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 ガラッ、と。
 ワゴンの後部座席のドアを無造作に開けて…後悔した。
 そこには誰もいないと思っていたのに、拓海にとって最重要人物がいたからだ。
「…涼…介さん?」
後部座席をフラットに倒し、チームリーダーでもある高橋涼介が横たわっている。
 驚いた…どころではない。
 赤城でのプラクティスの最中、確かに最初は見かけていた彼の姿が見えなくなったと思ったが、日ごろから忙しい人だ。だから途中で帰ってしまったのだろうと思い込んでいた。
 もう春の日の峠。
 昼間は太陽の熱でだいぶ温かくなったのだが、やはり夜は冷える。
 慣らしで走る前に、緊張して熱くなった体に邪魔だからとワゴンの中に脱ぎ捨てたパーカーを取りに来たのだが…。
 そっと彼に近付き、様子を窺う。
「寝てる…?」
 すうすうと寝息を立てる涼介の顔を覗き込む。
 どうやら起きなかったようだ。ほっと安堵の溜息をつき、ゆっくりと拓海は開けっ放しだったワゴンのドアを閉める。
 そして彼を起こさないように、手早く用件を済ませるべく目当てのものを探したのだが、思いもかけない事態が待ち受けていた。
 目当ての拓海のパーカー。
 それを何故か涼介が抱え込み眠り込んでいるのだ。
「……どうしよう?」
 そっとパーカーの端を引っ張ってみる。
 すると涼介が「う、うぅ…」と眉間に皺を寄せ、寝苦しそうにさらにパーカーを抱え寝返りを打つ。
(寒いんかな、涼介さん?)
 俺なんかのパーカーなんか抱えちゃって。
 嬉しいような、申し訳ないような。
 ちゃんと洗ってあったっけ?なんて心配してしまうのは、相手が涼介だからだろう。これが啓介あたりなら、心配どころか無理やりパーカーを奪い返している。
 拓海は眠り込む涼介の顔を見つめた。
 最初は…憧れだと思ったのだ。
 顔が赤くなるのも、傍にいると胸がドキドキするのも。
 けれどそれがどうも違うようだと自覚したのは、峠に集う涼介目当ての女たちは元より、彼の傍近くにいる史裕や啓介にまで嫉妬したことだろう。
 自分の感情が一般的ではないことも、到底受け入れてもらえそうにないことも分かっている。
 けれど、恋心を止めることは出来ない。
 ましてや拓海はまだ若く、暴走しがちな十代だ。
 だからと言って、涼介の寝込みを襲うほどの度胸もないのだが。
 ただ、彼の寝顔を見つめるぐらいのささやかな幸せぐらいは味わってもいいだろう。
 普段は聡明な煌きを見せる切れ長の瞳は今は伏せられ隠されている。けれどだからと言って涼介の魅力が損なわれているわけではなく、拓海に新たな彼の魅力を伝えている。
(…睫毛、長いんだ)
 ドキドキする。
 いつもはサラリと流されている髪が少し乱れ、前髪が額にパラパラと落ちている。彼の艶やかな黒い髪と、薄灯りの中の白い肌のコントラストに、たまらない色気を感じ、拓海はゴクリと唾を飲み込んだ。
 だけど。
 日ごろの忙しさのせいだろうか。以前よりもその頬のラインが削げ、長い睫毛に覆われた目の下には真っ黒なクマが浮いている。
 薄明かりのせいけではなく、顔色も何となく悪い気がする。
 固く引き締められた唇はカサカサで、彼の日常がいかにハードワークであるのかを物語っていた。
(…疲れてるんだろうな)
 学校と、Dと。
 皆が口を揃えて「涼介は大変だ」「凄い」と言う。
 今のこのプロジェクトのための彼の努力と犠牲は、拓海の予想も尽かないほどなのだろう。
 それなのに自分に何が出切るだろうか?
 彼の満足する走りをする。それはもちろんだが、それ以外に。
 いや、端的に言って、拓海は彼を支えたいのだ。
 涼介が少しでも楽になるように、笑顔になれるように。
 けれど、拓海には彼に対しそんな事をする資格はない。
 彼にとって拓海は、ただのドライバーにしか過ぎないのだから。
 それが悔しい。
 だけど…。
「…しょうがないよな」
 最初から叶うはずもない思いだと知っている。
 だから諦めるしかない。
 だけど。
 だけど、ほんの少しだけ…。
「…ゴメンね、涼介さん」
 お願いだから起きないで。
 心の中で願いながら、眠る涼介に顔を近づけ、そっと荒れた唇に触れるだけのキスをする。
 すぐにパッと離れ、まじまじと涼介の様子を窺うが、どうやら気付かれなかったようだ。すうすうと、変わらない寝息を立てている。
 ほっと安堵し、拓海はそろそろとドアを開け外に出た。
 ほんの少しの思い出。
 これを胸に、この一年頑張っていける。
 どうしても顔が綻ぶ。無意識に唇を指で弄りながら、幸せな思いを胸にハチロクへ戻ろうとする拓海の前に、しかし啓介が慌てた顔で駆け寄ってきた。
「藤原ァ!」
 叫ぶ啓介に、自然と彼を見てみれば、らしくなくこちらの様子をおそるおそる窺ってくる。
「…啓介さん?」
 そんな啓介に、拓海は首をかしげた。
 そして啓介はこれまたらしくなく、言い淀む。
「あ〜…お前、大丈夫だった?」
「何がですか?」
「…や、お前、さっきあのワゴン中入ってただろ?アニキ、寝てなかったか?」
「…はい。寝てましたけど…」
 思わず、さっきの秘密のキスを思い出し、目を合わせてられずに俯く。
 その気まずそうな拓海に、啓介が「あちゃぁ〜」と頭を掻きながら謝罪する。
「…わり。おっかなかっただろ?言ってなかったこっちが悪かったよ。ごめんな、藤原」
「…は?」
 びっくりはしたが、おっかない事は無かったが…。
「え、と、啓介さん?何のことですか?」
「何の事ってお前…アニキに決まってんだろ。アニキさぁ、人の気配に敏感だから、寝てるときに誰か近寄られるとすぐ起きちまうんだよ。で、そんな時のアニキがこれまた怖いの何の。眠ってるのを邪魔したこっちも悪いんだけどさ、だからってあんなに怒んなくてもなぁ、そう思ねぇ?」
「…………え??」
 人の気配に敏感。おっかない。
 …何の事だ??
 まさか…。
 まさか、なぁ?
 けれどそんな拓海の願い空しく、背後でワゴンのドアが開く音がする。
 そこから誰が出てきたのか、そこにいたのは誰か、拓海はよく知っている。
 涼介が出てきたのを見て、啓介が「お?でもアニキ機嫌よくねぇ?」と不思議そうに首をかしげる。
 だが拓海にはその呟きさえ聞こえない。
 ただ、石のように固まったまま動けなくなっている。
「アニキ、よく眠れたか?顔色もさっきより全然いいじゃん」
 背後で、涼介が「フッ」と微笑む気配が伝わる。
「ああ、おかげさまで」
「ふぅん、アニキが寝起きにそんなに機嫌がいいの、珍しいじゃん。コイツに起こされたんだろ?」
 まさかまさか…。
 ダラダラと冷や汗が流れ出す。
 頼むから否定してくれ!
 けれど。
「ああ」
 肯定の返事。
 どうしよう?どうしよう??
 混乱し、目には涙が浮いているのが分かる。
「…にしては怒ってねぇよな?アニキ、いつも睡眠を邪魔するとすげぇ怒るのに」
 怒ってる?怒ってるよな。いや、気持ち悪いっての方があるよな。
 恐くて、悲しくて、今にもぶっ倒れそうだ。
 だけど、そんな固まる拓海の肩に、そっと暖かな腕が乗せられる。
 そしてぐいと引き寄せられ、頭ごと彼の胸に抱きしめられる。
「最高の起こし方をされたからな。あんな起こし方ならいつもされたいな」
 …いったい自分に今、何が起こっているんだ?
 そっと上目遣いに見上げれば、拓海を赤面させて止まないような魅惑的な顔で笑みを浮かべる涼介がいた。
「藤原」
 彼が拓海の名を呼ぶ。
 そして耳元に唇を寄せ、囁いた。
「また、頼む」
 コクリと、頷く以外に拓海には出来なかった。
「じゃ、これからはアニキ起こすの、藤原に任せようかな」
 なんて暢気に喜び啓介に、困惑と、少しだけ恨みの視線。
 だけど何より…。
(…ヤバい。死にそう)
 恥ずかしくて、嬉しくて死にそうだ。
 だから。
「…って、おい、藤原?!」
 そのまま拓海は気を失った。
 死にそうなほどに好きな人に、そんな事を囁かれて正気でいられるはずが無い。
 くったりと、意識のない拓海の体を抱えながら、クスクスと楽しそうに涼介が笑う。
「……まったく。本当に予想外のことばかりしてくれるヤツだぜ」
 生まれて初めてと言っても過言ではないこの恋は、死にそうなほどに一喜一憂させてくれる。
 今は、もちろん喜び。
「お姫さまは王子さまのキスで目が覚める…ね」
 うっすらと開いた、拓海の唇を指で突く。思ったよりも柔らかく、しっとりとしたその感触に涼介の笑みが深まる。
「今度は俺は起こしてやるよ、……拓海」
 心の中でしか囁けなかった名前を呟き、涼介は腕の中の体を抱きしめた。






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ブログで突発で書いたお話に続きを書いたら…黒くなりました。
一話目はマトモだったのにな〜…。