嘆きの聖女

act.6


「おはよう」
 目が覚めると涼介がいた。
 あれ?夢か?
「夢じゃないぜ。ほら、起きろ」
 ぼんやりと、眠る前のあれこれを思い出す。
 あ、そっか。女になって、入院して、涼介さんと一緒に寝たんだった…。
 ゆっくりと回路が繋がり、拓海は確認するように、まず…股間に手を伸ばした。
 ゴソゴソとそこを探り、
「…あ〜。やっぱあった」
 間違いなく、割れ目は消えずに残っている。
 そんな拓海の様子に、涼介は堪え切れなかったように笑い声を上げた。
「お前、な…朝一番に起きてするのがそれってのは…」
 クスクスと笑いながら、スルリと拓海の股間を撫でる。
「無くなってもらっては困るな。せっかく俺のために変化したのに」
 敏感な部分を、さりげなく、けれど紛れも無く痴漢紛いに触れられ、ぼんやりしていた拓海の頭が一気に目覚めた。
「…な、何するんですか、涼介さん!」
「挨拶だ」
 シレっと答えられ、拓海は唇を尖らせ黙った。
 涼介に口で勝てるはずが無い。
 寝てたときは可愛かったのに…と思いながら、涼介を睨み、そこで遅まきながら気が付いた。
「…涼介さん。何で服着てんの?」
 眠る前、涼介は拓海と同じ部屋着だったはずなのに、今は着心地の良さそうなシャツとスラックスだ。
「あの格好のままでは出かけられないからな」
 どこから持ってきたんだろう?
 一瞬考え、でも聞いても素直に答えないだろうなと諦めた。
「どこか行くんですか?」
 そしてまた思い出す。
 ――そういや、俺、監禁されてたんだった。
 人を監禁しといて、置いてどこか行くつもりなんだろうか?
 何となく悔しくて、ムスっとした表情で涼介を睨むと、ニヤリと涼介が意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「お前も行くか?」
「いいんですか?」
 監禁生活半日で終了?
 終わってしまうとなると、どこか寂しさを感じてしまうのは何故だろう。
「あ、でも俺服ないっスよ」
「あるよ」
 そう言った涼介がクローゼットの扉を開くと、そこには拓海用と思われるトレーナーとジーンズ。
 いつの間に用意したのだろうか?
 いや、それとも最初からあったのか??
「サイズは確かめたから大丈夫なはずだが…合わなかったら言ってくれ。すぐに交換するから」
 確かめた?いつ?
 交換って……。
 色んなツッコミどころが満載過ぎて、拓海はもうどうでも良くなってきた。
「…はぁ。ありがとうございます」
 とりあえず着替えてみようと、拓海は着ていた部屋着の袷をガバリと肌蹴させた。
 すると、涼介が慌てたように視線を逸らす。
 何で?
「……お前…煽るな」
 何が?
 うっすら、涼介の頬が赤い。
「……少し出る。その間に着替えてくれ。ついでに朝食も貰ってくるから」
 まさか、照れてた?
 さっき、平気な顔で人の股間を撫でてたくせに…。
 拓海はモソモソと、肌さわりの良い生地のそれに着替えながら、眉を顰めて首をかしげた。
「…涼介さんって…よくわかんねー」
 勿論だが、服はぴったりだった。
 ジーンズの裾も合わせなくてもピッタリ。
 拓海は、涼介がどうやって「確かめた」のか、知りたくないなとほんの少しだけ思った。



 服を着替え終えた頃に涼介が朝食を載せたトレイを抱え戻ってきた。
 二人で、病院食とは思えないイングリッシュブレックファーストスタイルのそれを食べ、オレンジジュースを飲み干した後に、漸く拓海は問いかけた。
「ところで、どこに行くんですか?」
 涼介は食後の紅茶をゆったりと傾けながら、「ああ」と頷いた。
「まずは啓介の見舞いだな」
「へぇ…啓介さんの見舞……え?」
 何気なく聞き、けれど途中で気付く。
「啓介さん、病気なんですか?!」
 すると、何故かそこで涼介は照れたように笑みを浮かべる。
 ――何でそこで照れてんの?
「病気じゃない。怪我だ」
「怪我?」
「ああ。昨日俺があいつの肋骨を折ったから」
 はにかみながら笑う涼介に、拓海はちょっとだけ彼の人間性を疑った。
「同じ階に入院している。安心させるためにも顔を出してやると良いだろうな。無事に上手く言ったと報告もしたい」
 上手く…考え、昨日の一連の出来事を思い出した。
 そういや、結果的に上手くいったことになるのだろうか。
 そしてふと、啓介に襲われかけた事も思い出した。
 またあんな事になったら困る。
 せっかく涼介の恋人になれたのに、また啓介に襲われでもしたら今度こそ本当に嫌われてしまうかも知れない。
「あの……」
「何?」
 言いにくいが、嫌われるのだけは嫌だ。
「その……またおかしくならないですよね、啓介さん」
 最初、意味が分からない風だった涼介は、しかしすぐに「ああ」と頷き、慰めるように拓海の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。俺がいれば拓海がいくら魅力的でも啓介も自制できるだろう」
 魅力的…?
 謎の言葉を言われた気がして、曖昧に拓海は頷いた。
 けれどそんな拓海の態度を涼介は誤解したらしく、頭を撫でていた手が頬に移る。
「…恐かったんだな。啓介には会いたくない?」
 恐かった…覚えはあるが、その後の涼介のエロさにすっかり紛れてどうでも良くなっている。
 なので拓海は首を横に振った。
「あれは俺と言うストッパーも居らず、拓海が無意識に誘惑するような真似をしたために起こった事故だ。もし、同じような事態が起こっても、ちゃんと俺が拓海を守る。だから…安心して」
 コクン、と拓海は首を縦に動かす。
 安心はしてる。
 けど、一番安心できないのも涼介なんだよな…。
 ぎゅっと抱き締めてくる涼介の腕に身を預けながら、拓海はこっそりそう思っていた。



 啓介の病室は、確かに拓海と同じ階にあったが、作りは全く違うものだった。
 拓海の部屋は通路奥の、重厚そうな本物の樫の木のドア。
 けれど啓介の部屋は、拓海の部屋の隣とは言え、通路半ばのかなり離れた場所にあり、おまけにどう見てもこのドアの作り…。
「とくべつしつ、ってやつじゃないんですね…」
 目の前にあるのは、一般的なスチール製のスライドドア。
 個室らしく、ネームプレートは一つしかなく、そこには「高橋啓介」としか書かれていない。
「ああ。特別室は拓海がいるあの部屋だけだ。それに…啓介相手に特別室ってのもね…。勿体ないだろう?」
 サラリと答えられ、拓海は曖昧な表情で首をかしげた。
 ――…や、勿体ないって言ったら、俺の方が勿体ない気がするけど…。
 ちょっとだけ判った真実が一つ。
 涼介は拓海に過保護だ。
 チラリと、傍らの端整な横顔を見上げ、そんな事を思う。
「啓介?俺だ。入るぞ」
 ノックしながら、涼介がそう声をかけると、すぐに部屋の中から聞き覚えのある啓介の声が返ってきた。
「あ〜。どーぞー」
 ガラリと開け、見たのはやはり普通の個室。
 白が基調の部屋に、大部屋よりも設えられているが、病室の域は越えていない。
 けれど、パイプ製の少し大きめのベッドに眠るその姿は普通では無かった。
 パッと目に入った黄色。
 拓海は改めて見るその異質な姿に、あんぐりと口を開けた。
「あ、何だ。藤原も一緒?」
 ダル〜っと、非常に怠惰にベッドの上に寝転んでいるのは人ではなかった。
 昨晩、襲われると言う事態にまで遭ったあの金の獣。
 現実味の薄い幻めいたあの獣を、朝の眩い光の下で見る。
 それは拓海に昨晩見たのとは違う印象をあの獣に抱かせた。
「啓介さん?」
 怠惰に寝転ぶ、金の獣からあの啓介の声が返事する。
「ああ。そうだけど?」
 パチパチと瞬きし、傍らの涼介を見上げる。
 どうした?とばかりに怪訝そうに見返す涼介の姿と重なるように、思い出すのはあの白い獣の姿。
 涼介のあの姿には思わなかったが、こうやって太陽の下で見ると、あの動物園で見かけた生き物を思い出す。
「啓介さんって…」
 やっぱり似てる。
 正確には、アレとアレとを足して二で割ったみたいな生き物だけど。
「キリンみたいですね」
 言葉にしてみて、自分の考えは間違いではないなと、拓海は満足そうに頷いた。
 首こそ長くないが、あの黄色は動物園で見たキリンみたいだ。
 それに、シマウマみたいな模様がうっすら入っているけど、やはりあの色はキリンだ。
 すると拓海のそんな発言に、啓介も、また涼介も驚いたような顔になった。
「……!」
 息を呑んだような空気と、まじまじと痛いくらいに見つめてくるその視線に、拓海はやはり拙いことを言ってしまったのかと不安を覚えた。
 啓介はそうでもないが、咎めるような、傷付いたような、涼介の視線が痛い。
「あ、すみませ…俺、テキトーなこと言っちゃって…」
 しかし拓海の謝罪に、涼介はハッと我に返り、「いや…」と首を横に振った。
「…間違いじゃない」
「え?」
 拓海に注がれる涼介の眼差しには、何か痛みを堪えたものがあった。
 けれど、拓海は言われた言葉が以外すぎて、それに気付かなかった。
「拓海の…言ってる事は当っている。キリンだよ。……啓介は」
 瞬間、啓介の顔が顰められる。
「アニ…!」
 咎めようとする啓介の言葉を遮ったのは、緊迫感とはほど遠い拓海の声だった。
「え?啓介さんマジにキリンなんスか?!じゃ、首……縮んだ?」
 あれ?怪我したのって首だっけ?
 だから縮んだのだろうか。
 首を傾げたまま、一人でウンウンと納得している拓海に、真っ先に噴出したのは啓介だった。
「おま…!キリンって…そっちのキリンか!」
「は?」
 そして遅れて、涼介の顔も綻ぶ。
「……そうか。あの首が長い方のキリン?」
 苦笑した涼介に問われ、拓海は頭に「?」をいっぱい飛ばせながら頷いた。
「他に…キリンってあるの?」
 他に何かあったっけ?
 そう考え、思い出したのは某ビール。
 確かにビール色だけど、まさか啓介がビールなわけでもないだろう。
 ますます頭の中に「?」が飛び交う。
「拓海が思うキリンはあの首の長いキリンだけ?」
 拓海は頷く。
「…では、四神獣の一とされる…麒麟の存在は知らないわけだ」
「……は?」
 ますます頭の中の「?」が増える。
「…そうだな。どう説明しようか?
 同じ名前のビールがあるのは…知ってる?」
 コクリと、頷いた。
 やはりあのビールと関係あるのだろうか?
 しかし、何に?
「ラベルを見たことは?」
 あったはず。だから拓海はまた頷いた。
「あれに描かれている獣の姿。それが『麒麟』だよ」
 拓海は必死に記憶の中を探る。
 そしてあのラベルの絵と、目の前の啓介を見比べ…。
「…似てませんよ?」
「それはそうだ。しょせんおとぎ話の中の生き物だからな。伝えられる伝承を元に描かれたものだから、大まかな特徴は合っていても相似というわけにはいかないだろう」
「……はぁ」
 ソウジって何だ?
 分からないまま、拓海は頷く。
 そしてふと思い出したことが一つ。
「あれ?じゃ、ゆにこーんってやつじゃないんですか?」
 さっぱりわかんねぇ。
 拓海の表情から、彼があまり理解できていないのを察したのだろう。さてどう説明したものか、そう悩む涼介を助けたのは、比較的拓海と知能レベルが似通っている啓介だった。
「あ〜。それ、あながち間違いじゃねぇみたいよ?
 俺らもよくわかんねーけど、呼び名っつーの?それがアチコチで色々変わるみてぇだし。ただ、俺らの存在っつーか、一族っつーのは昔からあって、そんでアチコチにいてさ。それが人間たちの間におとぎ話みてーに伝わってたみたいだから」
 よく分からないけど、何となく分った。
「うちの車が秋名のハチロクとか、パンダトレノとか呼ばれたりするようなモンっスか?」
「あー。そんな感じ」
「そっか…。涼介さんが赤城の白い彗星って呼ばれるみたいなもんか…」
 ウンウンと頷きながら、漸く理解できた。
 そして傍らの涼介を見上げ、「じゃあ」と問いかける。
「涼介さんたちって、キリンでユニコーンなんですね」
 それは問いかけと言うより、確認だったのだが、頷くと思われた涼介はけれど、寂しそうな顔で首を横に振った。
 ――あれ?
「啓介はそうだ。麒麟であり、ユニコーンと呼ばれる伝承の獣だ。だが…俺は…違う」
 痛みを堪えたような涼介の表情に、拓海の心もまた痛くなる。
「アニキ!またそんな…」
 啓介が叫び、起き上がろうとするが、しかしまだ痛いのだろう。顔を苦痛に歪め、またベッドに引き戻される。
「だが、事実だ。俺は確かに麒麟の血族ではあるが…彼らとは似ていない。異端だ」
 イタン。いたん。…異端。
 それを拓海はどこかで聞いた記憶がある。
 けれど、どこだったろうか?
 考える拓海の視界に入った啓介の姿。金色の獣。
 その瞬間、あの夢での会話を思い出す。
 ――あ、そっか。
 涼介を悲しそうな顔にさせる「異端」と言う言葉。
 ウン、と頷いて、拓海は涼介の手を握り締めた。
「拓海?」
「俺、よくわかんねーけど…」
 そしてにっこり微笑む。
「涼介さんは赤城の白い彗星で、キリンでゆにこーんで、おまけにイタンらしいっスけど、結局全部涼介さんなんですよね?」
 何を言ってるのだろうか?
 そう涼介の眼差しが拓海に問うている。
 けれど拓海は気にしなかった。
 どうやら涼介は「呼び名」に拘っているらしい。
 そんなの別にいいのに…。
 そう思うから、それを涼介に伝えたかった。
「どんな呼ばれ方だろうと、別にいいっスよ。涼介さんには変わりないんですよね?」
 戸惑った表情で、涼介は曖昧に頷く。
 握り締めた涼介の腕を抱きこむように寄り添い、拓海は「好きだ」と言う気持ちを精一杯込めて涼介に微笑んだ。
「涼介さん以外はぜってーヤだけど、それが涼介さんなら、呼び方が変わっても涼介さんは涼介さんなんで、俺には変わんないです」
「…え?」
「涼介さんだから……好きです」
 ぎゅっと抱きつきながら、ちょっとだけ恥ずかしくなってくる。
 あからさまに感情を吐露するのは苦手だ。
 妙な衝動に駆られ、勢いのままに口にしてしまったが、よく考えると恥ずかしいセリフではないだろうか?
 でも、ちゃんと言いたいことは伝わっただろうか?
 そう思い傍らの涼介を見上げると、どうやら伝わっているようだ。
 十分すぎるほどに。
 思わず、全身が赤面してしまいそうなほどの蕩けそうな笑み。
 切れ長の理知的な涼介の瞳から、ピンク色のラブビームが発射されているようだ。
「拓海…」
 自分の名を囁く声音は、艶を含んでなまめかしい。
 一気に、心臓がドクドクと戦慄き出して、頬は発火したように熱くて仕方ない。
「ありがとう」
 耳元で囁かれたと思った瞬間、すぐ目の前に涼介の顔があった。
 唇に、暖かい吐息を感じ、拓海は反射的に目を閉じた。
 そしてすぐに唇が生暖かい感触に包まれる。
 ――わー。わーわーわー…。
 まるで自分が甘いクリームになった気分だ。
 ドロドロに蕩けて、全身が甘ったるい。
 ちゅ…ちゅ…と耳に届く水音が自分の唇からしているとは信じたくない。
 今、自分が何をしているのか、それを知ったら気絶しそうだ。
 ぬるりと潜り込んだ舌が、拓海の舌に絡み優しく撫でる。
 口内を器用な舌が万遍なく這い回り、自然と漏れた吐息とともに唇の端から溢れた唾液が伝い落ちた。
 ゆっくりと、それを涼介の舌が追いかけるように舐め取る。
 ゾクゾクと、全身を這う未知の感触に、堪えきれずに拓海は膝を折った。
 倒れこむ体を、涼介の力強い腕が支える。
 快楽を知らぬ体に注ぎ込まれた濃厚な感覚。うっすら開いた瞳に映ったのは、紫に輝く涼介の嬉しそうな目。顔。
「拓海」
 しっかりと拓海の体を抱えたまま、涼介は拓海が見た今までで一番と思うくらいの華やかな表情で微笑んだ。
「…俺の伴侶」






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