空の色は陰気です 時は不穏な五月です
act.9
そして場所は変わって、ここはFC車内。
運転席にはもちろん涼介。そして助手席には拓海が座っている。
先ほどの涼介の驚きの発言から、拓海はまだ回復できず未だ固まったままだった。
いつまで経っても一言も発しない彼女を心配し、涼介は信号待ちで止まった隙に、拓海の方へ体を向け、彼女の頬に手で触れた。
「…拓海?大丈夫か?」
彼の手の感触に、一瞬拓海はぴくりと体を震わせたが、すぐに恐々と上目遣いで涼介へと視線を向けた。
「だ、いじょうぶです…けど…」
「けど?」
「…あの…け、結婚って…」
「ああ。もう拓海の親父さんにも了承は得ているし、もちろんうちの親も同様だ。あとは拓海の意思を聞くだけだったんだが…嫌?」
「…嫌…じゃないですけど…」
そこで信号が青に変わる。
涼介は拓海の頬に触れていた手を、シフトレバーに戻した。
ゆっくりと、車が動き出す。
「けど?何?」
横目でちらりと拓海に視線をやれば、彼女は縋るような目で真っ直ぐに自分を見つめていた。
「…涼介さんは、本当に私でいいんですか?」
「………」
瞬間、胸中に湧いたのは焦燥感。
いつまで経ってもこの愛しい恋人は、自分に愛されている自覚をしてくれない。
だがその初心で、謙虚な心は涼介にとっては驚異でもあったのだ。
かつて、自分の周囲に集る人間は、皆利己的で傲慢な人間が多かった。
特に女性など、少しでもこちらが隙を見せたら、自分が特別だなどと思い上がる人種が多く、そのため涼介は女性全般を見下す傾向にあった。
いや、女性だけではない。他の誰も皆、彼は見下していた。
傲慢だったのだ。
何もかもが苦も無く手に入り、周囲は皆、自分の後ろを付いてくる。そんな存在に慣れきっていた涼介は、知らず知らず自分が傲慢な人間になっていた。
それに気付いたのはこの拓海に負けた時。
ショック、などと言う簡単なものではなかった。
勝利を疑わなかったバトル。しかし勝利したのは自分ではなく、相手のほうだった。
生まれて初めての敗北は涼介を打ちのめし、溢れるほどあった自信はもはや地の下に落ち込んでいた。自分の弱さを棚に上げ相手を恨みたくなる心境の涼介の、そんな感情すべてをひっくり返したのは、あの時、ハチロクから降りてきた拓海の真っ直ぐな眼差しと言葉。
『俺のほうが速かったとは…そんなふうには絶対思ってませんから…』
衝撃だった。
傲慢な人間ばかりを見てきた涼介にとって、拓海の真摯であり謙虚な態度は涼介の今までの価値観すべてをぶち壊した。
そして純粋に目の前の人物に感動を覚えた。
涼介は今まで誰かを尊敬したり憧れたりなどの感情を覚えたことがない。しかし拓海に出会って尊敬の念を抱き、やがてそれが恋心に変化するのも早かった。
誰かを、きれいだなどと感じたのはその時が生まれて初めてだったのだ。
想いが伝わっても、拓海の態度はいつまでも変わらない。いつも真っ直ぐな視線で涼介を見つめる。
その視線に晒されるたび、涼介は不安になる。
涼介は自分が嫌な人間であることを自覚している。たぶん味方よりも敵が多いことも理解している。
そんな自分に嫌気が差して、いつか拓海が離れてしまわないか?
それを考えただけで気が狂いそうなほどに苦しい。
涼介は、拓海が自分から離れることがあるならば、彼女を殺して自分も死ぬだろう狂気を抱えた自分を知っている。そうなる自信さえある。
なのに、彼女はいつまで経っても、自分のほうが不安そうな顔をして涼介を見ているのだ。
どうしたら伝わるだろう?
涼介は車を路肩に止め、膝の上で固く握り締められている彼女の手のひらに、自分の手を重ねた。
ぎゅっと、少しでも自分の想いが伝わるように力を込めた。
「…俺は…拓海がいないと生きていけないよ…」
らしくなく声が震えた。
「拓海の前にいると…いつだって不安だ。いつかお前が離れていくんじゃないか…そう思って。そして自分が恥ずかしくなるんだ。お前につりあう男になれているのか?そればかりが気になるよ。お前の目に俺がどう映っているか、みっともなくはないか、少しでもお前の前では格好よくいたくて、いつだって鏡を気にしていたりとかな。情けない話だろうけど、それが俺なんだ。
本当に俺でもいいのか、そう聞きたいのは…たぶん俺の方だ…」
いろんな障害はある。
五歳の年の差もそうだ。
家庭環境もそう。金銭面で価値観が違っているのも分かっている。
拓海が自分に合わせてくれていることも多いのだろう。
だけどそれらを乗り越えて、ずっと一緒にいたいと願う。
お願いだから頷いてくれ。想いを込めて拓海を見つめる涼介。
ふと、涼介の拓海の手を握り締める手のひらに、あたたかな熱がこもる。
拓海のもう片方の手のひらが、涼介の手に重ねられ、彼の手を包み込んでいた。
拓海の手は、決してきれいとは言い難い。
ずっと学生時代から家事など水仕事をしていたのもあるし、ステアリングを握っているせいもある。そして現在の仕事の関係で色々荒れていたり、傷だらけだったりするのだ。
かつて戯れのように付き合った女性たちとは程遠い手。
だがその手が涼介は好きだった。
拓海の手は一生懸命頑張っている人の手だ。この手と自分の手が合わさった時、苦労らしい苦労なんてしたことのない涼介は恥ずかしさを覚える。そんな手に包み込まれ、涼介はそのあたたかさに胸の鼓動が一音高く跳ねるのを聞いた。
「…私、きれいになったって、みんなに言われたんです。
なつきにも、高木なんて、本当の美人は内面がきれいだからきれいなんだって、だから私もそうなんだって、言うんです。
でも私、そう言われても信じられなくて、でも……思い出したんです。
私、ずっと男みたいだって言われて、ムキになって男っぽい格好ばかりしたり、男みたいなことばかりしてたんです。でも、去年、涼介さんに会って…それで…初めてきれいになりたいって…そう思ったんです」
きゅっと、手を握る拓海の力が強まった。
「それで、分かったんです。
私がきれいになれたのは…涼介さんがいたから。
私、涼介さんを好きになって、好きって言われて…すごい幸せなんです。車走らせることも、涼介さんがいたから好きになれたんだし、前は…すごいいい加減だったんです。やる気も無かったし、けど今は…全部が楽しいんです。
…だから…私がきれいになったって言うんなら、それはきっと…私が幸せだからなんです。
その幸せの中には…いつも涼介さんがいるんです」
「…拓海…」
拓海の言葉はつたない。
彼女自身もそれは分かっているし、涼介も心得ている。
けれど、つたないなりに、一生懸命伝えようとする拓海の心は雄弁だ。
そして、
「…私は…涼介さんをきれいにすることが出来てますか?」
じっと見つめて、彼女は彼にそう言った。
愛して止まない彼女の眼差し。そして心を奮わせる言葉。
好きだ。そう叫びたかった。
今までこんなにも誰かを欲したことはなかった。
拓海が自分を好きになってくれたことは奇跡だと涼介は思っている。自分のような人間を、拓海のような純粋な人間が好きになってくれただなんて、今でも信じられない。それを実感している今でも、不安に胸が張り裂けそうだ。
だから誰かれ構わず嫉妬するし、独占したくて我がままばかりを言う。
それなのに、彼女はそんな愚かな自分を許すどころか、ちゃんと愛してくれている。
胸の中に湧き上がる感情は、涼介が今までの人生で見失ってきたものだ。
涼介は自分の顔が泣きそうに歪んでいるのを自覚した。
みっともない。
しかし、自分のその顔を見て、拓海は安心したように綻んだ。
「…良かった。涼介さんきれい…」
堪えきれずにその体を抱きしめた。細くはあるが華奢ではない。ふくよかさもあまりない。けれどもこの世で一番涼介が愛して止まない拓海の身体だった。
力を込めて抱きしめる。この幸福が現実であると実感できるように。
拓海もまた涼介の体を抱きしめた。
自分だけでなく、不安を抱えていた彼を安心させるように。
涼介は頬を摺り寄せ、鼻を首筋に擦りつけ、何度となくキスを降らせ、まるで甘えたような仕草を繰り返した。
彼は拓海よりも五歳も年上だ。
けれど、こうやっている姿は子供のようで、拓海は涼介を愛しく、そして可愛く感じた。
「……涼介さん。私と結婚してください」
自然とその言葉がもれた。
まさか拓海からそんな言葉を聞けるとは思わなかったのだろう。驚いたように彼の顔が離れた。
信じられない、と言いたげに自分を凝視する愛しくて堪らないその顔。
彼のその顔に笑みを浮かべながら、もう一度拓海は言った。
「ずっと…一緒にいましょうね」
涼介は拓海のその言葉に、とても幸せそうに微笑み、そしてこれが夢ではないことを確かめるためにに、再び彼女の体を抱きしめた。
「好きだ」
「はい」
「愛してるんだ」
「私もです」
「離れたくない…」
「はい…」
「一緒にいよう」
「…ずっと、です」
「ああ。ずっと一緒にいよう」
「…はい」
しばらく停車していた白のFCは、やがて思い出したように動き出し、快調なエンジン音を街に響かせ雑踏の中に消えた。
―――後日。
11月初頭。
なつきの元にとある封書が届いた。
金封してあるそれは、間違いなく結婚式の招待状。
差出人は「藤原拓海」。
封を開き、中を見れば結婚式の日はなんと12月24日のクリスマス。
「…………」
来年と言っていたはずの結婚式。
それが何故か今年中に行われ、しかもクリスマスイブ。
彼等の間で、何が起こったのか予想がつきそうでなつきは恐かった。
「…あの男…やっぱり魔王だったのね…」
純粋に涼介に畏怖を覚えるなつき。
けれど、その結婚式できっと、誰よりも嬉しそうに笑うだろう友人の姿を想像すると、なんだか微笑ましくなってなつきは笑った。
「幸せになりなよ、拓海くん」
…言われなくても…と言い返す相手の男の姿は見えるようで、なつきは苦笑しながらも、出席の欄に丸をして、
『ご結婚おめでとうございます!』
と記入した。
end
2005.8.2