互いの体温を確認するように触れ合う二人の甘い空気を壊したのは、扉を叩く無粋な音だった。
ドンドンと、薄っぺらい木を叩く音。
「お客さん、時間ですよ」
何度も繰り返されるその声に、涼介は現実を思い知らされる。
例えようもないほどの快楽を分け合った相手。
それは所詮恋人ではなく、金で購った相手でしかない。
少女が与えた温もりも真実ではない。偽者でしかないもの。
身体を引き離すと、二人の間に寒々しい空気が走り、熱かった肌が一気に冷える。
「……。分かった」
扉の向こうに無愛想に返事を返し、涼介は溜息を吐きながら放り投げた己の浴衣を拾い上げた。
そしてティッシュでざっと身体を拭き、浴衣を羽織り帯を締める。
涼介が立ち上がると同時に、少女も身を起こそうとするが、初めて欲望を受け入れた身体は無事では無かったようで、「…う」と呻きまた布団の上に横たわった。
「…無理するな」
少女の呻き声に、涼介は振り返り少女の傍らに跪き宥める。
そして無防備にさらされたその細い身体に付着した汚れをティッシュで拭き取った。
「あ、の…自分で…」
「いいから。寝ていろ」
医学部の実習で人体に触れるように、出来るだけ無感情に少女の身体を拭う。
さっきまでの熱の名残を消すように。
飽くまでも事務的に触れる涼介に、少女も身体の力を抜きその手に任せる。
けれどその手が、足を掴み狭間を露にした途端に暴れだす。
「や…そこは…!」
少女の内部から溢れた蜜液と、涼介の欲が混ざったそこは淫猥で、無感情であろうとした涼介の意思を砕こうとする。
それを必死に押し殺し、無造作にそこを拭い、ふと見ると白かったティッシュが黒っぽい色に染まっていた。
「……何だ?」
不審に思い、顔を近付け、そして気付いた。
――血だ。
処女の。
カッ、とまた頭に血が上る。
少女もその色の変化に気付いたのだろう。
固まる涼介を不思議そうに見ていたのが一気に強張る。
バッと開いていた足を閉じ、怯えたように布団を被る。
コクリと口の中に溜まった唾を飲み込み、平静であろうと勤めながら汚れたティッシュをゴミ箱の中に捨てた。
し、んとした空気の中、己の呼吸音ばかりが響いているような気がした。
「…あ…の……」
そんな中、少女のか細い声がする。
布団ですっぽりと身体を覆い、顔だけを出した姿はさっきまでの媚態とは打って変わった、あどけないものだった。
涼介はそのギャップに苦笑する。
「…ああ、そうだったな。まだ金を払っていなかった」
懐に手を遣り、財布を取り出すと少女が息を呑む音が聞こえた。
財布を探り、中身を取り出そうとするが暗闇のため判別できない。
「灯りを点けるぞ」
枕元の行灯に歩み寄り、傍らに置いてあったマッチで火を点す。
灯りが闇に慣れた目に眩しく映る。
最初、この行灯の灯りがやけにみすぼらしく思えたものだが、今は部屋の中の隅々まで見渡せるほどのしっかりとした灯りに感じた。
財布の中から、相場よりは多いだろう枚数を取り出し、少女に渡そうと振り返り…涼介は硬直した。
――似ている。
最初からそう感じてはいた。
その気質にも、あの少年に似通ったところがあるのも感じていた。
けれど灯りに照らされた少女の顔はあの少年のものと同じ造りと雰囲気を備えていた。
違うのは性別とその髪の長さだけ。
だが涼介を驚かせたのはその酷似だけではない。
少女の薄く染まった頬の上に、灯りに照らされ煌く輝き。
それが涙の筋であるのだと、気付くのは雑作も無かった。
「泣いて…いるのか?」
無体な事を強要した自覚はある。
けれど先ほどキスしたときには、少女の頬はこんなにも濡れていなかった。
戸惑う涼介の言葉に、少女も自分が泣いている自覚が全く無かったらしく、ハッとした表情で頬に手をやり濡れていることを確かめる。
くしゃりと、少女の表情が崩れた。
「…す、すみません……そ、そっか…オレ…お金で売ったんですよね…」
少女は笑うのに失敗した顔で泣いていた。
「オレ…バカだから、わ、忘れてて…」
甘い棘が刺さる。
涼介の胸に刺さり、抜けるどころか深みまで達する。
全身に渡り、血肉に変貌する。
愛おしい。そうだ。涼介は目の前のこの少女が愛おしい。
衝動のままに、少女の涙を優しく指で拭い、その小さな頭を胸に抱き締める。
少年への感情の面影を胸に残したまま、腕の中の少女に抱く感情が押し殺せない。
最初に窓から垣間見たあの一瞬。
あの瞬間に感じた情欲。
それは一目惚れと言って過言ではない衝動だった。
この少女が愛おしい。
あの少年に感じるものとは別に。
藤原拓海。
彼に感じているものは正しく「恋」だ。
けれど今、この少女に抱くものは「愛情」
この部屋を出てしまえば、少女はもう自分の腕の中には閉じ込めておけない。
もう、この少女を抱けない。
あの熱く柔らかい肉の中に埋まる事も出来ない。
いや、それだけではなく、この体が他の男の欲望に穢される事になる。
涼介は歯噛みした。
そんな事が許せる筈がない。
『これ』は俺のものだ。
ギュッと腕の中の頭を抱き締める力を強くすると、ふと、少女の髪に埋め込んだ手に違和感を覚えた。
涼介の、明晰な頭脳が予感を生んだ。ドクンと心臓が激しく跳ねる。
指に力を込め、髪を掴み引っ張る。
「…あ!」
少女が微かに叫ぶと同時に、僅かな抵抗だけを残し、掴んだ髪がずるずると抜けていく。
それがヘアピースと呼ばれるものだと、気付いたのはすぐだった。
現れた少女の本当の髪型。
それは少年のような短いものだった。
涼介は「期待」をしない。常に冷静に、客観的に事態を見越し、事実を判断する。
期待などと言うあやふやな感傷で、物事に対する冷静な判断力を失わないために。
けれど、今、涼介は初めて「期待」をした。
そうであって欲しいと願い、けれど冷静なままの自分が、それは有り得ないと答えを下す。
しかし。
願わずにはいられない。
そんな涼介の願いを叶えるように、眩い光が部屋の中に差し込む。
隠れていた月の雲が切れたのだ。
秋の満月の光が部屋の中を照らす。
間違いない。
光の下、涼介は確信した。
目の前のこの少女が、「彼」なのだと。
そして突然の光に、少女もまた目の前の人物を悟った。
目を見開き、そして開いた唇から「名前」が漏れる。
「…涼、介、さん?」
全身の毛が逆立った。
腕は鳥肌立っている。
大声で高笑いしたい気分だ。
「藤原」
ビクンと、名を呼べば少女の体が跳ねた。
しかし涼介は構わず、その滑らかな頬に手を沿え、そして満足気に微笑んだ。
「また…会えたな」
あの夏の夜。
『また会おうぜ』
自分が一方的に告げた再会の約束。
それが今果たされたのだ。