Darling

act.6


 感情のままに、強く拓海を抱きしめすぎたらしい。
 予想していたよりも華奢な身体。しなやかで、その細い腰に恋心のせいだけでなく劣情を煽られる。
 いっそこのまま無理やり…そう思ってしまうのは、きっとこの暑さのせいだ。
 だが感情が暴走する前に我に返れたのは、か細い戸惑った拓海の声によってだった。
「……く、苦しい…」
 遠慮がちに身動ぎし、俯いたままの拓海が声を上げる。
 それに漸く涼介は力を込めすぎていたことに気付く。
 ハッとして手を緩める。けれど絶対に抱きしめる腕は離さなかった。
「悪い。つい力が入った」
 拓海の興奮もだいぶ収まったのだろう。走ったことによって荒かった息は収まり、いったい今自分に何が起こっているのかとばかりに、自分の身体に回された涼介の腕を不思議そうに見ている。
 そんな拓海を可愛いな、とそう思う。
 可愛くて可愛くて、仕方がない。
 今、この腕の中に拓海がいる。それに泣きたいほどの幸福感があった。
 離したくない。何と言われようと、何があっても。
 腕の中で拓海の表情がコロコロと変わる。
 最初は興奮気味に。そして次には状況が見えず、子供のようにあどけない表情で首をかしげ、さらに次には回された涼介の腕と、上から降り注ぐ声に、やっと自分が涼介に抱え込まれていることに気付いたのだろう。一瞬で身体中を真っ赤に染め、暴れだした。
「…は、離して下さい!」
 ジタバタと腕の中で暴れる愛しい存在を涼介はまた力を込め抱きしめる。
「嫌だ。藤原はすぐに逃げようとするから」
「に、逃げませんから!」
「信用できないな」
 微笑みながら背後から抱えるその体の肩に顎を乗せ首筋に鼻を寄せた。
 香水の匂いのしない肌。太陽とほんのり香る拓海本来の体臭の匂いしかしない。けれどどんな匂いよりも、涼介の心を甘く酩酊させる。
「藤原……」
 状況を忘れ、まるで愛撫の最中のような声を出す。ずっと抑えていたものはあの瞬間に壊れた。今の自分は、本能と感情に忠実な獣に近い。
 耳元で名前を囁けば、拓海の身体が微かに震えた。そしてそれを拒否するように何度も何度も首を振る。
 嫌がる相手と無理やり行為に及ぶのを涼介は嫌悪していた。その必要性すら無かった彼には、力ずくで何かをしようとする男など軽蔑の対象でしか無かったのだ。
 けれど、今の自分はどうだろう。
 自分を拒否しようとする拓海の抵抗を封じ押し倒し、そして思う存分にその身体の全てを己のものにしたいと言う欲望が渦巻いている。
 抱きしめる腕に力がこもる。
 欲望が抑えきれず、拓海の首筋に寄せた涼介の唇がその肌に喰らいつく。
 ビクリ、と跳ねた拓海の反応さえ、涼介を煽る要因にしかならなかった。
 予想通りの、いや予想以上の滑らかな肌の感触。唇で敏感な首筋を這い、もっとこの肌を堪能しようとパーカーの下から手を忍び込ませようとした瞬間、
「嫌だ!」
 どん、と突き飛ばされ、涼介は砂浜に転がった。
 そして漸く涼介は我に返る。
 ……とんでもないことをしてしまった。
 だがもう後戻りは出来ず、混乱のまま呆然と拓海を見上げると、そこにいたのはまたも涙を零す拓海の姿だった。
 その姿にズキリと胸が痛む。
 抱きしめ、慰めたいとそう切望するが、今の自分にその資格があるのだろうか。
 …いや、違う。
 資格がどうとか、それは言い訳だ。
 そしてこんなふうに拓海を泣かせてしまったのは、自分が臆病なくせに我侭だったせいだ。
 だから涼介は言った。
「好きだ」
 間の抜けた発言だと思う。
 拓海に気持ちを伝えることで、涼介は自分が傷付くのを恐れた。
 緒美という恋人がいるのに、ましてや男同士だというのに、報われないこの想いを伝え、玉砕するのが恐かった。
 涼介の人生は全て、概ね自分の思うとおりに過ぎている。挫折らしい挫折も知らずに生きてきた。
 そんな涼介を躓かせた最初の存在。それが拓海だ。
 涼介とのバトルに勝利し、そして今はこんな哀れな恋心を抱かせ、焦燥の日々を送らせている。
「…涼介さん、何言って…」
 案の定、みっともなく倒れる自分の上から、拓海の戸惑った声が降ってくる。
 顔は上げられなかった。その表情の中に、自分に対する軽蔑など見つけようものなら、今すぐに死にたくなるほどに心が壊される。
「…馬鹿だと思ってる。俺だって、どうしてこんなにお前が好きなのか…分からないんだ。
 お前は男で、おまけに緒美と付き合ってるのにな…」
 自嘲気味に呟いた言葉は、しかし意外な反論にあった。
「それ、違います!!」
「え?」
 思わず、顔を上げれば、そこには顔を真っ赤に染め、潤んだ眼差しで自分を見つめる拓海がいた。
 その表情に、涼介は胸をざわめかせる。
 拓海の眼差しに侮蔑の色は無かった。逆に、勘違いしてしまいそうなほどに甘いものを感じる。
「違い、ます…。オレ、緒美ちゃんと付き合ってません」
「そう、なのか?」
 信じられない言葉に、頭は混乱したままだ。
「え、と、その…緒美ちゃんはすぐに気付いてくれたから…」
 呆然としたままただ拓海を見上げるだけしか出来ない。
 そして拓海の行動を待つばかりだ。
 言いながらも躊躇い揺れていた拓海の眼差しが、決意を込め涼介にしっかりと合わせられる。
 ああ、好きだな…と涼介はその表情に場違いにも改めて想いを深くした。
「…今日は…涼介さんにずっと騙していたこと…謝ろうと思ってたんです」
「…騙す?何を?」
「言っても、信じてくれないだろうし、見たら早いかなって思って…」
 見る?何を?
 そう問いかえす前に、拓海の手が自身のパーカーに伸びる。そして合わせ目のファスナーをゆっくりと下に降ろしていく。
 ゴクリ、と唾を飲み込んだのは拓海か、そして涼介か。
「…涼介さんは……」
 涼介が密かに夢に描いていた白い肌が現れる。
 ゆっくりと、晒されていく肌。そして……。

「俺が…女…でも、嫌いませんか?」

 柔らかそうな二つの膨らみ。
 その瞬間に涼介はバラバラになっていた無数のピースが一つに合わさるのを感じた。
 …俺は、とんでもない馬鹿だな。
 込み上げる笑いを抑えきれない。
 クスクスと笑い出した涼介に、拓海が不安そうな表情を浮かべる。
「あの…やっぱりダメですか?」
 この自分を、ここまで骨抜きにしておきながら、そんな表情をする拓海が信じられない。
 …分かってないんだな、こいつ。
 自分の速さを分かっていないのと同様に。
 そんな心にも惹かれた。
 焦がれて止まないほどに。
 自分の全てを奪い、魅了した存在。
「藤原」
 声をかけてやれば、緊張した表情で砂浜に座り込む自分と同じように拓海も砂浜に座り込んだ。行儀よく正座だ。
 その緊張の理由を、今の涼介は間違えない。
「俺はちゃんと言ったと思うが?好きだ、ってな」
 瞬間、拓海の顔が朱色に染まる。
「嫌いになんかなるわけないだろう?お前が何であろうと、好きで好きで堪らない、そう言ったつもりだったんだがな」
「え、え…と…」
 うろうろと彷徨う視線。
 答えはもう涼介は手に入れている。
 後は、この腕の中に堕ちてくるのを待つだけだ。
「それで?藤原の質問には答えたんだから、いい加減俺の答えも聞かせてもらえないのか?」
「答え?」
「ああ。俺の愛の告白に対する返事だ」
「こ、告白?!」
「藤原は俺が嫌いか?それとも…少しでも好きでてくれるか?」
 弱気な態度を見せるのは駆け引きだ。もちろん拓海は、それに気付かず素直に答える。
「…少し…じゃないです…」
「何が?」
 かぁっと拓海の朱色が全身に広がる。
 胸の部分にまでピンク色に染まった瞬間に、涼介の中でまた獣が騒ぎそうになったが、それを必死に押さえ込む。今はまだ早い、と。
「…すごく……好き…です」
 …やっと手に入れた。
 拓海の何もかもを渇望する。
 その心も体も、そして才能も。
 全て自分のものだ。もう離さない。
「藤原…」
 腕の中に「彼女」の身体を抱え込む。
 さっきと同じように強く抱きしめ、そしてさっきは叶わなかった、その艶やかな唇に唇を合わせ、そして朱色く染まった肌に指を這わせた。



 何度も、何度も首筋から胸にかけてキスをされた。
 唇が離れた後には、赤い色の跡が残り、まるで涼介に自分のものだと印を付けられたような気になった。
 涼介の言葉が嘘や揶揄いではないことは、その切望する表情と抱きしめる腕の力の強さが教えてくれる。
「…いや、だ、涼介さん、そこ…」
 涼介の手のひらが水着に包まれた拓海の小さな胸を包む。
 緒美に薦められ、ビキニタイプのものを選んでしまったのが悔やまれる。無防備な素肌を縦横無尽に涼介の手が伝い這う。その度にビクビクと震えてしまう自分の物慣れない反応が恥ずかしい。
「どうして?とても気持ち良さそうだ」
 ほら、と証明するように涼介の手が胸を揉む。掴まれる痛みと、そして感触に腰がジンと痺れたようになり、体を支えられずに涼介に縋りつく。
「俺は好きだよ、藤原の身体。とても綺麗だ…」
 拓海は自分の身体が嫌いだ。
 身長が高くスレンダーと言えば聞こえはいいが、要はデカくて凹凸が無いだけだ。
 そして声にしても女にしては低く、小さい頃から男に間違われることが多かった。
 だから峠で走るようになったときも、男に間違われたのは当然だと思っていた。
 それでいいと思っていたのに、それが崩れてしまったのは涼介に会ってから。
 彼を知り、傍に近寄れるようになり、男としか思われていない自分が悲しかった。
 それなのに。
「藤原…好きだ…」
 なのにそんな彼は女らしさの欠片もない体を、男みたいな自分を好きだと、優しく、けれど激しく抱きしめてくれる。
 降るキスに益々力を抜けさせて、広い肩幅の大きな身体に身を預ければ、今まで感じたことのないような幸福感に包まれる。
 拓海はずっと自分が嫌いだった。
 けれど、今日からはそんな自分を少しは好きになれそうだ。
 大好きなあの人が、自分を好きだと言って、大嫌いの象徴だった自分の身体を愛しんでくれるから。
 顔を上げれば、自分を大好きだと表情で語る彼が見える。
 そしてその彼の目の中の自分もまた、同じ表情をしていた。
「好き…」
 感情のままに涼介と同じ言葉を彼に返せば、子供のように嬉しそうに微笑み、そして子供には出来ない熱烈な大人のキスが返ってきた。



2006.8.13


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