薄明るかった空が翳り、空を闇色に包む。
夏の蒸せるような暑さは過ぎ、凍て付く冬に向けて、肌寒さを感じる季節へと変化した。
シャツ一枚だった時期は終わり、ジャケット無しでは屋外を歩けないほどの気温。
けれど今の涼介はその肌寒さを感じない。
現在の彼の服装は浴衣に丹前。
温泉で温まった体に、食後に嗜んだ日本酒が涼介の体を温めている。
涼介は滞在する旅館などが立ち並ぶ温泉街を外れ、薄暗い裏通りを歩いた。酒の残る口で生温い溜息を吐き空を見上げる。
暦によると今日は満月。
通説によると満月の夜は犯罪が多いらしい。血が騒ぎ、興奮しやすくなる周期であるようだ。
だが今その月明かりは厚く覆われた雲が光を遮り、その姿をぼんやりとしか映さない。
けれど確かに、涼介は満月の影響を体に感じていた。
酒のせいだけではない熱の火照り。治まらない胸のざわめき。
涼介はまた溜息を吐く。今度は熱っぽさを加えて。
…衝動が治まらない。
あの夏の日から。
いや、あの少年に出会ってから、ずっと。
最初は興味だけだと思っていた。
だが彼と初めて言葉を交わし、そして体の奥深くから発する情動を感じたことで、涼介はそれが紛れもなく欲望に根付いた「恋」であることを自覚した。
相手はまだ高校生の、そして同じ同性だ。
今まで、品行方正とは言い難いが、概ね規範的に生きてきた涼介にとってそれは認め難い事だった。
しかし日を追うごとに感情は高ぶり、とうとう学業にまで影響を与え、集中力を高めるため高橋家で押さえている老舗旅館の一室に滞在するようになって三日。
けれど成果ははかばかしくなく、ますます衝動は強くなり、最近では毎夜のように夢を見る。
華奢な少年を、乱暴に組み敷き、情動のままに行動する自分の姿を。
女のように白い肌。
赤らんだ頬。
大きく見開かれた瞳は潤み、涼介に哀願の眼差しを送る。
眦を指でなぞり、震える唇を塞ぎ、舌を潜り込ませる。
薄い胸の先の朱色の尖りを指で摘むと、咽喉の奥からくぐもった声が聞こえた。
じっとりと。
舌嘗めずりをしながら自分の中の獣が微笑む。
肌に吸い付き、跡を残し。
『気持ち良い?藤原』
ハァ、と涼介は闇色の空に熱を孕んだ吐息を零した。
彼を、犯す夢を止められない。
あの少年。藤原拓海を。
思春期にも無かった衝動に、涼介は戸惑いを隠せない。
この衝動が何であるのか。解せ無いほど涼介は愚鈍ではない。
けれど…同性である少年に持つには異常すぎる感情だ。
涼介は寒さを感じたかのように、両腕を丹前の袖口に滑り込ませ自分の体を抱える。
今も。
あの少年の姿を思い浮かべるだけで心臓が割れ鐘のように鳴り響く。
そして当に落ち着いたはずの性欲が暴れださんと下腹部に熱を溜める。
――浅ましい。
そう思いながら再度溜息を吐く。
もう一度あの少年に出会ったとき。
夢の中のように襲う自分がいるのでは無いか?
冷静な顔のままで会う自信が全く無い。
ずっと脳裏で温めていた関東最速プロジェクト。
その要に自分の弟と同様にあの少年を必要だと考えている。
けれど…実行に移せないのはひとえにこの暴れ狂う欲望のせいだ。
ずっと描いていた夢。
それが愚かな感情により阻まれている。
自分が同性愛嗜好になったのかと悩んだ時もあった。
試しに、男を相手にそう言った行為を試そうとした事があった。
けれど、一向に性欲どころか嫌悪感しか湧かず、彼が特別であるのだと言う確信しか生まなかった。
さらに、他に欲望を解消する手段として女を抱こうとしても性欲の欠片さえ湧かない。
女を目の前にした瞬間に、あの少年の姿が目に浮かび、その違いに興ざめし熱が冷める。
きっとこの熱はあの少年にしか静められない。
そう、思っていた。
けれど。
「お兄さん。ヒマかい?」
闇夜に、ぽうっと灯る小さな赤い火。
それが誰かの煙草火であることに気付いたのは、声をかけられてからだった。
ザリ、ザリ、と砂利を踏む足音が聞こえる。
「一人でこんなトコにいるってぇ事は、噂聞いてきたんだろ?」
近付いてきた人物の顔が、煙草の灯りでぼんやりと見えてくる。
こざっぱりとした身なりの、人の良さそうな初老の男。
一見どこにでもいそうな風体の男なのに、見る目つきは涼介を値踏みし、全身を眺め回す。
――計られている。
その視線に、周囲に群がる女と同質の物を感じた。
「噂とは?」
男の言葉に返したのは気まぐれだ。
熱を冷ますためなら何でも良かった。
それが例え、薄暗がりの世界の中への誘いであっても。
男は、涼介の答えにほんの少しだけ眉を顰めた。
「おや、違うのかい?……参ったなぁ」
言葉の通りに、困ったと言わんばかりに頭を掻く。
「兄さんなら、男前だし身形も良いから、うってつけだと思ったんだけどなぁ」
謎々のような言葉。
涼介は苦笑した。気晴らしにはなる。
答えが、分かりきったものであっても。
「何にだ?」
男が笑った。
そこだけ、「色」を見せた笑顔で。
「そりゃアンタ…」
そして涼介に小指を立てて見せる。
「相手にだよ」
やはり、な。
涼介は心中で溜息を零した。
「…美人局か」
馬鹿にした響きが漏れたのは、答えの簡単さに失望したからだ。
面白い暇つぶしになると思ったのに期待外れだ。
けれど、話はそこで終わらなかった。
「イヤイヤ、まぁ、そうなんだけどね。今回ばかりは違うんだよ」
男の顔が変わる。全くの好々爺然とした表情に。
「実はね。今回の女の子は…全く男を知らないんだよ」
思わず、顔に「嘘だろう?」と言う感情が出た。
すると表情を読むのに聡い男が、「イヤイヤ」と手を振る。
「本当なんだよ。良い子でねぇ。親父さんと二人暮らしなんだけど、その親父さんが病気になっちまって。その治療費を稼ぐためにこんな商売をしようって言うんだ」
詳しくは知らないが、こんな商売の男は人当たりの良さそうな顔で他人の懐に付け込み、根こそぎ持って行こうとするのが常だ。
女たちの扱いも海千山千であるし、また人を見抜く目も、人を騙すことにも長けている。
涼介とて、いわゆる上流階級の家庭に育ち、虚構を使い分ける大人たちの中で育ったためか嘘を見抜く目は他者より優れている。
そんな男が。
そんな涼介が。
男の言葉に演技は無く。
そして涼介も男の言葉に嘘は無いと感じた。
「俺が言うのは何だけどね。こんな商売には似つかわしくない本当に良い子なんだ。だから少しでもあの子に良い相手を見付けてあげたいんだよ」
同情を誘い買わせようとしているわけではないらしい。
涼介の直感がそう教える。
「随分矛盾に満ちた言葉だな。だったら止めれば良かっただろう?」
すると男が本音を窺わせる深い溜息を吐いた。
「…止めたよ。何度もね。けど…どうしても…って。あんな必死な顔で頭下げられちまったらねぇ…」
その言葉に興味が湧いた。
例え抱かなくとも、長けた男にそう言わせるだけの女の顔を見たいとそう感じた。
「面白いな」
涼介が呟くと、男がパッと顔を上げた。
「あんた……、あ、ああ、本当に良い子なんだよ!」
興奮した面持ちで男が一気に喋り、そして薄暗がりに向かって叫んだ。
「月ちゃん、月ちゃん!ちょっとこの兄さんに顔を見せてやっておくれ!」
そこにいるのか?
その疑問はすぐに消えた。
暗がりと思ったのは建物で。
スゥ、と窓が開き、蝋燭のような僅かな明かりが室内から漏れる。
月も無く。
星も無い暗がり。
灯りと言えば蝋燭のような薄ぼんやりとした光だけの中で。
その横顔はやけに涼介の目にはっきりと映った。
――似ている。
薄茶の柔らかそうな髪。
白い肌。
ドクリ、と心臓が跳ねた。
夢の中で何度も犯した少年。
その風貌を女の中に見た。
血がざわめき、抑えていた衝動が溢れ出す。
「……買おう」
一心に女の方を見つめたまま、答えた。
男がにんまりと微笑み、窓がスルスルとゆっくり閉まる。
吐く息が熱かった。
あの少年の面影を残す体を嬲りたいと。
身の内の獣が鎖を引きちぎり暴れ出す。