ふわりと。
掠めるように降りてきた唇は熱く、そして微かに震えていた。
思い切って、握った彼の指先は気温のせいではなく汗ばんでいて、彼もまた緊張していたのだと伝えてくれていた。
キスを、した。
涼介と。
涼介に見えないように、そっと拓海は彼が触れた唇を指でなぞる。
まだあの感触が残っているようで、指で触れただけで何だかジンジンしてくる。
拓海はキスは初めてではない。
同級生の女の子としたことは過去にある。
けれどあの時は、「何だ、こんなモンか」と思うだけで、感動なんてものは一切覚えなかった。
なのに今は。
心がビリビリして。
フワフワして。
居ても立ってもいられない心地だ。
キスをしたことで、拓海はほんの少し涼介に近づけた気がした。
彼に対して感じていた怖れと緊張。
それが少し解れた気がする。
そしてそれは拓海だけでなく、
「どうした、藤原?」
花びらのように微笑む彼も。
ぎゅ、っと握り締めた手のひらに力を込め、振り返り涼介が問いかける。
その表情に、さっきまでの気後れした様子は無い。
拓海もまた、綻ぶような笑みを返し、頬を赤らめながら首を横に振った。
「何でもないです。…何だか、咽喉乾いて」
そう言えば、涼介は「ああ、そうか」と頷いた。
「あそこで何か買う?お腹は空いていない?」
花見客を狙い、公園内には何件も露天が出店している。
露天のものは確かに興味と食欲をそそられるが、正直慎ましく生きる拓海には値段が張るように思える。
だから首を横に振った。
「自販機のお茶とかでいいですよ。俺、ちょっと買ってきていいですか?」
そう言い駆け出そうとすると、繋いだ手を引っ張り、涼介が止めた。
「…待て、藤原」
「え?」
ぐい、と駆け出そうとしたところを引っ張られたせいで、反動で涼介の胸にボスンと頭をぶつける。
まるで彼の腕の中に抱え込まれるような姿勢になっていることに気付いたのは、耳元近くで囁く彼の声によってだった。
「……俺も一緒に行く」
寸暇も、離れていることが惜しいと、そう言いたげな拗ねた声に、拓海の体中がブワリと熱くなる。
「え、え、と、じゃ、あの…い、一緒に行きましょうか!」
焦って、上擦った声で答えて、涼介の腕をぐいぐいと引っ張る拓海に、涼介のクスリと微笑む声が聞こえた。
「…本当に可愛い」
拓海に語るわけでもなく、ボソリと呟かれた涼介のその言葉は、嘘偽りの響きがないからこそ拓海を動揺させた。
この先、付き合いを続ければキスだけではなく、その先の行為もある。
そうなった場合、拓海は自分が正気を保てるのかどうか甚だ自信が無い。
この指が自分の肌の上を這い、この唇が自分の肌に触れ、そして彼の……。
そこまで考えたところで、頭から湯気が立ちそうなほどに沸騰した。
「藤原?」
「な、何でもないです!!」
…恥ずかしくて死にそうだ。
マトモに彼の顔を見ることもできず、真っ赤な顔を俯かせたまま拓海はぐんぐんと歩いて行く。
涼介としっかり、手を繋いだまま。
そんな拓海に、もう一度涼介の呟いた。
「…可愛いなぁ」
にんまりと、微笑みながら呟かれた言葉は、けれど今度は拓海の耳には届かなかった。
その、緩んだ表情も。
ゆっくりと桜並木を散歩し、池の傍で寛ぎ、会話がなくても手を繋ぎ、目を閉じ同じ空気の匂いを感じ、風の流れを感じた。
いつの間にか時間は二人が思うよりも遥かに進み、明るかった日差しはもう夕暮れ色に染めている。
「お腹空いた?」
涼介が拓海に問いかける。
拓海は自分のお腹に手を当て、そして首をかしげながらコクンと縦に頷いた。
「はい。ちょっと」
まだまだ育ち盛りの十代。
健康的にお腹は空く。緊張していた頃は「大丈夫です」と答えたかも知れないが、今は甘えても良いのだと拓海は知っている。
その方が、涼介も喜ぶことも。
「そう。じゃあ、そろそろ食事にしようか」
そう言い、涼介は駐車場には戻らず、拓海の手を取りどこか違う方へと歩いて行く。
「え、あの…涼介さん、どこに行くんですか?」
キョトキョトと視線を彷徨わせながら、涼介の後を付いていく拓海に、彼が振り返り微笑んだ。
「あそこ」
彼が指差した場所には、大きな建物。
県庁だ。
「え?」
「あそこで食べよう」
「は、…え、はい」
よく分からないけれど。
涼介に付いていけば間違いない。
そう思い、拓海はヒョコヒョコと親の後に続くヒヨコのように大人しく付いていく。
慣れた足取りでエレベーターへ向かい、そして上階へと向かう。
案内されたのは、拓海が足を踏み入れたことに無い世界。
ファミレスとは明らかに違う空間に、拓海は気後れして足が踏み出せなかった。
「どうした?」
振り返るあの人に、けれどこの世界はよく似合った。
「お、俺、こんな格好だし…」
とてもTシャツにジーンズで入れるような場所ではない。
なのに彼は何でもない事のように笑った。
「大丈夫だよ。気にするな」
そう言い、拓海の肩を抱き無理やりに店の中に入り、予約がもうしてあったのだろう。名前を告げ席に着く。
「何が良い?」
聞かれても拓海には分からない。
「ここ、眺め綺麗だろう?」
展望レストランとして有名なのだと彼は言った。
それに、拓海は笑みを作りながら頷いた。
開放的な外の空気の中では。
二人は近づけたと思ったのに。
こうやって二人の生息域が違うことを知らされると、また彼が遠くなる。
慣れた足取り。
慣れた物腰。
五年と言う年齢の違いだけではない。
環境と、経験の違いがまざまざと拓海の上に圧し掛かる。
涼介は拓海にとって間違いなく初めての恋で、初めての恋人。
けれど彼はそうではない。
何人目かの…それこそ何十人目かのものでしかないのだろう。
そしていつか。
過去の恋人たちのように、拓海もまた「過去」になるのかも知れない。
そう気付いた瞬間に、見晴らしの良い窓の外の風景に心情を重ね合わせ拓海はゾッとした。
ふわふわと、高みにあった気分が一気に羽根をもがれ落下する。
「藤原、本当に大丈夫か?」
心底、心配そうに眉間に皺を寄せ問いかける涼介の顔を、真っ暗な心のまま拓海は見つめ返し、そして、
「…大丈夫です」
能面のような笑顔で嘘を吐いた。
2007.4.30
★special thanks
写真提供M様