何気ない風を装う。
 それに気付かず、彼は言葉を続ける。
「小さい男の子を連れててさ。息子かって聞いたら、嬉しそうに『そうです。でもヤンチャなんで大変なんですけどね』って、すっかり母親の顔になってたなぁ」
 ザァ、と一気に俺の体から血の気が引いた。
 子供。
 藤原に子供がいるのだ。
 あの時、生まれなかった俺たちの子供。
 それを忘れ、あいつは違う男との間に子供を生んだのか。
 身勝手なことに、俺の中に藤原を詰る気持ちが生まれた。
 酷い話だ。
 俺の子供を殺し、平気で他の男の子を産むのか?
 青く、冷たい炎が俺の中で揺らぐ。
 けれど俺はすぐにそれを打ち消した。
 俺に詰れる権利があるのか?
 あいつに酷いことをした、この俺に?
 むしろ、俺が付けた傷が癒えたことを喜ぶべきだ。
 俺の後悔は消えない。
 あいつへの感情も消えない。
 けれど、あいつの内から、俺が消えてしまうことがあるのだと、それを俺は失念していた。



 地元に帰ってみよう。
 そう決心したのは、藤原の話を聞いてから一ヶ月のことだった。
 俺の中の迷いや鬱屈が、走りにも影響し始めた頃に、漸く決意した。
 あいつを見てどうしようなどとは考えていなかった。
 ただ、あいつの幸せな姿を見れば、俺の中でずっと渦巻く感情の決着が、何がしか着くような気がしたのだ。
 愛車で住み慣れた街へと戻る。
 FDはあの頃と変わらず俺の傍にある。
 乗り換えれば、と言う声に反して、俺はこいつに乗り続けてきた。
 愛着だとか、執着だとか、口の悪い奴の中には思い出にしがみ付いているなんて言われることもある。
 そんな言葉に出来るものではない。
 こいつはずっと俺の傍にある。それが当然なのだ。
 地元に戻り、真っ先に向かったのは赤城だった。
 昼間、観光客に紛れかつて何度も攻めた道を走る。
 五年と言う歳月は、赤城も少しずつ変化させていた。
 エネルギー資料館の名前が変わり、道も補修を加えられ新しいアスファルトを見せている。
 ボコボコだった大沼の駐車場も補修されキレイになっていた。
 真新しいラインで囲まれた枠の中に車を止め、かつて崩れそうだった短い石段を降り、大沼へと向かう。
 風がある日だった。
 ザブザブと湖面に波が立ち、昔より種類が増えたボートを揺らしている。
 ふ、と俺は表情を崩した。
 自然と顔に笑みが浮かぶ。
 変わらない。
 表面がどう変わろうと、変わらないのだ、本質は。
 山は変わらない。
 そこに何も変わらず、存在し続ける。
 俺の気持ちもきっと同じなのだろう。
 それに気付いたとき、ここに戻って来てからもあった迷いが消えた。
 藤原に会おう。
 そして謝ろう。
 すまなかったと、幸せになって良かったと。
 そして、俺はお前が好きだったのだと。
 そう伝えよう。
 決心し、振り返り戻ろうとした俺の耳に、かつて聞きなれた音がかすかに聞こえた。
 考えるまでもなく、直感で悟った。
 暫く待つと、音はどんどん大きくなり、やがて止んだ。
 それと同時に、俺の目の前に懐かしい人物が立っていた。
 懐かしい、と言うのは語弊かも知れない。
 懐かしいなどと言う表現で表すには、俺にとって一番近しい存在なのだから。
「お前の色は目立つんだ」
 開口一番、そう言った。
「おかげで、五年経った今でも、お前と同じ色に乗ろうとする奴は県内に一人もいない」
 いつの間に背を追い越したのだろう。
 目の前に立つ久々に会う兄は、俺よりもほんの少しだけ目線が低かった。
 五年前はまだ学生らしさが残っていたが、今ではすっかりと食えない大人の男の面になっている。
「…アニキだって人のこと言えないだろ?」
 五年経っても、俺は兄の前では出来の悪い弟のままらしい。
 出された皮肉に返した言葉が、子供の口答えレベルだ。
 兄はそんな俺を、眩しいものでも見るかのように目を細めた。
「俺はちゃんと擬態ってものを知ってるさ。病院に行く時は、別の車だしな」
 そう言い、兄は俺から目を逸らし、大沼を見つめた。
 俺の車を目撃した誰かが、兄に知らせたのだろう。
 方角からどこへ向かおうとしていたのか、兄には予測するのは容易いことだったに違いない。
「アニキ、今日休み?」
 多忙な兄は休みが滅多に無い事を聞いていた。
 この場に、だから兄が現れると思っていなかったので、少なくとも俺は面食らっている。
 兄はチラリと俺を見て、そしてまた視線を湖面へ戻した。
「どこぞの薄情な誰かさんが言ったんだろ?今日こっちに戻るって」
 地元に戻るときに、家には連絡していた。
 兄も実家を出て、病院近くのマンションで暮らしているため、家とは疎遠になっていると思ったが、違ったのだろうか。
 そんな俺の疑問を察したのだろうか。兄がふっと笑った。
「さすがに五年ぶりに息子が帰ってくるんだ。親父たちも興奮して息子たちを揃えようとするさ。徹夜明けで、漸く寝入り始めた俺の睡眠を邪魔したと気付かないほどにな」
 五年間、全く顔を見せない俺を、親は心配していたのだろう。そして兄も。
 それを皮肉混じりに伝えられ、俺は首を竦めた。
「お前が久々に帰ってくるんだ。俺だって無理してでも休みくらい取るさ」
 ぐらり、と風に煽られたボートが傾いた。
「…ごめん」
 大きく揺らいだボートが、目の前でゆらゆらと揺れている。
「いいさ。ただ、真っ直ぐに赤城に向かうとは思わなかったがな」
 吹いていた風が凪ぎ、さわさわと静かな水音が響いた頃に、兄は言った。
「藤原はまだ渋川にいるぞ」
 ハッとしたように、俺は兄を見つめた。
 兄の視線はずっと湖面を見つめている。
 その視線が、ゆっくりと俺の方へと向く。
 困ったような、仕方ないなと、そう言いたげな顔で俺を見る。
 それは幼い頃に、俺がとんでもない悪戯をしたときと同じものだった。
「それが知りたかったんだろう?」
「…アニキ」
 兄の視線がまた俺から外れる。
 そして青い空を見上げた。
 つられたように俺も空を見上げる。
「五年間、戻らない理由は藤原なんだろう?戻ってきたと言うなら、その理由も藤原以外にないだろう?」
 さらりと、空を眺めながら兄が言う。
 俺は空ではなく地面を見つめた。
 そして兄の言葉に、黙って頷いた。
 兄はそんな俺の肩を叩き、確かめて来い、とだけ言い立ち去った。
 俺はぼんやり、大沼の前で暫く立ち竦んだ。


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