Darling
act.4
暑い夏の時期とあって、海は人でごった返していた。
啓介たちが出来るだけ人気のない場所を選んだようだが、人口密度の多いこの日本で、それをするにはかなりの辺境に行かねばならないようだと涼介は苦笑する。
啓介と二人で歩いていれば、たいてい着飾った女から声をかけられるのはいつもの事だが、今回はそんな女たちの露出部分が多すぎ、そして肌と同様に心まで開放的になるのか、その頻度がいつもより高めになる事がいつもとは違うところだろう。
元来、涼介はあまり出歩く方ではない。アウトドアタイプの啓介とは違い、車のこと以外あまり趣味らしい趣味もないつまらない男だという自覚もある。
海の中に入り遊ぶ気にもなれず、水着の上にラフなシャツを着込み、ケンタが持ってきたのだというビーチパラソルの下に陣取り、そして持参した本を広げた。
「アニキ、マジかよ!何で海にまで来て勉強するんだよ!!」
信じられねぇ、と大げさに騒ぐ弟を尻目に、涼介は目の前の活字を追う。
「いいから、お前らは勝手に遊んで来い。俺は俺で好きにするから」
そう言い放つと、長い付き合いである史裕が諦めの溜息を吐く。
「しょうがないな。じゃ、留守番を頼むよ。藤原たちはまだだから、電話がかかってきたらこの場所を教えてやってくれ」
意識からあえて遠ざけていた名前に、涼介の目が陽射しの強さのせいだけではなく、細く眇められた。
「藤原、まだ来ていないのか?」
「ああ。ここに着いたのは俺たちと変わらないくらいだったそうなんだが、ほら。緒美ちゃんを連れてるんだろう?女の子の支度は長いからな。きっと藤原も待たされてるんだろう」
史裕の中では、すっかり二人はカップルと定着してしまっているのだろう。年若い二人を「仕方ないな」と見守るような表情で苦笑を浮かべる。
けれど涼介は笑えない。心からは。決して。
「そうか。藤原も災難だな」
強張った笑みで、そう言いながらまた視線を本へと戻す。
焼け付くような暑い日差し。
日陰の中にいても、熱気が漂い涼介を苛む。
ずっとイライラが止まらない。
いつか、暴走するだろう自分を理性で必死に押さえ込む。
そしてその瞬間、史裕の携帯の着信音が鳴り響いた。
水着になるのなんて何年ぶりだろうか?
まだ義務教育期間に、学校の授業でやらされた時の記憶しかない。
啓介に「スクール水着で来るなよ」と言われ、言い返したのはいいが、本当にそれしか持っていない拓海だ。
慌てて緒美に声をかけ買ってきたのはいいが、それを実際に着た場合どうなるのかまで考えなかったのは、拓海のぼんやりとした性格の故だろう。
この海に来るときに、決意したこと。
だがそんなものは鏡の前の自分の姿に揺らぎ始め、崩れ落ちる寸前にまでなっている。
「…絶対見せられない、こんなの…」
みっともなさすぎる。
拓海は水着の上から持ち込んでいた大きめのパーカーを羽織り体を隠した。
扉を開け更衣室を出ると、日焼けの無い真っ白な肌の緒美が、小柄ながらも完璧なバランスの肢体をセパレートタイプの水着に包み立っていた。
「あ、拓海ちゃん」
こちらを見て、笑顔で手を振る姿。そんな彼女に、声をかけていたのだろう男たちが気まずそうに目を逸らし立ち去っていく。
「ごめん、待たせて。…もしかしてナンパ、されてた?」
迂闊だった。こんな彼女を一人待たせていればナンパされるだろう事は予想できていたのに。もしこれで何かあったら、涼介たちに本当に顔向け出来ないことになっていた。
「う〜ん、まあ、ね。でも大丈夫だよ。慣れてるもん」
明るく笑う彼女に、ちょっとだけ拓海の気分も浮上する。さすがあの高橋兄弟の従妹と言うべきか。彼女も異性からのそんなアプローチには慣れて平気らしい。
「それより拓海ちゃん。何でそんなの着てるの?もう、脱ぎなよ〜」
緒美の手が拓海のパーカーを掴む。けれど拓海は曖昧に笑って決してそれを脱ごうとしない。
その頑とした態度に、緒美も諦め手を離す。
「ま、いっか。いきなり涼兄に見せて驚かせるってのも楽しいもんね」
そう笑う彼女には申し訳ないが、たぶん拓海がこれを脱ぐことは無いだろう。
あんなに固く決心したはずなのに、現実の前には脆く崩れ去ってしまう。
そんな自分に情けなさを覚えながら、眩い太陽の下、その眩しさから逃げるように拓海は俯いた。
「涼兄たち、どこにいるんだろう?拓海ちゃん、何か聞いてる?」
「え、と…確か史裕さんが着いたら電話しろって…」
そう言いながら拓海はバッグの中の携帯を取り出し、史裕の番号を呼び出し電話をかける。
数コールの後、応答する声がした。
「あ、藤原ですけど…」
史裕だと、信じて疑わなかった拓海はけれど次の瞬間に硬直する。
『藤原?』
電話の向こうの声は、紛れも無く史裕ではない、チームリーダーのもので。
『今、どこにいるんだ?緒美も一緒か?』
そしていつもの彼とは違う、どこか不機嫌さを孕んだ声だった。
『…あ…』
と言ったきり黙りこんでしまった声。
それに涼介は苛立ちを隠せない。
最初、電話に出たときの声は朗らかなものであったのに、電話の相手が自分だと悟った瞬間、電話越しからでも拓海の緊張が伝わった。
『拓海ちゃん、涼兄たち苦手みたいだし』
その言葉が涼介の脳内を巡り、そして胸を焼きつかせる。
「藤原。聞こえてないのか?今、どこにいるのかを聞いているんだが」
苛立つ心は、声に棘を含ませる。こんな話し方をしたいわけではなかったのに、出るのはこんな口調ばかりだ。そんな自分に自己嫌悪しながらも止められない。
『…あ、す、すみません』
案の定、電話の向こうの拓海の声が申し訳なさからだろう、掠れ震えたものになっている。
『え、ええと、ここは……緒美ちゃん、ここってどこだろう?』
前半は自分に向けられたもの。けれど後半は傍らにいるのだろう緒美に向けたものだろう。通話口から顔を離し言ったのか声が小さく聞こえた。
涼介の心が叫ぶ。
緒美を頼るな。自分を頼れ、と。
だから二人に会話をさせないように、涼介は有無を言わせずに言った。
「藤原。目印になるようなものを探せ。看板、または海の家の名前でいいから」
『え。あ、は、はい。…えと、×××ってお店があって、そして××って看板があります』
「分かった。そこを動くな。今迎えに行くから」
『…はい。すみません…』
また拓海に謝らせた。
打ち解けて欲しいのに、打ち解けさせない自分の態度。堂々巡りだ。情けない。
「今すぐ行く」
その言葉を最後に携帯を切り、座り込んでいた腰を上げた。
だいぶ煮詰まっている自分を感じる。暑い日差しのせいで、常よりも臨界点が低い。
ビーチパラソルが作る人工の日陰から飛び出し歩き出そうとする涼介に、海から上がってきたばかりなのだろう、水と砂に塗れた啓介が濡れた髪を掻き上げながら寄ってきた。
「アニキ、どこ行くんだよ。どこか店行くんだったら、俺の分も何か買ってきてくれよ」
明るい太陽の下が似合う弟。けれど涼介が答えた瞬間、その表情が強張った。
「藤原と緒美を迎えに行くんだよ」
啓介もまた、自分と同じ感情を味わっている。それがその表情から窺えた。
「…ふぅん」
違うベクトルに向かっているはずなのに、根底に宿る感情は同じだ。
それにおかしさを感じ、涼介は苦笑する。
「俺も…行っていい?」
気になる。そう言えない弟。言えない自分。
ごまかし、貼り付けた平静な顔の下にどす黒い感情を押し殺す。
「ああ、いいぜ」
歩きだせば、啓介もまた涼介の後ろに続き歩き出す。
太陽が暑い。
焼けた砂浜からも熱が伝わる。
香る潮の匂い。
吹く生ぬるい潮風。
何もかもに苛立った。
けれど何より苛立たせるのは、抑圧しきれない自分の感情。
色んな意味で。
彼らの限界が近付いてきていた。
2006.8.11