V


 信じられない光景が目の前で広がる。
 視覚と聴覚をやられ、目を見開き硬直する拓海の目の前で、彼もまたいつもは切れ長の瞳を見開かせ固まったように動かない。
 全ての音が一切消え、停止した時間の中、ゆっくりと目の前をドアが閉まっていくのが見える。
 そしてどんどんドアは拓海の目から彼の姿を隠し、とうとう完全にその姿を奪った瞬間に、ポンと肩に感じた衝撃に過剰に反応してしまった。
「…わり、藤原。驚いた?」
 イタズラをした後の子供のような、気まずさをごまかす苦笑いを浮かべた啓介が拓海の隣で頭をガリガリと掻いている。
 肩に置かれたその手に、自分を正気づかせたのは啓介であることに気付く。
「こっちじゃマズいからさ、リビングに行こうぜ」
 促され、大人しく拓海は頷き彼の後に付いていく。
 まだ頭の中ではあの光景が目から離れない。
 胸がドキドキする。
 まさか、彼のあんな姿を見るだなんて想像もしなかった。
 けれど次に湧いてきたのは恐怖。
 あんな場面を目撃してしまった自分を、彼は許すのだろうかと言うことだった。
 怒られる、ならまだ良い。
 けど嫌がられ、敬遠されるのだけは避けたい。
 リビングに落ち着き、ソファに座りながら拓海はそんな不安に駆られる。
「…あ、あの、啓介さん」
「ん?」
 啓介がテーブルの上に、冷蔵庫から取り出した500mlサイズの紅茶のペットボトルを拓海の前に置く。
 コップに移しかえることもせず無造作に出されたそれに、彼の性格を見たような気がした。飲めよと促され、縋るものが欲しくてぎゅっと握る。
「…そ、その…涼介さん…あの…」
 戸惑い、どう言っていいのか分からない。直接的な言葉を使うのも躊躇われるし、かと言ってうまく誤魔化すことも出来ない。
 そんな拓海に、啓介は同じように冷蔵庫から取り出したばかりのペットボトルの蓋を開け、豪快に飲み干し笑った。
「ああ、アニキのこと?大丈夫だって。気にすんなよ」
 気にするな。
 その言葉を今、啓介から言われても信憑性が無い。どうしてそんなに暢気なのかと、腹まで立ってくる。
「で、でも、怒ってたり…」
「しねぇって。俺、しょっちゅうやってるもん」
 しょっちゅう?
 と言うか、涼介はそんなに自慰を頻繁にしているのだろうか?と、一瞬考え、そんな自分の考えにさっきの光景が合わさり、拓海の頬が真っ赤に染まる。
「…って言っても、オナってんのは初めてだけどさ」
 何だ、自慰じゃないんだ。じゃあ何を?
 そう思い首を傾げた拓海だが、次には聞きたくない言葉を聞く羽目になる。
「アニキ、昔っからよく女を部屋に連れ込んでてさ。しょっちゅう俺、ヤってる最中にドア開けちまってたからな」
 昔から。
 女を連れ込んで。
 …ヤってた。
 その言葉に、拓海の染まっていた頬の赤みが消える。
 思ったよりもダメージの深い言葉に、拓海はもう顔を上げていられず項垂れてしまう。
 判ってたはずだ。彼がもてる人なのだと言うことぐらい。
 だけど、ただ傍目から想像しているのと、実際にあった事として突きつけられると…辛い。
「でもアニキ、『見たいなら見てても良いぞ』っつて怒ったこと無かったしさ。今回も大丈夫だって」
 カラカラと明るく笑う啓介の言葉も聞こえない。
 ぎゅう、と握ったペットボトル。
 最初は冷たかったそれはもう握りすぎたせいで温くなっている。
 一週間前。
 拓海は涼介にキスをした。
 眠っている彼の唇に、寝込みを襲うようにキスを奪ったのだ。
 生まれて初めてと言っても過言ではないほどの恋情。
 それが抑えきれず、せめてもの思い出にと一生分の勇気を振り絞った。
 けれど後で、あの時の彼が起きていたのだと知り…拓海は一気に混乱…いや、錯乱したのだ。
 衝撃に耐えられず気絶し、あげく気が付いた後は、彼からの言葉も恐くて電話にも出られなかった。
 送られてきたメールも、中を開かずに削除した。
 けれど混乱が落ち着き、漸く状況が少しずつ飲み込み始めたときに、涼介から送られてきたメールの内容を見た。
『話がしたい』
『頼むから返事をくれ』
 その言葉に、拓海の胸が甘く疼いた。
 最初から、期待などしていなかった恋だ。
 だけど恋する相手からの真摯な願いを、突っぱねられるほど拓海は非情ではない。
 たとえ詰られようとも、彼と会ってあのことをきちんと謝罪したかった。
 何も言わず、逃げるばかりでは彼もまた気まずいのだろう。そう思って。
 だが最近の涼介は忙しく、満足に眠ることすら出来ないようだと、松本から伝え聞いていた。
 邪魔になるかも知れない。
 そんな迷いを抱えながら、高橋邸の前まで行った。
 ガレージはFCがある。涼介が在宅しているのは確かだろう。
 だが、忙しいとされる今に、のこのこと尋ねて自分のために時間を割かせるのはどうだろう。
 躊躇し、インターフォンを押す事無く引き返そうとする拓海の前に、現れたのは啓介だ。
『あれ、藤原?あ、アニキに用事?』
 帰ろうとする拓海を押し留め、そして家の中へと招き入れた。
『アニキ最近ずっと徹夜続きでさ。すっげぇ不機嫌なんだよ。お前、ちょっとアニキ宥めてくんね?』
 何で、俺が?
 抗議すると、啓介は心底不思議そうに首を傾げた。
『…は?だってお前、アニキのお気に入りじゃん』
 寝てるのを起こして、怒られなかったのはお前だけ。
 そんな言葉に、思わずぽーっとしてしまい、のこのこと彼の後に付いていってしまったのが一生の不覚。
 扉を開けた瞬間に見えた光景。
 まず、最初に感じたのは…音。
 微かな水音と呼吸音。
『…っ、ハァ…う…』
 ただでさえ艶のある低音が、さらに掠れた吐息を混ぜて色気を放つ。
 いつもは怜悧なその美貌をほのかに紅潮させ、その切れ長の眼差しには隠しようの無いほどの欲情に塗れていた。
 宙を見るその視線の先に、まるで愛しい誰かが存在するかのように瞳には恋情を感じさせた。
 そして彼の手は寛げた下腹部の、そして昂ぶった欲望を握りしめ卑猥な音を立てている。
 垣間見た彼の欲望。
 そして表情。
 それが頭から離れない。
 想像をしたことはある。
 だがそれは結局想像でしかないことを拓海は思い知らされた。
 目を閉じて、彼に抱きしめられる想像を何度もした。
 けれど拓海の想像の中の涼介は、乱れることもせず拓海の前で冷静な表情のままだ。
 そしてあげく下腹部のそこなどは、出来の悪いAVのようにモザイクまでかかっていたりする。
 未だかつて、自分以外のそんな昂ぶったものなど見たことはないため想像は付かなかった。
 自分とは違うだろう。そうは思うが、実際にどんなものかまでは未知の世界だ。
 まだグワングワンと混乱から冷めない拓海に、慰めるように啓介が声をかける。
「…んだよ、気にすんなって。男同士だし、オナってんのなんて珍しいモンでもねぇだろ?」
 その言葉に、またあの光景を思い出し、ブワッと一気に頬を染め上げる。
「は?マジ?お前、野郎ばっかでAVとか見たことねぇの?あんなの、その場でオナニー大会始まっちまうだろ?」
 ブンブンと拓海は勢いよく頭を横に振る。
「そ、そんなの俺は…!」
「マジかよ?お前のそのツラだったら、ガッコの先輩とかに右腕を貸せとか言われてそうだけどな」
 心底、意外そうな啓介の言葉にムッとする。
 そして蘇る思い出。
「…昔、サッカー部の先輩に、そんなようなこと言われたことありましたけど…」
 とても嫌な思い出だ。
「…ムカついてぶん殴ってボコボコにしました」
 その時の腹立ちを思い出し、拳を固めて唇を尖らせる。
 すると啓介はピュッと口笛を吹き、笑い声を上げる。
「マジかよ。おっかねぇなぁ。じゃあさ、アニキには注意するように言っとかないとな」
「注意?」
「おう。お前に『右腕を貸せ』なんて言わねぇように」
 ニヤニヤと笑うその表情に、からかわれているのが判る。きっと性的に奥手な拓海が、珍しくて面白がっているのだろう。
 だがそんな事を言われた拓海はとてもじゃないが平静などではいられない。
 涼介にもしも「右腕を貸せ」なんて言われたら…。
 あの逞しいそこを自分の手が掴み。
 擦る?
『…ああ、良いよ、藤原…もっとだ』
 なんて、あの掠れた声音で言われようものなら…。
 想像した瞬間に、ズクンと、覚えのある衝動が下腹部に集まる。
「な、何言ってるんですか!そ、そんな事あるわけないじゃないですか!!」
 怒鳴りながらも、顔は真っ赤で手が震える。
 落ち着こうと、握ったままだったペットボトルの蓋を開け飲もうする。
 だが潤いを感じたのは咽喉ではなく、腹だった。
「おい、何してんだよ!」
 ドボドボと、ペットボトルの飲み口は目測を誤り、唇に届かないままに中身を溢れさせている。
 焦れば焦るほど、傾けている手を戻せばいいのに、混乱した頭はボトルを逆さまにし、余計に被害を広げた。
「…わっ、…え?あ、その…」
 慌てて立ち上がった啓介がタオルを手に戻ってくる。
 そして拓海にそれを手渡しながら、拓海の手の中のペットボトルを奪う。
「全部零してんじゃねぇか。あ〜、ビショビショ」
「す、すみません…」
 革のソファの上にまで滴っている。拓海は自分よりも先にそこを拭く。
「…んなのより、お前風呂入って来い。ここは俺が拭いておくからさ」
「でも…」
「でもじゃねぇんだよ。パンツまで濡れてんだろ?代わりの服は適当に用意しておくから、さっさと行って来いって!」
 怒鳴られ、すごすごと拓海は指示されたバスルームへ向かった。
 …何やってんだろ?自分。
 情けなくて、ほんの少し目に涙が浮かんだ。


「…さて、と」
 啓介はおざなりにソファの上を拭い、テーブルの上に置きっぱなしになっていた煙草を一本取りだし口に咥える。
 手馴れた仕草で火を着け、そして息を深く吸い込み、吐き出した。
「予想とは全く違っちまったけど…お膳立ては出来たな」
 ガリガリと頭を乱暴に掻き毟る。
「…ったく、イライラすんだよ、あの二人」
 啓介は涼介の弟だ。
 それこそ生まれてからずっとの付き合いだし、兄の全てを理解している自信はないが、他人よりは判っているだろう自覚はある。
 だから、すぐに気が付いた。
 兄があの藤原拓海に惚れていることに。
 しかも、今まで見たことがないくらいに深く。
 拓海の話をしている時だけ、その瞳が輝く。
 そして彼の前に出ると、視線に熱がこもり、そしてずっとその姿を目で追う。
 まるで恋を覚えたての初心な少年のような兄の恋を、弟として応援してやりたくなるのが人情だろう。
 ましてや、相手の方も同じ目で兄を見ているのだと、気付けば尚更。
 だから、忙しく拓海を誘うことすら出来ずにイラつく兄と、気にしながらも家のチャイムを鳴らすことすら出来ず帰ろうとする不器用な拓海と、誘い込み合わせてしまえば上手くいくだろうと、単純な思考でそう考えたのだが、事実は小説より奇なり。
 まさかあの兄が自室で自慰に耽っているとは夢にも思わず。
 そして今もまさか焦った拓海が紅茶を零すなんて愚挙を起こすとは夢にも思っていなかった。
 だが、これで予想とは違うが、面白い展開になるはずだ。
 啓介は吸っていた煙草をテーブルの上の灰皿でもみ消し、そしてニンマリと微笑み兄の部屋がある二階に足を向け、そして…呼んだ。
「アニキぃ、実はさ……」
 これが済んだら、即効逃げ出さなくてはならないな。
 そんな事を、啓介は野生に近い本能で察していた。







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