初恋ひらひら

act.7



 遅れてやってきたエレベーターに乗り込む、下るスピードにイライラしながら何度も舌打ちをした。
 そしてやっと一階に着いた時には彼の姿はどにこも無く、焦燥ばかりが涼介を襲った。
 いたずらに辺りをキョロキョロと見回し、どこかに彼の気配が無いかを探る。
 しかし、いない。
「…いったいどこへ…」
 慣れない事はするものではないと、涼介はしみじみ後悔した。
 あそこへ行かなければ彼女と会うことも無かったし、拓海を泣かせるようなことも無かった。
 涼介は深々と溜息を吐いた。
「何でこんな事に……」
 彼が好きだった。
 だから彼に嫌われたくなかった。
 ただ、それだけの事だったのに…。
 ふと、脳裏に桜の花の下で微笑む拓海の姿が浮かぶ。
 綺麗で、けれどどこか儚くて。
 この手にすぐに掴んでしまわないとどこかに消えそうで切なくなった。
 しっかりとこの腕の中に抱え込み、もう逃げられないほどに捕まえておけば良かった。
「……拓海」
 彼の名を呼ぶ。
 まだ本人の前では、一度も名前を呼んだことがない。
 焦りで叫びだしたいくらいの衝動。
 いたずらに周囲を走り回り、彼の名残を探す。
 息が切れる。
 こんなに必死になったのは何年ぶりだろうか。
 荒い息を堪え、ふと見上げた夜空に明かりが見えた。
 目を遣り、そして気付く。
 その考えは天のように降ってきた。

 ――拓海はあそこにいる。

 考えるよりも先に足が動き出す。
 ライトアップされ、真っ白に光る桜の木の群れの中に。




 風に吹かれ、湖面の水が泡立ち微かな波音を立てる。
 その音に紛れ、拓海の嗚咽が響く。
 もう社会人になると言うのに…みっともない。
 そう思いはするが、涙が後から後から零れてくる。
 顔はもうグシャグシャ。
 気持ちはもっとグシャグシャで、悲しくて辛くて仕方がない。
 涼介の隣に自分が似合うとは、夢にも思っていない。
 ただその現実を知らされただけだと言うのに、目の当たりにするとこんなにも悲しい。
 ずっと。
 あの桜の木の下にいれば良かった。
 その瞬間に、時間が止まれば良かったのだ。
 桜の下で、彼に「好きだ」と告白された。
 桜の下で、彼にキスをされた。
 嬉しくて恥ずかしくて幸せで。
 あの気持ちのままずっと留まっていれれば良いのに。
 そんな拓海の上に桜の花びらがヒラヒラと落ちてくる。
 見上げれば、真っ暗な夜空を彩るほの白い輝き。
 展望台を逃げ出し、この公園の桜に逃げ込んだのは、桜への思い出が幸せだったからだ。
 でもいざ逃げ込み、この下にいると言うのにちっとも幸せな気持ちにはなれない。

 涼介がいないから。

 またボロリと涙が零れる。
 咽喉の奥からは嗚咽。
 子供の時でもこんなに泣いた事は無い。
 まるで感情が決壊したかのように堪える事が出来ない。
 水音を聞きながら嗚咽を繰り返す。
 その時ふと、忙しない足音が聞こえ、拓海は慌てて声を押さえ涙を拭いた。
 荒い、息遣い。
 全力疾走をずっと続けてきたかのような呼吸音と、駆けてくる足音。
 それがどんどん、近付いてくる。
 涙が止まり、拓海の胸の内に期待が広がる。
 淡い、夢のような期待。
 そして足音がちょうど拓海の背中で止まった。
 ハァハァと、切れ切れになる呼吸の中で、彼は言った。
「…ふじ…わら…っ」
 拓海は振り返れなかった。
 振り返って、自分の期待と違っている事が怖くて。
 そんな拓海の躊躇を、壊すように力強い腕が拓海を抱きしめた。
 鼻腔に感じる汗の匂いと、背中越しに伝わる早い鼓動。それらが、彼がどれだけ一生懸命自分を探していたのかを教える。
「…クソ…藤原…っ」
 ぎゅう、と力いっぱいに彼が拓海を抱きしめる。
 けれど、まだ拓海は振り向けない。
 頬に、彼の髪の感触を感じた。
 そして項と首筋に彼の吐息が当たる。
「…頼む…逃げるなよ…」
 泣きそうな声だった。
 いつもの自信に満ち溢れた彼のものとは、思えないほどに。
「頼むから…嫌わないでくれ…」
 切なくて、苦しくて。
 もう夢でも良いと、そう思った。
「…りょう、すけさん…」
 またボロボロと涙が溢れる。
 今度は、切なくて。
「好きなんだよ…藤原…好きで、本当に好きなんだ」
 何度も「好き」と繰り返す。
 もう、いいやと拓海は思った。
 たとえ前が何でも。
 これが束の間の恋だとしても。
 今の涼介から伝わるのは必死ささえ感じる彼の心だけだ。
 それだけで拓海はもう満足だ。
 拓海は身動ぎ、涼介の腕の中で背後を振り返る。
 額から汗を流し、眉間に皺を寄せ、苦しそうな表情の涼介がいる。
 その瞳に、拓海と同じ「怯え」を孕み。
 拓海はその頬に指を伸ばし、手のひらで触れた。
「…ごめんなさい…俺…怖くて…」
 その手を、涼介の手が上から被さり包み込む。
「…何が?」
「…俺、ガキだし…涼介さんに何もかも釣り合わないし…服だってこんな小汚いのばかりだし、オシャレなところ連れてってもらってもよくわかんねぇし…」
「そんなの…!」
「俺…俺の取り柄なんて車で早く走ることだけだし…それも車が無かったら本当にただのガキだし…そんなつまんねぇ奴、涼介さんすぐに嫌になるかなって思ったら、俺……」
 泣きながら、言い募る拓海の唇を熱いものが塞いだ。
 それが、涼介の唇だと気付いたのは数秒遅れての事だった。
 噛み付くように唇を覆われ、息苦しくて開いたところに熱い舌が潜り込んできた。
 触れるだけのキスは経験があったが、舌を入れるキスは未だかつて経験が無い。
 歯列を割り、侵入してきた熱い舌に己の舌を絡み取られ、口内を全て食らい尽くすように舐め取られる。
「……ん…ふぅ、…あ…」
 頭が真っ白だ。
 唇の間で、クチュ、ペチャ、と正気ではいられないような水音が響く。
 ぞわぞわと背筋に悪寒めいたものが走り、下肢に熱が溜まる。
 体を支えることが出来ず、拓海はもたれるように涼介の体に倒れこんだ。
 ひとしきり貪った後に、涼介が切なく目を眇めながら濡れた拓海の唇を指で拭う。
 そんな刺激にさえ感じてしまい、拓海はブルリと体を震わせた。
「……藤原」
 涼介は拓海を呼ぶ。
 それに引き寄せられるように、拓海は涼介の瞳を見つめた。
「俺が…好き?」
 真剣な眼差しに、拓海は素直に頷いた。
「…好き」
 そう言うと、感極まったように涼介が再び拓海の体を抱きしめた。
「今更…嘘だと言われても聞いてやれない。俺は何があってもお前を離せないよ…」
 ドクドクと高鳴る涼介の心臓の音がそれを証明している。
 拓海はそれに甘えるように涼介の肩に頬を預けた。
「釣り合わない…そう思って気にしているのは俺の方だ。
 藤原が思っているよりも、俺はつまんねぇ男だよ。シャレたところ一つ知らないし、車のことにしか興味が無い車馬鹿だ。服だってセンスねぇし、啓介にはいつも呆れられている。女と付き合ったことはあるにはあるが、いつも振られてばかりだ。つまんない男だってな」
「…嘘……」
「本当だ。だいたい、さっきの女もそう言って俺を振った一人だよ。今ではもうどうでも良いがな」
 さっきの女…。
 それを聞き、拓海の胸の内に消したはずの傷が蘇る。
「じゃあ…俺と付き合ったのは…あの人に振られたから…?」
 しかし。
「……は?まさか!」
 さも意外だと言わんばかりの涼介の態度に、ザックリ切れていた傷がみるみる塞がれていく。
「関係ねぇよ。俺にも……分からないんだ。確かに、お前の事は最初から気に入っていたし、可愛いとも思っていた。けど……いきなり恋になってやって来たのは…昨日のあの瞬間からだ」
「あの…瞬間って?」
 ふわりと、涼介が幸せそうに笑う。
「微笑っただろう?お前。桜を見ながら、綺麗だ、って。
 あの瞬間に恋をした。
 綺麗だと、誰かに対し思ったのは初めてだし、誰かを思って苦しくなったのも初めてだ。初恋なんだよ、藤原、お前が」
 ぶわ、と一気に顔が赤くなる。
 ドキドキして心臓が破裂しそうだ。
 目の前の涼介のシャツを握り締める。
「お、俺も…涼介さんに好きだって言われて…そんで初めて俺も涼介さんが好きだって気付いて…」
「…うん」
「初恋…なんです、俺も…涼介さんが…」
 初恋。
 だから…
「…分かんなくて…怖い」
 涼介は微笑む。包み込むような優しさで。
「そうだな。俺もずっと怖かった」
「…涼介さんも?」
「当然だろう?藤原の一挙一動にビクビクして、幻滅されやしないかと緊張しっぱなしだったよ」
「嘘ばっかり」
 唇を尖らせ反論すると涼介は苦笑し、拓海をまた胸の中に抱え込んだ。
「…俺はお前が思うよりも遥かに…つまんねぇ男だし、情けない男だ。けれど…それでも良いか?」
 拓海は抱え込む涼介の腕の力に負けぬように、彼の背中に腕を回し抱きしめる。
「俺だって、つまんねぇしガキだし、良いところ何もないけど…それでも良いですか?」
 涼介の手のひらが髪を撫でる。心地好い。
 その手のひらが頬に移り、そして拓海の頤を持ち上げる。
「愚問だな」
 目の前の顔が微笑む。その瞳に欲を称えながら。
「お前の背景だとか、見た目で好きになったわけじゃない。丸ごとのお前に惹かれたんだ。つまんなかろうがガキだろうがそれがお前だろう?藤…いや…」
 コクリと涼介の咽喉が扇動した。一端呼吸を飲み込み、そして意を決したように口を開く。
「…拓海」
 ジン、と腰が痺れたようになった。
 初めてだった。
 苗字ではなく、名前で呼ばれたのは。
 意図しての事だったのだろう。涼介の顔も照れている。
「丸ごとの拓海が好きだ。だから、良いに決まってる」
 ――俺も同じ。
 そう言葉にして返したかったのに出来なかった。
 再び、塞いできた涼介の唇によって。
 だから拓海はその舌に応える事によって想いを返した。
 腕の中の体が愛おしい。
 いつも冷静で落ち着いた人なのに、拓海のためにだけ一生懸命に、必死になってくれる。
 同じなのだ、きっと。
 恋をすれば不安で、些細なことが怖くて臆病になる。
 拓海のように、涼介も。
 飽きる事無くキスを交わす二人の上に桜の花びらが雪のように舞い落ちる。
 髪に。肩に。頬に。指先にも。
「…綺麗だな」
 拓海の頬に付いた花びらを取りながら、涼介がうっとりとした表情で呟く。
 拓海もまた、涼介の髪の花びらを振り落としながら微笑んだ。
「……綺麗」
 賛辞は。
 桜ではなく、恋人へのもの。
 ひらひらと花びらが留め止めなく舞い落ちる。
 恋のように。
 想いのように。
 それを感じ取りながら、拓海は幸福感のままに目を閉じた。



2007.5.2
★special thanks
写真提供M様






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