啓介が家を空けて半日。
さすがにもう収まっているだろう。
そう思い帰宅した啓介の目に映ったのは、水浸しの廊下。
まるでナメクジの足跡のように、伝う水の滴はバスルームから兄の部屋まで続いている。
「まさか……」
と思い、バスルームを見れば、じっとりと濡れ、脱ぎ捨てたままの兄の服。
そしてタイルの上に飛び散った……白い滴と篭る匂い。
「…やりっぱなしかよ」
兄は元来整頓好きだ。
散らかしたり汚すのはもっぱら啓介の仕事で、涼介は注意をしながらも片付ける。
その兄が…この有様。
どれだけ余裕が無かったのか、一発で窺える。
ちょっと泣きそうになる自分を堪えながら、脱ぎ捨てた服を洗濯機の中に入れ、飛び散った白い滴はブラシで擦り、篭った匂いは換気する。
さらに廊下を伝う水の後も、雑巾で拭きながら進む。
一階から階段。そして兄の部屋まで息を切らせながら拭き上げる啓介の耳に、驚くべき音が聞こえてきた。
「…ん、やぁ、やだ、涼介さん、…離して」
明らかに、嬌声としか取れない男の声。
掠れ、聞いた事がないくらいに艶を帯びているが、それは正に啓介がライバルと黙している少年の声だ。
確認と、僅かな好奇心。
そっと廊下に這い蹲ったまま、雑巾を握り締め、啓介は涼介の部屋の扉を開く。
兄の部屋には鍵はあるが、あの焦った様子から鍵はかけられていないだろう。その啓介の予想は当たり、何の抵抗もなく扉は開いた。
こっそりと開いた、ドアの隙間から中を垣間見る。
「…や、だ…もぅ恥ずかしい…涼介さんの変態」
ベッドの上で、枕で顔を隠しながら横たわる拓海の足の間に涼介の頭がある。
もちろん拓海は全裸。けれど涼介は下半身にのみ着衣を纏っているが、フロント部分を全開にしているせいだろう。ズボンはずり下がり引き締まった尻が半分見えている。
そして…響く水音。
その音の発生源が、兄の口と拓海の下半身から来ているのは明らか。
さらに、啓介の見間違いでなければ、兄は拓海を舐めながら自らの手で自身の欲望を擦っている。
「…ああ。俺は変態だ。拓海限定のな」
「やぁ…そんなとこに舌入れないで…」
パタン、と啓介は扉を閉めた。
額から流れ出る汗。
かつて、何度か遭遇したことのある兄の情事の光景とは全く違った異質なものだった。
兄は淡白なのか、自分から積極的に相手に触れることが無い。
たいてい啓介が見たのは、相手が涼介へ奉仕する姿ばかりだ。
情事の真っ最中だというのに、涼介は平静で興奮するということもあまり無いようだったのだが…。
「…こ、コアだぜ……」
そろそろと啓介は匍匐前進でその場を離れ、落ち着くために冷蔵庫からビールを取り出し飲んだ。
兄が恋を成就した。
それは祝うべき事なのだが、まさか…これからもあんな事が続くのか?
「…早まったか、俺?」
不安になる啓介の耳に、トントンと階段を下りる足音が響く。
ギクリ、と身を強張らせ、固まる啓介の前に、予想通りの涼介が現れた。
半裸の彼は、その手に汚れたシーツを持っている。
何で汚れたのかは…想像に難くない。
「ああ、啓介。帰っていたのか」
「あ…あ、ああ」
ぎこちないながらも、頷く。
「もしかして、掃除してくれたのか?バスルームも?」
「…あ、ああ」
「ありがとう。助かったよ」
洗濯機にシーツを突っ込んだ涼介は、啓介と同じく冷蔵庫の扉を開く。
けれど啓介とは違い、取り出したのは酒ではなくスポーツドリンクと水。
コップと、トレイとを一緒に用意しているところを見れば、それは部屋にいる拓海用の物だろうか。
「たくさん汗をかいたからな」
聞いてもいないのに、嬉しそうにそんな事を啓介に告げる。
そして上機嫌の兄は、さらに啓介の平穏を壊す。
「お前のおかげで拓海と上手くいったよ。ありがとう」
「…や、俺は別に…」
「フッ、あいつな。凄いんだよ」
「………(聞いてねぇし!!)」
「何であんなに可愛いんだろうなぁ…なのにすげぇエロいし…ホント堪らんねぇぜ」
「…そ、そーですか…」
「何だその気の無い返事は!俺の拓海に文句でもあるのか!?」
「…はぁ?…そ、そうじゃなくて…あ〜…まぁ、アイツは確かに可愛いとは思うけど…」
「何だと?!お前、拓海に気があるのか!ふざけるな、あれは俺のモンだ!!」
…どうしろと言うのか?
「まぁ、お前が拓海の魅力に惑わされるのも仕方ない…。何であいつはあんなに可愛いんだろうな」
今度は一転、ニヤけた顔で惚気だす涼介に、これが本当に自分の兄かと啓介は疑い始める。
「なぁ、啓介」
「…な、何だよ」
「俺は拓海の×××なら食べれるぜ」
ブッハァ、と思わずビールを噴出した。
だが涼介は気にせず、自分の世界を繰り広げる。
「昔、そう言う趣味の女がいてな。俺の×××を食わせろって言った時は、冗談じゃないとベッドから叩き出したが…不思議だな。今なら俺はあの時の女の気持ちが分かるぜ」
…分かって欲しくなかった…!!
そんな啓介の気持ちは伝わらない。
「俺は拓海にならスカ○ロも平気だな」
そんな自慢げに言われても…。
青褪めた顔で、ブルブルと握った缶ビールを奮わせる啓介に構わず、延々と涼介は拓海をいかに愛しているかを滔々と語る。
どんどん、ブチンブチンと啓介の脳内の正常な思考と言うのが破壊されていく。真っ白になりかけた啓介に、けれど救いはあった。
「……す、…さ…」
小さな、小さな声だった。
だが涼介の耳には何より鋭敏に届いたらしい。
「…む?拓海の声?!いかん、こんな事をしている場合じゃないんだ、俺は!!」
勝手に語りながら、勝手に怒り階段を駆け上がる涼介の背中を見ながら、啓介は涙の浮いた目を擦る。
兄の恋を応援したいと思った。
だが、これは……。
「…突っ走りすぎだぜ、アニキ…」
先行きを思い、啓介は後悔の篭った溜息を吐いた。
「…涼介さん…どこ?」
あまりの恥ずかしさと、そしてごちゃまぜになった快楽に、神経が焼き切れ気を失った。
そして目覚めた時に、拓海は一人だった。
べたついていたシーツは綺麗なものに変えられ、涼介のものだろうパジャマの上部分だけを着せられている。
少し大きなそれは、拓海の体に余りぶかぶかする。
どれだけ気を失っていたのだろうか。一人の寂しさに不安を覚え、拓海は子供のように頼りない声で涼介を呼んだ。
すると間を置かず、扉が開かれ涼介が現れた。手に、トレイと水を手にして。
「起きたのか、拓海」
柔らかな笑みを浮かべ、ベッドサイドに腰掛ける。
そして寝転がったままの拓海を、とても愛しい者に与える目つきで見つめる。
「…まだ寝ていろ。無理をさせたな」
謝罪しながら、けれど嬉しそうな涼介に拓海の不安が消える。
髪の毛を撫でる彼の手に目を閉じ、その心地好さを味わう。
「咽喉、渇かないか。水を持ってきたんだ」
言われてみれば、咽喉はイガイガするし渇いてもいる。
コクン、と頷くと、涼介は微笑み「ちょっと待ってろ」と水をコップに移し、そしてそれを何故か拓海にではなく、自分の口に含んだ。
何で?と思い、見ている拓海の目の前に、涼介の顔が近付いてくる。
そして唇を塞がれ、開いた隙間から水を舌ごと口内に注ぎ込まれる。
「…ん、…ふぅ」
ゴクリと水を嚥下し、ハァと溜息を吐くと、楽しそうに笑う涼介の顔がある。
「どうだ。もっとか?」
拓海が思っていたよりも、涼介はかなりベタな事をする。
照れるし、恥ずかしいのだが…イヤなわけではない。
「もっと……」
素直になって甘えれば、涼介の笑みはますます深くなった。
嬉しそうな顔で、拓海の唇に水を注ぎ込む。
『涼介さん、甘えたなの好きなのかな…』
大事にされるのが、何となく嬉しい。
「も、いい」
もっと甘えても良いだろうか?
きっと涼介は喜んでくれる?
「…疲れたし、眠い」
そんな確信の元、拓海は涼介に腕を伸ばす。
「だから…涼介さん、一緒に寝て?」
暗に、抱っこして、とばかりに彼の首に腕を回して、引き寄せる。
クスクスと涼介が嬉しそうに笑った。
…良かった。喜んでくれた。
拓海もまた、安堵の笑みを零す。
頬を寄せ、触れ合う鼻をこすり合わせ、二人で抱き合いながらベッドの中で微笑む。
「…こう言う気持ち…何て言うのかな?」
涼介の呟きを聞きながら、胸に耳を寄せ鼓動を聞きながら目を閉じる。
「…幸せ?」
「も、あるし…」
涼介が拓海の旋毛にキスを落とす。
「そうだな…メロメロと言う表現が正しい」
「涼介さんが、俺に?」
「ああ。当然だな」
…当然なのか。
面映くもあり、誇らしくもある。
「拓海は?俺にメロメロ?」
涼介の口から、そんな俗っぽい言葉が出てくるのがおかしい。
けれど、本当の涼介はこんなふうなのかも知れない。
完璧で、冷静な人だと思っていたが、拓海の前では情熱的だし、それにおかしかったりする。
だがそれで嫌になるどころか、ますます好きになった。
もっと、自分のせいでおかしくなって欲しいと願うほどに。
だから…。
「…うん。メロメロ」
そう答えたら、耳元に聞こえる涼介の鼓動が大きく跳ねた。
そんな彼の変化が嬉しい。
拓海は目を閉じ、涼介の肌に頬を寄せ、幸せな気持ちのままに眠りについた。
だんだん薄れいく意識の中で、涼介がずっと拓海の頭を撫でているのを感じていた。
そして耳に、注ぎ込まれる声と、嬉しい言葉。
「好きだよ、拓海」
にんまり、と夢心地のなか拓海は微笑んだ。