ハァ、と吐き出す息が白い。
まだ冬の時期には早いとは言え、朝晩の冷え込みは厳しい。
つい、軽装のまま出かけてしまい、冷え切って帰ることの繰り返し。
多忙を極める人と、時間を合わせることは難しい。
まだ学生である拓海も昼間は授業と言う枷があるし、夜は未成年と言う事実が外出を阻む。
いや、以前はそれでも外出はしていたのだ。
けれど本当の保護者よりも厳しい今の拓海の保護者が、一人で夜外出することを由としないのだ。
「別にこんな男みたいなの…大丈夫だと思うんだけどなぁ…」
ブスっと唇を尖らせ、寒さに手を擦り合わせながら文句を呟くが、決して嫌なわけではない。
愛される事に慣れていない拓海にはくすぐったくて居心地が悪いだけだ。
ハァと拓海はまた白い息を吐いた。
「…涼介さん…まだかな?」
昼間は不可能。
夜はダメ。
そうなると残るのは早朝だけになる。
日課となっている早朝の豆腐の配達の帰りだけが二人で会う機会となった。
今日も配達をこなし、帰り道である秋名湖畔の駐車場に車を停め、拓海は涼介を待つ。
現在の保護者…いや、恋人でもある彼を。
拓海はシートに深く座り、目を閉じる。
彼と、恋人となるまで色んな事があった。
後から考えると、涼介がこっぴどく叱ったように無謀でしか無かったと思う。
体を売る、など。
けれどあの時にはそれしか無いと思ったのだ。
突然、元気だと思っていた父親が倒れ、緊急に手術が必要だと告げられた。
幸いにも、手術をすればすぐに治る病気ではあったのだが、支払いの段階で躓いた。
全ての金をほとんど車につぎ込んでいたため、藤原家には満足な貯金が無かった。
さらに他の色んな支払いも合わさり、療養中の文太を心配させるわけにもいかず、拓海は一人で悩んでいた。
そんな時に思いついたのが、かつて友人であった同級生の存在だ。
彼女は父親ほどの年齢の男を相手に援助交際を行っていた。
金額にすると、月に30万ほどは貰っていたのだと彼女は自慢げに語っていた。
それが所以で拓海は彼女とは疎遠になってしまったのだが、今はそれに縋るしかないと…そう思っていたのだ。
拓海に相談された少女は「任せて!」と無邪気な笑みを浮かべた。
そして紹介されたのが、一見素朴な中年の小柄な男。
『あのね、拓海くん。売るのもね、ちゃんとルールがあって、モトジメとか言うのがあるの。その人たちにちゃんと話通さないと大変なことになっちゃうから、最初はモトジメの紹介でお仕事した方がいいと思うの』
拓海は不安だった。それでもやるしかないと思い込んでいた。
中年の男は、何度も拓海に「これは甘い商売じゃない」と諭し、辞めるよう説得したのだが拓海は折れなかった。
『そりゃ…オレみたいな男みたいのを買う人いないかも知れないけど…でも、これしかないんです』
『そう言うわけじゃないんだけどなぁ…まさかアタシが買うわけにもいかないし…そんな事をしたらオジサンがヤバイからなぁ…。…しょうがない。こうなったらアタシがちゃぁんとお嬢ちゃんのために、カッコよくて立派な人を連れてきてあげるからね。ああ、そうそう。お金もたんまり払ってくれそうな人をね』
そんな人がいるのだろうか、と思いながらも拓海は素直に男に頭を下げた。
『お願いします』
そして約束通り、男は言った通りの人物を連れてきてくれたのだ。
予想以上の、拓海にとって最高の人物を。
拓海は目を開け、そしてささやかな膨らみしか見せない自分の胸をギュッと掴む。
胸の奥が、ドキドキと戦慄いている。
あの時の事を思い出すと、いつもこうなる。
恐くて恐くて仕方が無かったあの夜。
何をされても耐えるのだと思っていたあの日。
現れた男は拓海に対し優しかった。
それは…多少強引なことも強いられたが、根本は拓海を労わり優しくしてくれた。
顔も知らない他人。
そう思いながらも、触れ合わせた肌だけで惹かれた。
恋、とかでは無かったのだと思う。
ただ、繋がった箇所から溶け合って、自分の一部が相手に渡ってくっついてしまった、そんな感覚を感じていた。
だから、離れたくもないし、一緒にいたいと思った。
そしてそう感じた相手がまさか、あの高橋涼介なのだと知った時。
あの衝撃は例えようも無い。
何故なら拓海にとって涼介は初恋の相手とも言うべき存在だった。
淡く、憧れに近い恋の相手。
そんな相手に抱かれたと言う事実と、その彼があんなに嫌らしいことをしてきたのだと言う事実、さらに言うなら自分が彼に見せた痴態の数々を思い出し、混乱し枕で殴るなどと言う愚挙を犯したりもした。
『藤原が酷い目に遭わなかったのは運が良かったからなんだぞ?』
と彼は叱る。
『あの時、俺があそこにいなかったら…お前の顔を見ず断っていたらと思うと気が気じゃないよ』
そう何度も繰り返す。
確かに、すごい偶然だと思う。
けれど、だからこそあれは必然ではなかったのではないかと、拓海は何となく思う。
『でも…結果的に涼介さんだったからいいじゃないですか』
そう言って、「反省が足りない」と散々泣かされたのは先日のこと。
また苛められるかも知れないが、拓海はあれはあれで必要なことだったのだと、そう思うのだ。
結局、危惧していた父親の入院費は、父親がもう既に分割で支払うことを決めていたし、滞っていた数々の支払いも、
『お前の知らない貯金くらいあるんだよ』
と、密かに拓海のために貯めていた金を使い無事に払われていた。
そう。全ては拓海の空回りだったのだが、それが無ければ涼介とこんな関係になることは無かったのだと、そう思うのだ。
ギュッと握り締めた胸の奥の鼓動は速まる。
掌に当たる小さな尖りがしこって痛い。
ゆるく、彼がするように揉むと甘い溜息が漏れた。
「…ん、ふぅ…」
快楽を教えたのは、彼だ。
どこまでも甘く自分の体を作り変えたのも彼。
快楽に、素直になることを教えたのも彼。
拓海の中に凝ったままあった男みたいな体へのコンプレックス。快楽への躊躇いは消えている。
未だ恥ずかしいと言う感情はあるにはあるが、衝動を留めるものでは無く、逆にスパイスとさえ感じている。
ミダラだな、とは思っている。
けれどそんな拓海を彼は受け入れてくれる。同じ熱で。
指が、胸から疼いている下腹部へ向かう。
布地の下の、涼介により開発された部分へ向かおうとしたその瞬間、車の窓をコツンと叩かれた。
そして無遠慮にドアを開く。
「一人で随分楽しそうじゃないか?」
意地悪そうな笑み。
それに堪らなく感じる。
その先にどこまでも、蕩けるように甘い優しさがあるのを知っているから。
「胸は弄っていても良い。けど…ここは俺のモノだから、お前でも勝手に弄るなよ」
腕を拘束され、屈んだ涼介の頭が服の上から下腹部にキスをする。
カッ、と一気に頭に血が上る。
ぶるりと震えた身体に気付いたのだろう。涼介が拓海を見上げ淫蕩に笑う。
太ももに頭を乗せ、クスクスと笑いながら布越しに敏感な狭間を指でなぞる。
「やっ……ぅん…」
ジワリと、服の下でそこが濡れているのを感じる。
息は荒く、目は潤み、身体はカタカタと小刻みな震えを刻んでいる。
「拓海。今日はバイトは休み?」
今日は休日だ。けれどだいたい休みの日には放課後だけのバイトをフルに入れている。
でも今日は…。
拓海は無言のまま頭を縦に振った。
「なら良かった。俺も今日は時間を空けたんだ」
それが意味するところは一つ。
たくさん。
たくさん一緒にいられると言うこと。
そしてたくさん…涼介でいっぱいにして貰えると言うこと。
ブルリと全身に悪寒めいた感覚が走る。
嫌悪ではない。期待に身体が震えた。
「嬉しい?」
ゆっくりと、行為を想像させるように涼介が唇を舐める。
それに煽られ、熱が高まり頭がぼうっとしてくる。
「…うん。うれ、しい…」
自然と微笑んでいた。
ピクリと涼介の片眉が跳ね上がる。
そして苦笑を刻んだままの唇が拓海に寄せられ、吐息ごと飲みこむように塞ぐ。
「……ぅん…」
「…俺も嬉しい」
涼介の指が拓海の胸を包み込む。激しく鳴る鼓動が彼の掌に伝わっている。
「拓海」
名前で呼ばれるようになったのはすぐだ。
他の、彼の弟である啓介たちなどがいる場では「藤原」と苗字で呼ぶ。名前で呼ぶのは、二人きりのときだけ。
「今日、お父さんはご在宅かな?」
「…え?」
突然、父親の話になり拓海は戸惑う。
怪訝に思い涼介を見れば、意外なほどに真剣な眼差しを拓海に向けている。
「結納の日取りをね」
「…え?」
ユイノウって何?
頭の中で言葉がグルグルと回転し、そして一つの漢字が頭の引き出しから取り出される。
「結納?!!」
「ああ」
「な、何で?結納って…そんな…」
戸惑い、バタバタと暴れ出した拓海に、涼介が小気味良い笑い声を上げ、そして無防備になっていた下腹に触れる。
服を乗り越え、素肌の濡れた奥へ。
「……ひ…っ!」
「何でって…拓海が欲しいって言ったじゃないか」
楽しそうに、けれど眼差しに熱を孕み、涼介が拓海を弄る。
くちゅん。くちゅん。
朝の爽やかな空気に似つかわしくない、淫靡な夜の空気を思わせる音。
「言って…って、…なに、も…言って、ない…」
「言ったよ。下さい、って言ったろ?」
「…言わな…」
「言ったよ。お金、下さいって」
「お、かね…?」
そして思い出す。
…言った。
確かに、あの時。わけ分からなくなって、冷静なこの人を困らせてやりたくて…お金を要求した。
「ひゃく、まんって…」
「だからさ。払おうかと思って」
驚きにキュウっと内部を弄る涼介の指を締め付けた。
まさか、本気で払うつもりなのだとは夢にも思っていなかった。
むしろ、今の今まですっかり忘れていた。
けれど、涼介は忘れていなかった。
「結納金として」
しかも、付加価値まで付けて。
「う、そ…」
「本当。だから言ったろ?安いもんだって」
言った。確かに。でもまさかこんな意味だとは思わなかった。
「それで、お父さんは家にいらっしゃるのかな?」
拓海は目の前の涼介のシャツの胸を握り締めた。
ドクドクと心臓が戦慄きだす。
「オレ……まだ高校生ですよ」
「知ってる。高校生にこんな事してるなんてバレたら…俺は淫行で捕まるな」
「だから…結納?」
まさか、と涼介は笑った。
拓海の耳を噛みながら。
「前に言っただろ?県外遠征の話」
「あ、はい」
こんな関係になってすぐに、拓海は涼介にその話を持ちかけられた。
『こうなる前は、下心があって素直に申し出る事が出来なかったが、こうなってしまったからには純粋にお前に言えるよ。ドライバーとして参加して欲しいんだ。お前の技術が欲しい』
そう言われ、悩んだ末に拓海は頷いた。
恋とか、愛の領域ではなく、一人の尊敬できるドライバーである彼に付いて行きたいと思ったのだ。
きっと、この人なら自分の見えない世界まで連れて行ってくれるのだと、そう信じていた。
言葉通りに、彼は厳しい指導者だった。
けれどいったん私的な場になると、甘すぎるくらいの恋人に変貌する。
「活動が始まればお前の存在が全面に出ることになる。そうなると…悪い虫が寄って来るだろう?」
一瞬、言われた意味が理解できなかった。
「他の奴に取られちまわねぇように、分かりやすく俺のモノだって証をね」
「他の奴って…そんなの…」
言うと、涼介の瞳に剣が宿り、胸を強く握られ、首筋に歯を立てられた。
「い、いた、ァ…!」
涙目で涼介を睨めば、驚くほどに強く剣呑な眼差しの彼がいた。
「秋山に小柏、それに…啓介もだな。お前の周りをチョロチョロしやがって…」
疼く身体が熱っぽかった。
けれど今は胸の辺りからジワリと熱いものが広がる。
涼介の感じる焦燥は、勘違いも甚だしいものだとは思うが、嫉妬してくれているという事実は単純に拓海を喜ばせる。
嫉妬なんて、拓海の方がもっとしている。
恋愛ごとに疎い拓海の眼から見ても、目の前のこの人がどんなランクの人間か理解している。
一緒に街を歩けば、擦れ違う人たちの視線から、否が応でも理解させられた。
不安なのは拓海の方だ。
「あの……」
離れろ、と言われてももう離れられないのだ。
あの夜に、拓海の大事な何かが涼介の中に入り込んでしまった。抜け出すことも、戻ることも出来ない。
ぴたりと、涼介の身体に寄り添い拓海は頷いた。
「オヤジ…家にいると思います」
「じゃあ……いいか?」
どさくさに紛れているようだが、これはれっきとしたプロポーズだろう。
拓海は頷いた。
「責任…取ってください…」
「あ、ああ。もちろ…」
「オレも取るから」
涼介が息を呑む。
「涼介さんが…好きです」
顔も知らず身体を繋げた。
その後もどさくさに紛れるように恋人同士となった。
これが初めての告白。
拓海の言葉に、涼介の身体が強張り、そして衣服に潜り込んでいた指が抜けていく。
気分を害したのだろうかと、不安になり見れば困った顔で苦笑いを浮かべる涼介がいた。
「お前の前だと自分がとんでもない悪党みたいな気分になるよ」
それって悪い意味?
恐くて目が潤む。するとそうじゃないとばかりに涼介が優しく頬を撫でた。
「がっついてばかりで肝心な事を言い忘れていたな」
ゴメンと呟かれ、何の事だろうと首をかしげた拓海は、けれどすぐにその答えを知る。
「好きだよ」
手を取られ、まるで騎士がするかのような礼儀正しいキスが手の甲に降る。
「…愛してる」
その時に漸く拓海も気が付いた。
これが、涼介からの初めての告白である事を。
おかしくて、声を上げて笑う。
「順番、めちゃくちゃ」
涼介もまた苦笑する。
今度は拓海の唇に啄ばむような軽いキスを降らせ。
「結果は同じだから、許してくれ」
許すも何も。
拓海は目の前の身体に抱きついた。
伝わる熱。
伝わるもの。
目を閉じてその身体を味わう。
たとえ誰だか分からなくても、きっとこの感触だけで惹かれていただろう。
この腕の中は心地よく、そして何より熱くさせる。
熾火になっていた体の熱が、またフツフツと湧き上がり拓海の全身を燃やす。
焦れったくて、腰を揺らすと涼介の含み笑いが聞こえた。
「奇遇だな。俺もだよ」
そして、熱の固まりが押し付けられる。
あの日あの晩あの夜に。
月の光も朧なあの暗闇で。
拓海は売ってしまったのだ。涼介に。その運命ごと。
「いっぱいに…して?」
強請ると、あの暗闇では見えなかった獣の顔で涼介が笑った。