Darling
act.8
ずっと叶うはずがないと思っていた恋が叶って、そして冷静で、あまり感情を昂ぶらせることのない人だと思っていた人が、自分の前では簡単に一喜一憂する。
子供のように嬉しそうに笑う顔も、落ち込んだ情けない顔も見せてくれる。
けれど今見せる顔は、たぶん恋人となった自分には決して見せない顔だと、拓海は理解した。
「拓海ちゃん、探したのよ!ゴメンね、啓兄が変態で」
自分に飛びつき、抱きしめようとする小柄で可愛いとしか表現できない少女。拓海が憧れて止まない要素を全て手にしている彼女はなぜか拓海をとても気に入ってくれている。
「ゴメン、心配させ…て…って、あの…」
けれど緒美が拓海に抱きついてこようとしたその瞬間、背後から伸びてきた腕がそれを遮った。
慣れたようで慣れない、涼介の腕だ。
しっかりと涼介の腕の中に抱え込まれ、身動ぎも出来ない。
「…ちょっと、涼兄…」
拓海に抱きつくことも出来ず、緒美が背後にいる涼介を睨んだ。けれど、
「この通り、拓海は俺と一緒にいて無事だ。心配させたな。だがもういいぞ。お前の出番はもう無いからな」
何だか…。
背後から冷気が漂ってきている気がする…。
そして目の前の緒美と啓介が、こちらを見ながらポカンと口を開け驚愕の表情で見つめている。
さらに拓海は気が付いた。
『…今…拓海って呼ばれた…』
ぽうっと、頬が朱に染まる。初めて名前で呼ばれた。それが何となく照れくさくて恥ずかしい。
「涼兄…もしかして……ああっ!!」
ポカンとしていた緒美が、おそるおそると言った感じで発言する。けれどすぐにその声を荒げた。
涼介の制止も聞かず、拓海に詰め寄りパーカーの合わせを掴んでめくった。
「…な、何コレ!何でこんなにいっぱい付いてるの!?」
…何が?
と首を傾げ、けれど「それ」を誇示するように涼介が跡を辿る指の動きで気が付いた。
『…もしかして……』
「アニキ、まさか……」
らしくなく恥らった表情で窺ってくる啓介。その視線の先は、自分の首筋と、そして胸の部分。
「ああ。一般的に、キスマークと呼ばれる種類のものだな。言うまでも無いが、勿論俺が付けた」
恥ずかしくて居たたまれない。出来るものなら、今すぐ逃げ出したいくらいなのだが、しっかりと抱え込んだ涼介の腕がそれを許さない。そして涼介は、拓海の身体を見せたくないのか、はだけたパーカーを首の部分までしっかりと着込ませる。
「さらに付け加えて言うなら、勿論これは同意による行為の結果だ。そうだな、拓海」
返事が出来ない。ただひたすらその甘ったるい笑顔から逃げるように頬を染めて俯いた。
「本当、拓海ちゃん?!」
緒美が詰め寄り問いかけるが、まさか拓海には答えられない。
「こら、緒美。拓海が困ってるじゃないか。…拓海は恥ずかしがりやだからな。そんな事、あからさまに答えられないか」
クスッ、と微笑むその姿。甘ったるい空気が背後からでも伝わる。
おそるおそる視線を前に向ければ、ムンクの「叫び」のような表情で固まる啓介と、泣き出しそうな顔の緒美がいた。
ずっと応援してくれていた緒美。
ちゃんと彼女には報告をしておかないといけないだろう。そう拓海は思った。
「あの、緒美ちゃん。え、と…その…」
言葉に出すには恥ずかしい。勇気付けるように涼介がそんな拓海の手を握り締めてくる。それに励まされ、拓海は背後の涼介を振り返り微笑んだ。
そして決意を込めて口を開くが…、
「…もういいわ」
「え?」
「その顔で分かったわ。涼兄に無理やりって言うのじゃなきゃ、もういいの」
口ではそう言いながらも悲しそうな様子の緒美に、拓海は言葉をかけようとするが上手い言葉が出てこない。
「緒美は、拓海ちゃんがずっと涼兄のこと好きだったの知ってるもん。だから…不本意だけど、涼兄に譲るわ」
その言葉に拓海に瞳に涙が潤む。
緒美に、自分の感情を知られてしまったのはもうだいぶ前のことだ。
『もしかして、拓海ちゃんって涼兄のこと…好きなの?』
あの頃は緒美と涼介の仲の良さに、二人が付き合っているものなのだと思っていた。
だからそう言われ、こんなみっともない自分が彼を好きになっと事を知られた羞恥心と、そして親切な彼女の想い人に懸想した罪悪感で居たたまれず涙を浮かべ俯いた。
『やだ、何でそんな顔をするの?拓海ちゃん、勘違いしてない?』
『…勘違い?』
『緒美は涼兄のこと、好きでも何でもないからね。小さい頃から一緒にいるから、本当の兄妹みたいなものだもの』
だから心配することないよ、と笑われ、そして拓海の恋を応援すると言ってくれた。
それから暫くして、拓海にも緒美の気持ちがどこに向けられているのか、気付いたわけなのだが、ずっと報われないと思い込んでいた恋心の悩み相手であり、支えとなってくれた彼女は拓海にとっても特別だ。
「ありがとう、緒美ちゃん…」
だから精一杯の感謝を込めて微笑んだ。
けれどその笑顔を向けられた緒美は、上気した頬のまま目を見開き、そして何故か彼女の背後の啓介まで同じ顔で硬直している。
そして。
暑い真夏で、炎天下の浜辺のはずなのに、どうしてか拓海の背後から冷気が漂ってくる。
「譲る?面白いことを言うな、緒美。その言葉は拓海がお前の『もの』だったという前提の下、発せられるべき言葉だ。拓海がずっと好きだったのは俺だ。と言うことは、最初から俺の『もの』だったということだろう?お前に譲られるようなことじゃないな」
どうしてだろう?本能が後ろを振り向くなと伝えている。
腰に回された腕が、所有権を主張するように力を増してくる。
「た、拓海ちゃんは『もの』じゃないもん!大切な友達だもん!ずっと緒美のほうが涼兄なんかより一緒にいたもん!だから、緒美のほうが拓海ちゃんと仲良いんだからね!」
涼介の言葉に、硬直していた緒美が反論する。拓海は、緒美のそんな様子に可愛い子は怒った顔も可愛いんだな、と場違いなことを思う。 背後で、啓介が「バカ、止めとけよ、お前…」と緒美を止めているのを、「どうしてだろう?」などと思いながら。
「仲良くするのはこれからも許してやるよ。『友達』 だからな。けど、それ以上は俺のものだ」
腰に回されていた腕が体のラインを辿るように上に這い上がってくる。
「仲良く?そんなレベルで満足できるほど、俺の拓海への想いは簡単なものじゃないんだよ」
そして這い上がってきた両の手のひらが服ごしに拓海の隆起を見せる胸を掴む。「わぁ!」と叫んでしまった拓海を宥めるように、耳たぶを甘噛みされ、すかさず耳の裏にキス。叫び声の代わりに、「…んぅ…」と言う呻き声が漏れてしまった。
カクリ、と膝の力が抜け、前に倒れこみそうな拓海の身体を、涼介の腕が支える。また腰に腕が回され、固定するように拓海の身体を自分にぴったりと摺り寄せる。
拓海もまた、崩れ落ちないようにその涼介の体に縋る。些細な悪戯で、もう目が潤んでフラフラだ。
「残念だな、緒美。お前の『友達』は俺のものだ。だから、お前もいい加減友達ばかりに構ってないで、キスマークの一つくらい付けてくれる相手を探したらどうだ?」
「涼兄、それセクハラ!」
「フッ、情けないな。そんな相手もいないのか?じゃあ、仕方ない。啓介、付けてやれよ」
頭がクラクラする中で、ぼんやりと拓海はそんな涼介たちの会話を聞いていた。
「何で俺?!」
「何で啓兄?!」
「嫌か?お前ら、仲良いじゃないか」
…もしかして涼介さん、緒美ちゃんたちをくっつけてくれようとしているのかな?
『どうでもいい』
なんて言いながら、やっぱり気にしていたんだ。
そんな涼介の分かりにくい優しさに、拓海はこっそり笑みを浮かべ、そして広い肩に頬を摺り寄せる。
「じょ、冗談じゃねぇ、こんな色気のねぇガキ…」
「緒美だって、こんな変態、嫌だもん」
「フッ、あまり見せ付けてくれるなよ。なぁ、拓海」
と言いながら、拓海の顎を掴み、唇にキス。
「「どっちが!!」」
異口同音の響きが二人からもたらされる。ああ、本当に仲良しだ、と拓海も嬉しくなる。
「…啓介さんと、緒美ちゃん…」
「どうした、拓海?」
「仲良くて、羨ましいです…」
にっこり。涼介が微笑む。それにますます拓海の頭のモヤは深くなる。
「ノロケも程ほどにしろよ。拓海が恥ずかしがっているじゃないか」
「アニキに言われたくねぇよ!」
「涼兄に言われたくないわ!!」
やっぱり仲良しだ。同じことを言っている。
フワフワとして気持ち良い。うっとり、見上げれば優しく微笑む涼介の顔。本当に格好良い。こんな人が自分のものなんだ。そう思うと嬉しくて、幸せで、でも恐くて…。
不安そうな色を浮かべた拓海に、涼介はすぐに気が付いた。
「どうした?」
と優しく問いかけ、そして拓海の身体を抱き上げる。
小さな頃ならいざ知らず、二十歳近くなった現在、そんな事をされた記憶は全く無い。
戸惑いながらも、不安感から拓海は涼介の首に腕を回してしがみ付く。
「帰ろうか?キーは?持ってる?」
拓海は無言で頷いた。
「俺がハチロクを運転しても良いか?」
またも拓海は頷いた。涼介に自分のハチロクを運転してもらう。それがとても嬉しく、誇らしく感じる。
拓海を抱き上げながら、うんざりとした表情の二人を涼介が振り返る。
「啓介、帰りはお前が緒美を乗せていけよ」
「…分かったよ」
何故か啓介のその声は掠れ、やけに疲れ果てて聞こえた。
「ああ、そうだ、大事なことを忘れていた」
また気配の違う涼介の声。それに不審に思い、拓海は腕の中から涼介の顔を見上げた。
「…お前、俺より先に拓海の身体を見たな…」
「………」
啓介は真っ白になっている。
「そして…触ったな?」
「………あ、ああああれは…」
「覚えておけ。俺は執念深い」
啓介から声の無い声を、確かに聞いたような気がした。
『…知ってます』
と。
「また後でな…啓介」
涼介は拓海の前で色んな顔を見せる。
嬉しい顔も、情けない顔も、悲しそうな顔も。
どんな顔の涼介も大好きだと拓海は自信を持って言える。
けれど、今の涼介の顔を自分に向けられるのだけは、ちょっと嫌だなと拓海は思った。
クスクスと笑いが止まらない。
隣で憮然とした表情でステアリングを握る姿からは、さっきまでの媚態のカケラも無い。
今も、笑い続ける涼介を睨みつける。
「……そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
だがうっすらと染まった頬の赤みに、それが怒りではなく照れ隠しから出ているのだと涼介は知っている。ますます笑いが止まらない。
啓介たちから離れた後、ぼんやりと酩酊状態でいた拓海は、突然我に返ったらしく涼介の腕の中で暴れ逃げ出した。今度はすぐに捕まえたが、パニック状態になった拓海は、あれからずっと涼介に対し威嚇したままでいる。
けれどそんな態度は、涼介にとって可愛らしい子猫のそれと同様で、微笑みはするが傷付きも怒りもしない。いや、むしろ出来ないといった方が正しい。
「いや…だって焦った拓海が可愛いから」
そう言えば、傍らの彼女の不機嫌が増した。けれど本当に怒っているわけではないのは十分承知だ。
この手に入れたばかりの恋人が、純情で照れ屋なのはよく分かった。その素直じゃない照れが、自分のせいで現れているのだと思うと、とても嬉しいのだ。
「涼介さん、悪趣味です」
ふてくされた恋人の言葉。もうそれは何度聞いたことだろうか。涼介は頬を染め唇を尖らせた運転席の拓海を見つめる。
我に返った拓海は、当たり前のように自分でステアリングを握った。
『俺が運転しようか?』
そう言うと「ダメです」と返事が返ってきた。やはり愛車を恋人とは言え運転させたくはないのか、と密かに傷付いたのだが、次の言葉で浮上した。
『史裕さんから聞きました。涼介さん、海に来るために毎日忙しくて満足に眠ってないはずだ、って。オレが運転しますから、涼介さんは寝てください』
愛しい恋人が傍らにいながら、素直に眠れるほど枯れているつもりは無いが、その怒っていながらも自分への気遣いを忘れない拓海の心が嬉しかった。
だから素直にナビシートに落ち着いた。
横目で、運転する拓海を眺めながら、「綺麗だな」と涼介は思った。
じっと拓海を見ていると、拓海が涼介をチラリと見て、そして心配そうな表情を浮かべる。
「涼介さん、疲れてるんですか?」
さっきまでの不機嫌な顔が一変、自分を気遣うその表情。
そして涼介は思い出す。
「……変奏曲…」
「え?」
少しも目が離せず、見るたびに印象が違う。
そうだ、まるで変奏曲のようだ、と涼介は笑みを浮かべる。
時に激しく、時に緩やかに自分を包むそのリズム。
「…眠ってていいですよ。ゆっくり休んでください」
シフトレバーを握っていた手が涼介の額に当てられる。車と家事で酷使しているせいか、その手のひらは普通の女のように柔らかくなく、皮膚が固く荒れている。
だが、そこから伝わる温度と優しさは、どんなものより深く涼介の胸に染み入った。
「…ああ」
頷き、目を閉じる。拓海の手が離れる瞬間に、名残惜しげにその手を掴めば、応えるように同じ力で握り返された。
シートの下から、伝わる拓海が奏でる変奏曲。
手のひらから感じる、熱と存在感。
「拓海…」
「はい?」
「好きだよ」
心のままにそう囁けば、照れ隠しなのか、緩やかだったリズムが激しいビートを刻む。
「な、何言ってるんですか!」
毎日は変わらずに過ぎていくのだと漠然と思っていた。
昨日の続きが明日なのだと。
けれどこの目まぐるしく変化していくリズムの前では、それが錯覚だったのだと思い知らされる。
ひと時の油断も許さず、自分を魅了する。
――恋をしている。
焼け付くような、そんな恋を。
想いが通じ合った後も、それは変わらない。
涼介は再度呟いた。
「好きだよ」
今度は、拓海からの返事は無かった。
ただ無言で、耳まで赤く染めて不自然なほどに真っ直ぐ前を見つめている。
その表情が、何よりの答え。
涼介は幸福感に微笑み、そして拓海のリズムに包まれ目を閉じた。
心地好い感覚に意識はどんどん海の底へと向かうように深く沈んでいく。
遠くなりゆく意識の中で、涼介は微かにそれを聞いたような気がした。
「オレも…好き…ですよ」
小さな囁きと、そして自分に重なる優しい手。
暑く眩い夏の日。
全てはここから始まり、そして続いて行く―――。
2006.8.16
END