大丈夫、と彼が嘘を吐く。
それが本当であるなどと錯覚できるほど涼介は鈍くも、そして拓海に対し関心が無いわけではない。
過去の恋人もどきの女性たちなら、その言葉を信じ何も気になどしなかっただろう。
そうだ、と涼介は思い返す。
過去、何度も涼介は女たちの「平気」「大丈夫」を聞いてきただろうか。
それも涼介から問うたわけではなく、たいていが忙しい涼介が「会えない」などの断りの文句を入れたときの返事として。
その時の涼介は、そんな女たちの返事に好都合だとさえ思い、不安になど一つも感じなかった。
けれど今は。
ナイフを握り締める手に力こもる。
明らかに口数が減り、さっきまで花のように微笑んでいた顔からは明るさが消え、俯いたまま涼介と視線さえ合わそうとしない。
自分が、拓海の不興を買ったことは確かだ。
けれど、何に?
好きで。
本当に好きで。
可愛くて堪らなくて。
例えば拓海が今ここから飛び降りてみろと言うなら死なない方法で必ず飛び降りてみせる。
それぐらいに可愛くて、好きで何でもしてやりたい相手なのだ、彼は。
なのにそんな大切な彼の表情が今は曇っている。
何か間違っていたのだろうか?
それとも、自信満々に案内したこの啓介お勧めのスポットを大したことないと思われたのだろうか…。
つい、恨みが弟にまで行きそうになる。
そして思考は、どんどん暗い方向へと進んでいく。
思えば、最初から拓海はこんな表情をすることがあった。
あの時は自分の勢いに押され頷いてしまったが、本当は後悔しているのではないだろうか?
それとも、チームリーダーである自分の要望を断れず…。
まさか、同情?
…カターン、とフロアに音を響かせ、手の中のナイフが食器の上に落ちた。
拓海がその音に顔を上げる。
その不審そうな瞳に血が凍る。
「あ、ああ…すまない」
慌てて握りなおし、目の前の食事を義務のように片付けるが、味がどうであったかなど涼介には一切分からなかった。
重苦しい食事を終え、料金を払うと言う拓海を強固に断り涼介はとりあえず当初の予定通りこのレストランの上の階にある展望台に向かった。
涼介の、と言うより啓介の立てたデートプランでは食事の後に、展望台のロマンチックな夜景を見ながら愛を語る、であった。
涼介は今のこの危機的状況を打破するのに、その夜景を頼みの綱とする。
すっかり日が暮れ、真っ暗になった世界に街のネオンが瞬き、まるで地上の星のように輝いている。
暗い表情だった拓海も、その景色に目を見開き、感嘆の声を上げた。
「…綺麗だな」
今が勝負だ!
そう心に決め、窓に手を付きじっと外を眺める拓海を抱え込むように、背後から涼介もまた景色を眺める。
「そう…ですね」
しかし涼介の気配が背後に来た途端、拓海の体が強張った。
その態度に、また涼介の胸にシクリと棘が刺さる。
ゴクリと唾を飲み込み、このままではいけないと勇気を出す。
「…気に入らないか?」
「え?」
驚いた表情で拓海が背後の涼介を振り返る。
「ずっと浮かない表情をしている。…つまらない?」
拓海は視線を逸らした。
「…そうじゃなくて…」
「本当に?」
涼介は作為ではない、溜息を吐いた。
「…俺と一緒にいるのは…嫌か?」
弾かれたように拓海が涼介を再び見つめる。
「違います!」
強い否定に、最悪の文字が脳裏から消えるが、けれど問題が解決したわけではない。
「…俺が…そうじゃなくて、俺が…」
じっ、と。涼介は拓海の言葉を待った。一言も、一瞬でさえ漏らすまいと。
けれど。
「涼介?」
甲高い女の声でそれは遮られる。
ビクリと、腕の中の拓海の体が跳ね、唇が閉じる。
それに不快感を覚え振り向けば、見覚えのある顔がそこにあった。
「奇遇ね。まさかあなたがこんなところにいるなんて…どうしたの?」
それは先日別れた元恋人のものだった。
涼介よりも年上で医師でもある彼女とは実習の関係で知り合った。
見目が良く、頭も良く、捌けたところのある彼女との関係を「楽」と感じ付き合うことを承諾したのだが、今思えばそれは相手にとって失礼極まりない行為であっただろう。
『つまらない』と言われ振られたのは当然の事だ。
そう、涼介は目の前の彼女と、拓海とを見比べ自覚する。
つまらない男、であったのは、涼介が彼女に対して何の関心もないから。
真実に好きな相手には、何でもしてやりたいと願うものだ。今のように。
涼介は彼女の視線から拓海を隠すように立った。
本音はタイミングの悪さに舌打ちしたい気分だ。
彼女が、チラリと拓海を見て、グロスと口紅で彩られた唇を緩ませる。
「弟さん?それとも、大学の後輩か何か?」
「別に。関係ないだろう」
彼女に対し、もう何の感情も残っていない。狭量と言われようが、今の涼介には彼女は邪魔者としか感じなかった。
「…可愛いわね、涼介。無理しちゃって」
しかし涼介の言葉も聞かず、彼女はクスクスと楽しそうに笑う。
そして涼介の全身を眺めた後に艶っぽい瞳で涼介を見つめる。
最初に、涼介を口説いたあの時の同じ瞳で。
「ふぅん。頑張ったじゃない。私に言われたこと、気にしてたんだ?」
彼女の指先が涼介に伸びる。
「いいわよ。あなたの努力に免じて一昨日の言葉、撤回してあげる。また付き合いましょうか」
どす黒い感情が涼介の中に渦巻いた。
伸ばされる指先が、得体の知れない触手のような錯覚さえ覚える。
その指先を苦々しい表情で払いのけ、口を開く。
「悪いが俺はもう…」
けれど言葉は最後まで紡がれることは出来なかった。
自分の背後から、拓海の気配が消える。
そしてバタバタと慌しく駆け出す足音も。
慌てて見たフロアの先に、拓海の背中が見えた。
エレベーターのボタンを押し、すぐに開いた扉にその姿が消えようとする。
ふと、こちらを向いた彼の頬に、涙の線が見えた。
「…拓海」
呆然とし、けれどすぐに我に返った。
「拓海!」
慌てて後を追いかけようとする涼介の腕を、彼女が掴む。
「離せ!」
「どうしたのよ、涼介」
「うるさい、構うな!」
彼女の腕を乱暴に振りほどき、涼介は駆け出した。
背中に彼女の罵倒する声が聞こえる。
しかし今の涼介には些細な傷も与えない。
涼介の傷つけるのも、哀しませるのも、切なくさせるのも、…幸せにするのも拓海ただ一人だけだ。
拓海の乗ったエレベーターの扉が涼介の目の前で閉まる。
垣間見た拓海の泣き顔。
悔しくて、涼介は壁を拳で強く叩いた。
「…クソ!」
どんどん下っていくエレベーターの階数表示を見つめながら、咽喉の奥から搾り出すような声で呟いた。
「……拓海」
自分が不甲斐なくて、情けなくて、涼介の眦に涙が浮かんだ。
綺麗な人だった。
拓海は一人きりになった下降するエレベーターの中で彼女の顔を思い出す。
大人で、スタイルも良く、美人で、頭も良さそうで。
そして何より。
大人である涼介の隣に、とても良く似合っていた。
クスリと笑いながら彼女の言った言葉が蘇る。
『弟さん?それとも、大学の後輩か何か?』
それはまるで、最後通牒のようだった。
自分が、彼の隣には似つかわしくない人間なのだと。
彼女の雰囲気から、ほんの僅かの会話から、あれが涼介の元恋人なのだと知った。
「…それとも…今も、なのかな?」
一昨日の言葉、と言った。
別れたのはつい最近なのだろうか。
涼介が拓海に告白したのは昨日だ。
だとしたら、失恋の寂しさを手近な自分で間に合わせた?
床の上にボタボタと水滴が散った。
それが自分の目から溢れているのだと、気付いても止めることは出来ない。
ほんの束の間の夢だったのだ、きっと。
自分の恋心に気付いた涼介が、きっとほんの手慰みに与えた夢だったに違いない。
「…涼介さん…涼介さん…」
最初から、きっとそうだったのだ。
辛くて。切なくて。悲しくて。
でも…幸せだったのだ、確実に。
彼といるだけで嬉しくて、天にも昇る心地だった。
けれど、現実を見てしまった。
夢が覚めてしまった。
それだけのこと。
「…それだけの…ことだよな…」
そう言い聞かせるが、涙は止まらない。
「初恋は叶わないって言うけど…本当だな…」
涙って塩辛いんだ、と。
混乱する頭で拓海はそんな事を思い、自嘲気に唇を歪めた。
目に浮かぶのは桜の花びら。
そしてそこに立ち、優しく微笑む涼介の姿。
「…涼介さん…涼介さん…」
誰もいないのを良いことに、思う存分に泣く。
思う存分に、心の中を吐き出す。
「……チクショウ…大好きだよ…」
今でも、ずっとこれからも変わらず。
傷つけられても拓海の心は変わらない。
2007.4.30
★special thanks
写真提供M様