嘆きの聖女

act.3


 拓海はあまり深く物事を考える事が出来ない性質だ。
 車に関しても、以前より知ろうとする努力はしているが、まだまだ入門仕立てのビギナーで、学んでも数式のように右から左へポロポロと零れていく。
 運転も、勘が主で理屈を捏ねられてもサッパリだ。
『何でわかんねーんだよ!』
 とイツキに怒られること数回。
 池谷やケンジには呆れられるやら感心されるやら。
 ましてやあの高橋涼介が捏ねる「理論」となるとチンプンカンプン。
 彼が春から始動するプロジェクトDのミーティングに何度か参加した事があるが、そこで交わされる会話は拓海にとっては宇宙語のようだった。
『藤原には基礎知識が足りない。ゆっくりで良い。俺が教えるから学んでいこう』
 と、涼介には啓介と共に付きっ切りで教えて貰ったが、その時に拓海が学べた事は一つ。
『涼介さんの言ってることよくわかんねー』
 だった。
 難しいことばかり知ってる涼介。
 自分とは頭の造り自体が違ってて、自分がポヤンとしている間に、20も30も先の事を見通しているようだった。
 ――涼介さんってやっぱスゲー。
 そう感じると同時に、
 ――何言ってるかさっぱりわかんねー。
 そう思ったのを覚えている。
 ベッドの上に押さえつけられ、涼介に見下ろされた状態。
 自分の身体はどうやらおかしなことになってしまったらしく、そして涼介はあの夢の中に出てくる獣と同じで……。
 ――…よくわかんねー。
 基本、拓海は横着だ。
 ナマケモノというわけではないが、難しい事や、面倒な事を嫌う傾向にある。
 だから今のような、許容量を越えた現実は拓海にとって回避したいことでしかなく、その手っ取り早い方法として拓海は…。
 ――…わかんねー。寝よ。
 ちょうどベッドだし。目を閉じればすぐに眠れる。
 くるんくるん彷徨っていた瞳が、ピタリと止まってパチリと閉じる。
 スヤスヤと眠りの世界に旅たとうとする拓海に、けれど阻むように涼介の抑えきれなかったと思われる笑い声が聞こえた。
「……悩んで、混乱したあげくに現実逃避か?」
 ――いいじゃん。別に。だってよくわかんねーもん。
「起きろ、拓海」
 ――そんなイイ声で言われてもイヤだ。
 逆に、そんなうっとりするような声で耳元で囁かれたらもっと眠くなるような…。
 ――あれ?
 耳元?
 フゥ、と吐息を耳に感じ、ゾワリと全身に鳥肌が立つ。
「起きないと……襲うぞ」
 そしてベロリと、耳に感じた熱い濡れた肉の感触。
 ガバ、と勢いよく飛び起き、目を真ん丸に見開いて、今自分にとんでもない事をしでかした人物の顔を凝視する。
「……舐めた!」
 耳に感じる熱い舌の感触。ゾクゾクと走った電気のような感覚は拓海には未知のものだ。
 顔を真っ赤にし、舐められた耳を手のひらで押さえながら視線だけで抗議すると、非難された相手は満足そうに、そしてわざとその舌の感触を呼び起こすように、拓海の目の前でゆっくりと唇を舐めて見せた。
「性的欲望を感じる相手が無防備にも眠ろうとしているんだ。これは襲ってくれと解釈されても仕方ない。…だろう?」
 ――わ…涼介さん、エロい。すげぇエロい…。綺麗な顔の人がこんなヤらしい顔したら、とんでもなくエロいんだな…。
性的欲望って、Hしたい相手ってことだろ?そんで、そいつが眠って…あれ?
 涼介の顔に紛らわされていたが、今大事なことを聞いたような気がする…。
「…涼介さんって…」
「何だ?」
「俺とHしたいんですか?」
 キョトンと、首を傾げながらさも不思議そうに呟かれた拓海の言葉に、余裕めいていた涼介の目が見開かれ、唖然としたものになる。
 ――あ、びっくりしてる。
 でもそんな顔もやっぱり綺麗だ。
 結論。涼介さんはどんな顔しててもカッコいい。
 うん、と頷いて一人納得していた拓海は、次の瞬間、今まで誰もが目にした事のないような涼介の姿に出会う。
「ハハハハ!」
 高橋涼介の大爆笑。
 ナニゴト?!と、笑わせた張本人がびっくりするほどの裏表のない素直な笑い。
「…そ、そう来るか。本当に予想を超えるよ、お前は…」
 クックックと腹を押さえ笑う涼介に、何となく拓海も気恥ずかしくなって、頬を赤らめ唇を尖らせる。
「そんな笑わなくっても…」
「笑うだろう、普通。本来ならもっと他に聞かなければならないことがあるはずなのに…まさかそんな質問が来るとはな」
 他に?何があったっけ?
「あるだろう、たくさん。その身体のことにしても…夢のことにしてもだ」
 身体…夢…。
 言われて、ようやく思い出す。
「…あっ!!」
 そうだった。
 一気にたくさんの情報が甦る。
 けれど、それはやはり拓海の許容量を越えたもののため、またクラリと眩暈に襲われる。
「一つ一つ片付けて行こうか」
「……ハイ」
 まるで教師と生徒。ゆっくりレクチャーするように、涼介が拓海に向き直る。
 拓海は居住まいを正し、ベッドの上に正座した。
「…まったく…色気もクソもないな…こんな展開になるとは…」
 苦笑しながらも、けれど涼介の顔はこの事態を楽しんでいるようだった。
 チラリとそんな涼介を窺いながらも、拓海は指を折って、質問する事を考える。
「え、と…………」
 悩む。悩む。
 どう言えばいいのかも分からない。困り果て涼介を見ると、ハァと溜息を吐き、分かったとばかりに頷いた。
「……質問は良い。お前が聞きたいと思うことを俺が答えていく。足りない情報があったらお前から指摘しろ。いいな」
「……ハイ」
 う〜ん。やっぱり涼介さんは頼りになるなぁ…。
 状況を忘れてホッコリする拓海だが、安堵していられたのはこの時までだった。



「まずは…そうだな。お前が今いるこの場所だが…」
 言われ、拓海は視線を部屋の中へと巡らせる。
「病院みたいですけど…ずいぶん豪華そうですね」
 ――豪華そう…ハッ!
「入院費!」
「…え?」
 ――困った。何で親父はちゃんと言っていかねぇんだよ。
「ここ…入院費、高そうだから…俺、いれないです」
 いきなりショボンと萎れた拓海に、涼介はパチパチと何度か瞬きを繰り返し、また笑いを噛み殺す。
「……入院費はいらない」
「え、でも?」
 こんな高そうな部屋なのに?
 一人部屋というだけで拓海には贅沢だと思うのに、この部屋の調度品は拓海が触れたこともないほど豪華なものばかりだ。
「いらないよ。ここはうちの病院だから」
「…うちの?」
「ああ。聞いた事あるだろう?うちが病院を経営してるのは。うちの病院の、ここは特別室になる」
「……はぁ。とくべつしつ…」
 まるで異次元の言葉を聞いた。
 ――お金持ちだと思ってたけど、本当にお金持ちなんだなぁ。
 つい、目が細くなる。
 貧乏を恨んだ事は…まぁ、何度かあるが、実際のお金持ちを見ると、羨むより先に目が眩んでしまう。
「代々うちの家は病院を…と言うより医師を生業としなければいけない理由がある」
 ふぅん。涼介さんちも大変なんだなー。うちは豆腐屋だけど、医者に絶対にならなきゃならないなんて…。
 俺だったら絶対に家出だな、うん。
 他人事のように聞いていた涼介の話。
「その理由は…お前の存在にある」
 それがいきなり自分に向かい、拓海は目を見開いた。
「………俺、ですか?」
「ああ。正確に言うならば、お前のような存在…だな」
 ――お前のような存在って、俺ってナニモンだよ…。
 ちょっとだけ不安になって、膝の上の拳をキュウッと握り締める。
「藤原は自分の身体の変化を確認したんだよな」
 ――変化。
 あ、そういやそうだった。
 拓海は戸惑いながら小さく頷く。
「医学的な話は省くが…藤原は元々遺伝子的に半陰陽となる可能性を持っている」
「はんいんよう…?」
 …って、ナニ?
「半陰陽とは…男性と女性、両方の性を兼ね備えている事を言う。ふたなりとも、両性具有とも表現されるが、医学的には珍しい症例ではあるが昔から無いわけではない」
 まるでおとぎ話の世界。
 けれど自分の身に確かに起こっている事実。拓海は「へぇ、すごいんだ〜」、「あ、俺もそうじゃん」と、時々彷徨いそうになる現実感を引きとめ、真剣に聞いた。
「現に、俺の母親もお前と同じ。両性を持ち合わせた半陰陽だ」
「はぁ…って、え?」
 またフワンと遠くに行きそうになっていた現実感。それが一気に身近に戻ってくる。
「え……じゃ、じゃあ涼介さんのお母さんも…俺と同じようにおかしなことになってるんですか?」
 自分の身近にもう一人も。
 じゃあもしかしたら、自分が知らなかっただけでそんなに珍しい事ではないのか?
「まぁ、そうだ。正確に言うなら…両性にしたんだけどな」
「…は?」
「…お前と同じように」
「…へ?」
「…………」
「…涼介さん?」
 いきなり黙り込んでしまった涼介に、戸惑いその顔を見つめると、涼介は端麗な顔を歪め、何とも言えないような複雑な表情で口をヘの字に歪めている。
「……藤原」
「はい?」
「今……俺はお前に関して重要な事を言ったつもりだったんだが…何も気付かなかったか?」
「重要な…こと?」
 と、言われても…。
 ほとんど重要で、どれがと言われてもサッパリだ。
 キョトンと首を傾げたままボンヤリとする拓海に、諦めたのか涼介は深い溜息を吐く。
「……両性に『した』と言ったんだ。『なった』ではなく」
 それの何が違うのか?
 よく分からなくてまたキョトンと首を傾げる。
「半陰陽の遺伝子を持っているとは言え、通常は潜伏したまま気付かないうちに一生を過ごすことが多い。主に不妊や夢精子症などの弊害はあるが、完全な…お前のような両性の機能を併せ持った存在になるのは……外科手術でもしない限りは不可能だ」
「はぁ……」
 ――何か、イライラしてきたなぁ…。
 涼介さんって、説明が難しすぎて回りくどいんだよ…。俺、バカだからよくわかんねーし。
「…その顔は良く理解していないようだな」
 その通り。
 前から思ってたけど、涼介さんって俺の考えてることお見通しだよな〜。よく人から分かりにくいって言われてるのに…。
 頭が良いからか?
「…分かりやすく言う。自然な形で完全な両性にはなるのは難しい。だから、母もそうだが、お前も、その身体は人為的に作り変えられたものだと…そう言ってるんだが、な…」
 理解の悪さに、呆れたように溜息を吐く涼介の顔をボンヤリと眺めながら、ふぅんとようやく言葉の意味が頭に浸透してくる。
 つまり……。
「…俺のこの割れ目って…作られたってこと?」
「……割れ目…。…そうだ。その先の子宮も、卵巣もな」
「チンコちっさくなったのも?」
 そう言うと、涼介がゴホゴホと咽た。
「せめて……ペニスとか言えないのか…?」
 ペニ…そっちの方がエロくさいと思うんだけど?
「まぁ…いい。それは女性ホルモンが加増したことにより自然と縮小したのだろう。実際、精巣もヴァギナの形成によりほぼその形を失っているからな」
「…せいそう…、あ、タマのことですか?そういやタマもちっさくなってたし…。あと涼介さん」
「…何だ」
「ばぎな…って何ですか?」
 ハァ、とまた涼介は大きな溜息を吐く。
「…小学生を相手に保健の授業をしているみたいだな」
 その言葉にムッとしながらも、知らないものは仕方がない。
 涼介の答えを神妙に待っていると、困惑した表情で、拓海を見ながら涼介はまた溜息。
「………確かに清純を好むが…無垢にもほどがある」
 涼介は疲れた顔で拓海の股を指差した。
「女性性器。…つまり、お前が言うところの割れ目だ」
「あ、そっか。割れ目……」
 納得し、頷いた瞬間、自分に突然生まれた箇所が思い出し、ほんのり頬を染める。
 拓海は早くに母親を無くし、女性と性交渉をした事があるわけではなく、女性のいわば「割れ目」を目の当たりにするのはこれが初めてだ。
 たとえそれが自分に生えたものだとしても、今まで普通の男として暮らしてきたのだ。見てしまったと言う事実がやたらと恥ずかしい。
 ――女の人のってあんなのになってんだな…俺、見ちゃったし、触っちゃったよ…。
 しかしそこではたと気付く。
 ――何で俺に割れ目が出来てんだよ…。
 じわじわと、先ほど涼介に言われた言葉を飲み込んでいく。
 りょうせい…はんいんよう…なった、じゃなくて、した、で…つくった?
 ――じゃあ、俺のこれって…誰かが作ったってこと?
 誰が作ったのか?
 それを考えた時、拓海は目の前の人物を見つめた。
 それは直感のようなものだった。
「……涼介さんが俺を女に…した?」
 匂いを嗅いで待ちわびていた獣。
「涼介さん、夢の中で……俺を…女にした?」
 腹に突き刺された角。
 痛みが消え、目覚めた時には拓海の身体はこうなっていた。
 まさか、なぁ…。
 そう思いながらも、でも本当かも知れないと感じている。
 目の前の涼介はハァと溜息を吐きながら、拓海の腹に手を伸ばす。
「そうだ。俺がお前を女にした」
 腹に感じる涼介の手のひら。
「だが…お前に外科手術を施したと言う意味じゃない。
 確かに医者と言う職業を必要としているが、それは対外的に隠蔽するためであって、実際にお前にしたのは…誘引だ。
 見ただろう?夢の中で。自分が何をされたのかを」
 日焼けしていない白く長い指先が拓海の腹に触れる。
 その白さに、拓海はあの角を思い出す。
「眠り続ける因子を徐々に覚醒させ、そして変化させた」
 涼介の触れた腹が熱い。
 涼介の言葉の大半は意味が分からなかったが、重要なことは分かっている。
 自分の身体は変化した。
 そしてそれをしたのは涼介だ。
 拓海はじっと涼介の目を見つめた。
 切れ長の端整な眼差し。
 その奥の瞳の色は夢の中のあの獣と同じ。
 拓海を見守り、励ましてくれた誰より近しいあの獣。
 いつも、『待ち遠しいことだ』と、焦がれるように自分を見つめていた。
 だから、怒りや悲しみなどは無かった。
「…なんで?」
 不思議なほどに落ち着いている。
 あの獣がずっと待ちわびていたものが「今」ならば、それは拓海にとっても喜ばしいものだ。
 意地悪だけど優しくて、だけどとても綺麗な獣。
 その獣と、目の前の涼介が同じだったと気付いたとき、拓海は戸惑いよりも先に…
 ――嬉しい。
 と。確かにそう思ったのだ。
 ドクドクと胸の奥で心臓が甘く痛み始める。
 涼介の指が触れている腹の奥が収縮し、生まれたばかりの子宮が指先に呼応する。
 ――何か…変。心臓も腹もキュウキュウする…。
「何故、だって?」
 拓海の記憶の中の夢の中の獣と、涼介がシンクロする。
 ニンマリと、涼介は夢の獣と同じ笑みを見せた。
「お前を…俺の妻にするためにだよ」
 へぇ。ツマ。ツマって……。
「……えっ?!」
 妻ァ?!
 言葉の意味を理解した拓海は、思わずのけぞり涼介の手のひらから離れる。
「つ、妻って…俺、オトコっスよ?!」
「今は女でもある」
「あ、そうだ…じゃなくって!」
 一気に、ペシャンと拓海の眉尻が下がる。
 言われた言葉がとんでもなさすぎて、受け入れる事が出来ない。
 女になったと言う事実よりも驚愕する言葉だ。
「…じゃ、じゃあ、俺を妻にするために…女にしたんですか?」
 ――わ、わ。何、ドキドキしてんの、俺?
 涼介の端整な顔を見つめながら、甘い夢みたいな想像が湧く。
 もしかして涼介さん、俺のこと好きなのかな?だから…?
 けれど。
「いや、違う」
 否定された言葉に、拓海は思った以上に傷付いている自分を知る。
「藤原拓海。お前が女になるから、俺はお前を妻にするんだ」
 なぜこんなに胸が痛いのか、その理由も分からないまま。



 頭の中で涼介の言葉がグルグルする。
 心臓もお腹もキュゥと痛み、何か悲しいことでもあったかのように、鼻がツンとして涙が出そうだ。
 拓海はポテンとベッドに倒れこむ。
 何だか起きているのが辛い。
「……辛いのか?」
 そんな拓海に、涼介が心配そうに声をかける。
 枕に頭を埋める拓海の髪に、涼介のあの長い指が触れる。
「それとも……怒っているのか?勝手にお前を変えた…俺に」
 ゆったりと指が拓海の髪を撫でる。
 怒って…はいない。
 けれど何故か今の拓海は優しくされるのが悔しかった。
 涼介の指を拒むように顔を背けると、涼介の眉がほんの僅かだけ歪み、そしてすぐに指が離れていった。
 その呆気なさに拓海の胸がまたキュウキュウ痛む。
 拒んだのは自分なのに、頭から消えた指の感触が恋しい。
 ――…俺、よくわかんねー…。
 変な気分だ。
 あの時に、少しだけ似ているかもしれない。
 かつて、仲良くしていた女の子の裏切りを知った、あの時に。
 あの時も、感情がマグマみたいに溢れて制御できなかった。
 悔しくて悲しくて、イライラした気持ちを抑えきれず暴走して…そして失敗した。
 今もあの時と同じ。
 悔しくて悲しい。
 けれどあの時とは違うのは、今拓海の中で溢れているのはイライラとした感情ではなく、ただ悲しくて切ないと思う気持ち。
 小さな子供のように泣き喚きたい気持ちだ。
「……涼介さん」
 名を呼ぶと、涼介が拓海の目を見つめた。
 いつも冷静な瞳。
 余裕を湛え、拓海を混乱させて、楽しそうに微笑む。
「何だ」
 悔しいな。
 悔しいと思う。
 どうして自分がこんなにワケわからなくなってるのに、いつも見透かしたように冷静なままなんだろう?
「俺……帰りたい」
 涼介と一緒にいると自分が馬鹿みたいに思えてくる。
 一人で混乱して、悲しんで…勝手に悔しがっている。
「うちに、帰りたい…。ここ、ヤです」
 慣れないシーツの感触。フカフカのマット。
 綺麗な部屋に、独特の消毒薬の匂い。
 拓海の日常ではない環境。だからこんなに情緒不安定になっているのか?
 あの古びた、としか表現できない自分の家が恋しかった。
 豆腐の匂いに包まれた、ガサついた畳と軋む廊下の感触。
 化繊の安っぽいシーツに包まれ、固いマットの乗ったパイプベッドで眠ればこの気持ちも消えるような気がした。
 だけど。
「駄目だ」
 涼介は固い表情のまま、拓海の望みを切り捨てた。その声音も固い。
「お前をここから出すことは出来ない」
「何で?!」
 思わず、跳ね起き涼介を睨んでいた。
 視界がぼやけている事で、自分の目が潤んでいることに気が付いた。
 涙目の拓海に睨まれても涼介の表情は変わらない。
 厳しい顔のまま、拓海と同じ力で見つめ返す。
「お前はまだ変化したばかりで安定していない。安定するまでここから出す事は許さない」
 まるで、拓海が悪いかのように睨む涼介に怒りのような、苛立ちのような感情が生まれる。
「……勝手だ、涼介さん」
 夢の中の獣は意地悪だけど優しかった。
 変化する前の現実の涼介は、拓海を気遣い、いつもとても優しかった。
 けれど今、目の前の涼介は意地悪で、拓海に対しちっとも優しくない。
 ぷい、とそっぽを向くと、涼介が苛立つのが空気で感じられた。
 けれど拓海はそれ以上にムカついている。
「ああ。確かに俺は勝手な人間だ。お前を勝手に女にしてここに閉じ込める。だが、それだけじゃない」
 いきなり、腕を掴まれベッドの上に押し倒された。
 驚き、見開いた目に映ったのは、恐いくらいに厳しい顔で拓海を見下ろしている涼介だった。
「お前がどれだけ俺を嫌おうとも、必ず俺のモノにする。お前の意思など関係なく」
 拓海を睨む涼介の目が光っていた。
 綺麗な濃紺だと思っていた色が、淡くなり紫色に輝いている。
 ギラギラと、知性だけではない激情を湛える瞳に射抜かれ、拓海は目を見開き固まった。
 場違いな事に、その瞳の色を綺麗だと感じている自分までいる。
「お前は……俺のものだ」
 紫の瞳が迫ってくる。
 どんどん近付いてくるその瞳に、拓海は逃げることも出来ず、ただ見惚れていた。
 ――きれいだな…。
 ゆっくりと、その紫の瞳が瞼に覆われ閉じられる。
 つられたように、拓海もまた目を閉じた。
「……拓海」
 吐息を感じたと思った瞬間、柔らかな感触が唇を包む。
 キスをされている。
 そう気付いたのは、熱い舌が拓海の唇を割り、口腔に侵入してきた時だった。






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