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 何事にもタイミングと言うものは肝心だ。
 だが最近、涼介はそのタイミングと言うものに見放されている。
 ずっと篭りきりの部屋の中。
 煌々と明るい液晶の画面を見つめながら、舌打ちをしながら黙々とキーボードを打ち続ける。
 元来の完璧主義が高じて綺麗に整頓されていた自室の中は、隣の弟の部屋ほどとは言わないが、あちこちに資料に使用した本の類が散乱している。
 もう、二日も眠っていない。
 忙しい自分と言うのは想定していたし、それに対する対策もしっかり立てていた。
 だがイレギュラーはある。
 今回もそうだった。
 実習はチーム単位で行われるのだが、その中の一人が予定よりも早く仕上げたレポートのデーターを、よりにもよってロストしてしまったのだ。
『…悪い、高橋』
 …殺してやろうかと思った。
 思わず、それに近い表情はしたし、それに見合う復讐もした。
 普段の涼介なら、そんなミスには怒りは覚えるが、ここまで切羽詰まっていない。
 ギリ、と思わず歯軋りをした途端、手元が狂いエラー音を響かせる。
 手を止め、ギシリと椅子を軋ませ天井を仰ぐ。
「……最悪だ」
 レポートのやり直しが、ではない。
 目を閉じ、思い浮かぶのは、困惑と羞恥に顔いっぱいを真っ赤に染め上げ、潤んだ眼差しで見つめるあの瞳。
 うっすら、開いた唇の隙間からピンク色の舌と、愛らしい歯が覗き、涼介の劣情を煽る。
「…反則だろう、あの可愛さは」
 涼介は恋をしている。
 人生でたった一度と言って過言ではないくらいに深く、激しく。
 ゆっくりと、それこそ壊れやすいガラス細工を扱うように慎重に、少しずつ彼を手に入れるべく行動してきた。
 だが肝心の恋の相手は、そういった方面に鈍いのもあるのだろう。いつも肩透かしな感じで徒労に終わってきた。
 あの一週間前の日。
 いつものプラクティスで赤城に集まった夜だった。
 あの日も、涼介としてはさりげなく彼に対し、「特別」である事を伝えたつもりだった。
 なのに彼はキョトンとした顔で、
『……はぁ。ありがとうございます』
 と首をかしげた。
 さすがの涼介も、もうこれはダメだと落ち込んだ。
 一人でワゴンの中で不貞寝をするくらいに。
 その際に、置き忘れた想い人のパーカーがあったなら、せめて彼の代わりに…と抱きしめぐらいはするだろう。
 残された服からは、女のような香水の匂いなどしない。彼本来の匂いが漂った。
 彼の香りに包まれ、ウトウトとしかけた頃に、ワゴンの扉の開く音がした。
 至福の時を邪魔され、涼介の機嫌は一気に下降したが、けれど。
『…涼…介さん?』
 息を呑むように漏らされた声に、入ってきた相手が彼と知り、瞬時に狸寝入りに転じた。
 そして…。
 涼介は自身の唇に触れる。
 思い出すと、今でも笑みが零れてしまう。
 まさか、あの彼からキスしてもらえるとは夢にも思っていなかった。
 その後、涼介が起きていた事に気付いた彼が、困惑の余り気絶してしまったのは可愛らしい誤算だ。
 あの後、気絶から目覚めた彼は、恥じらい涼介を真っ赤な顔のままで避けた。
 けれど涼介は焦らなかった。
 彼の気持ちを知ったことだし、恥じらいなど慣れてしまえば良いこと。
 それこそ毎日のように顔を出せば、ゆっくりではあるが涼介の手の中に落ちてくる。
 しかし。
 あの日があった翌日だった。
 レポートがロストした知らせを受けたのは。
 この殺人的なスケジュールで彼に会う時間など無く、そして中途半端な状態で彼を放り投げている。
 その間に、何度か電話をしたが受け付けてもらえなかった。
 メールもした。
 だが返信は無い。
「……最悪だ」
 彼は一見おとなしそうだが、反面頑固で難しい面も持っている。
 まさかとは思うが、自分のあの行動を「からかっていた」なんて思い、怒っている可能性も無きにしろ有らずだ。
 本当なら今すぐ、彼に会いたい。
 あの大きな瞳に見つめられ、そしてあの少しふっくらとした唇が開き、自分の名を紡ぐ。
『…涼介さん』
 どこか戸惑いがちに呼ぶ、あの声が聞きたい。
「……拓海…」
 思わず、彼の名を誰もいない部屋で呟けば、想いが募る。
 胸が焦げ付きそうなくらいに熱い。
 そして溜まった熱は下方へ下がり、寝不足で疲労した体に異変をもたらす。
 拓海の顔を思い出した途端、のぼせ上がって何も手に付かない頭と、そして熱を宿す下腹部。
 涼介は無意識にそこに手を伸ばす。
 服の上からでも分かる、硬さと熱さ。
 触れてもいないと言うのにこれだ。もうこの恋は病気の域に達しているのかも知れない。
 ジジジとファスナーを下ろす。布地の下の欲望を取り出せばそこは立派に隆起し、想いの丈を涼介に自覚させる。苦笑しながらそれを握りこむ。そして緩慢な動きでそれに刺激を与えた。
「……っ、はぁ…」
 涼介の自慰の経験は一般的男性よりも少ないはずだ。
 いわゆる、性的興奮を与える媒体の全てに嫌悪を感じていたし、何より自慰をするより早くセックスを覚えたほどだ。
 溜まればセックスをする。
 それが涼介にとっての常。
 けれどそれが変わったのは勿論、拓海に恋をしてからだ。
 それ以来、涼介の性欲の捌け口は自身の利き腕のみである。
 その際に、涼介は脳内であらん限りの妄想を繰り広げることを楽しんでいた。
 きっと普段の彼には決して出来ないような痴態を繰り広げさせ、卑猥な言葉で嬲る。
 そんな涼介の最近のお気に入りは「フェラチオ」。
 今のように、下腹部だけを寛げた涼介の前に拓海が跪き、そのむき出しの欲望に顔を寄せる。
 耳まで真っ赤に染め恥じらい、上目遣いに涼介を窺う拓海。
『…早く舐めろよ。欲しいんだろう?』
 傲慢に言い捨て、あの拓海の柔らかな髪を掴み、無理にそこに顔を寄せさせる。
 すると拓海は泣き出しそうな表情を浮かべるが、素直に唇を開き、そっとピンク色の舌を伸ばし、勃ち上がった涼介の欲望の先端に触れる。
 ぺロペロと子供が飴を舐めるような動きに、涼介はすぐに焦れるだろう。
『そんなのじゃ満足できねぇよ。…咥えろ』
 そう言い放つと、拓海は戸惑いふるふると首を横に振る。
『…む、無理…』
『やるんだ』
 ぐい、と頭を掴み、無理に咥えさせる。
『…ん、ぐぅ…』
 大きすぎるそれに、拓海は小さな唇を懸命に開くが、咥えきれずにえづくだろう。
 ゴホゴホと咽る拓海に、涼介は頭を押さえていた手を離し、唾液の零れる唇の端を指で拭う。
『…無理か?だったらいい。仕方ない』
 さも失望したように告げれば、負けず嫌いの彼はきっと恥じらいを捨て、目に闘志を燃やすだろう。
『大丈夫です。出来ます』
 そして自ら涼介の下腹部に顔を寄せ、唇の中にそれを誘いこむ。
 先ほどよりは上手に。けれど手馴れた女よりも遥かに不器用に舐め上げるその手並みに、涼介の愉悦が高まる。
『…っ、はぁ、良いぞ。拓海』
 微笑み、その頬を撫でてやればきっと彼もまた微笑む。
『…ん、きもちい?涼介さん?』
 涼介を見上げる拓海の瞳にも、熱が宿る。
 そしてそっと足で下腹部をなぞれば、自分と同じように硬くなったそこに気付く。
『…俺のを舐めただけで大きくしたのか。拓海はイヤらしいな』
 わざと嬲る言葉を与えれば、彼の瞳に涙が浮かぶ。
『…だって…』
 言いよどむ彼の顔を持ち上げ、その瞳を覗き込んでやれば、羞恥と欲望の入り混じった瞳に出会うだろう。
『…涼介さんの気持ち良さそうな声聞いてたら…ドキドキして…』
『本当に?コイツを舐めるのが好きなだけじゃないのか?』
 目の前で、煽るように自らの手で擦る。
 すると、視線を逸らしていた拓海の目がそちらへ向かう。けれど直視できず、チラチラと横目で窺うだけだが。
『ほら…どうだ?』
 わざと、ジュクジュクと音を立てながら彼の目の前で自慰をする。
 すると拓海は泣きそうな顔で、息を荒げながら涼介に言うだろう。
『…涼介さん…意地悪だ…』
『ああ。だが意地悪な俺は嫌いか?』
『……好き』
『これ、は?』
 手の中の自身の欲望を示す。拓海がそこを見つめ、コクリと唾を飲み込む。
『……涼介さんのだから…好き』
『良い子だ』
 褒め、再び拓海の顎を捉え、自らの欲望に近づける。何も言わずとも、口を開き舌を伸ばす拓海。
『…良い子だ。たっぷり飲めよ』
 恥じらいながらも頷き、そっとその唇の中に赤黒い涼介の欲望が埋め込まれるその瞬間……。

 ガチャ。

 と、開いた扉。
「アニキぃ、いんのか〜?」
 響いた聞きなれた弟の声。
 一気に妄想から現実に引き戻された涼介が見たのは、驚いた表情の弟の顔と、そして…。
「……たくみ…?」
 目をまん丸に見開き、こちらを凝視する想い人の姿だ。
「…………あー…悪ぃ…。オジャマしました」
 キィィ、とやけにゆっくりと扉が再び閉められる。
 その間も、涼介を見つめる拓海の視線は固まったままで、そして目は見開いたまま瞬きすらしない。
 あの様子は、「硬直」している、と言って過言ではないだろう。
 混乱した頭で、涼介はそんな事を考える。
 そして漸く、遅ればせながら現実が見えてくる。

 ――今、何が起こった?

 拓海がいた。妄想ではなく、現実の。
 啓介が不意に涼介の部屋を訪れるのはよくある事だ。
 ただ、今回はタイミングが不味かっただけ。
 そして現在の自身の状況は…。

 下腹部をさらけ出し。

 その間からは隠しようもないほど隆起した欲望。

 おまけに右腕はそこを握り。

 おまけにネチャネチャと粘液質な音まで立てていた。

 手の中の欲望が一気に縮む。
 現実を認識した頭はもうショートし、へたりこんだ欲望を握ったまま、涼介は椅子の上から転げ落ちた。
 ドスン、と激しい音が響いたが今更だ。
 齢23歳。
 生まれて初めて、涼介は「泣きたい」と感じた。
 最近タイミングは悪いと思っていた。
 だが今は紛れもなく「最悪」だという自信がある。
 よりによって。
 よりによって、だ。
 現在微妙な関係にある片思いの相手に、さらによりにもよって自慰の瞬間を目撃されてしまったのだ。
 これ以上の「最悪」はないだろう。
 うっすらと涙が目に浮かぶ。
 好きで。
 ただ好きで仕方がなかっただけなのに、何故こうなる?
 そしてフツフツと生まれてくる、怒りの炎。
「……啓介……ぶっ殺す…」
 もしも願いが叶うなら。
 本気で「穴があったら入りたい」と、涼介はそう願った。






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