たなびく煙の向かう先。
啓介は突き抜けるような青空を見上げた。
眩い太陽の陽射しが啓介を射る。
「…それで」
だがかけられた声に、また意識を目の前に戻す。
かつて、ホームコースとしていた赤城の峠。
いつも夜に走りこんでいた自分が、今はもう陽射しの下で走るのが当たり前になってしまった。
「結局、あいつらは元の鞘に納まったのか?」
啓介は煙を吐き出し、社会人となり順調に出世しているようだが、以前より老け込みスーツの似合う大人になってしまった史裕から視線をまた空へと向けた。
「…元サヤってのじゃないだろ?どっちかって言うと、元々いびつだったのをぶっ壊して、今度は頑丈な器にして納めちまったってのが正しい」
啓介はもう何ヶ月前になってしまった騒動の顛末を思い出す。
電話をしたときの、聞いたことのないような兄の不安定な声音と反応、行方の知れない拓海の動向に不安を覚え、僅かな休暇に飛んできた自分が馬鹿みたいだった。
涼介の部屋で、荒れた部屋と同様にボロボロになった二人の姿に絶句した。そしてこのままではいけないと、瞬間的に思い二人を引き離そうと思った。それが彼らの幸せなのだと。
だが二人はあれが幸せなのだと言う。今まで見たことのない、嬉しそうな表情でそう啓介に告げた。
啓介には二人の感情は理解できない。理解したくもない。
けれど、いつも感情を包み隠し、何事にもガムシャラになった事の無い兄が子供の駄々のように拓海を欲し泣き、いつも寂しそうな表情ばかりだった拓海が、至福の笑みを浮かべていた。
あれが愛なのかどうかなど、啓介には分からない。
きっと涼介にも、拓海にも分かっていないだろう。
愛と言うには激しすぎ、恋と言うには深すぎる。
たとえて言うなら「執着」。お互いへの。
同性同士と言う特異性だけを取り上げても、二人のこの関係は普通ではない。
啓介は今も二人の関係を納得していない。
出来るなら、涼介から拓海を引き離し、普通に戻って欲しいと思っていた。いたずらに傷付け合うだけの関係など。
けれど、離せば二人は普通には戻らず、壊れるだけと知った。…いや、思い知らされた
だから、もう仕方ないのだ。
この先、傷つけあう未来があっても、彼らには本望なのだろう。そして共に壊れてゆくことを望む。
怖い、と思う。
そこまで誰かを欲する感情は怖い。
だが……そんなにも誰かを必要とできる彼らが少しだけ羨ましいと思う自分もいた。
「頑丈な…ねぇ…。確かにあいつらの関係は、歪と言うかおかしなモンだったが…」
一番涼介の身近にいた啓介と史裕。この二人だけが、あの頃の秘められた二人の関係を見抜いていた。
間違っている…。そう思いながらも啓介にも、史裕にも涼介の拓海への執着を止めることが出来なかった。逆らうことが恐かったわけでは決してない。純粋に、自分を律しすぎ、抑圧しすぎる傾向にある涼介の感情的な行為を、初めて誰かを欲するその感情を大事にしてやりたいと思ったのだ。たとえその結末に悲劇的な要素が待ち受けているとしても。
だが、啓介たちの予想よりもはるかに、二人の執着は強かった。
「…知ってるか?アニキの部屋のさ、クローゼットの一番奥に、藤原の服が仕舞ってあるんだ」
煙を吐き出しながら、目の前の史裕に聞かせるわけでもなく呟く。
「一番目に付かないところに置いておくくせに、一番きれいに仕舞ってあるんだ。自分の服は結構いい加減に並べてあるのに、藤原のだけはちゃんとクリーニングして、アイロンまでかけて、大事に仕舞ってあるんだよ」
あの後、酷い惨状の二人のために風呂に入るように啓介は薦めた。
その際に、二人の着替えを探すため涼介のクローゼットを覗いた啓介は、あれを見た。
…兄を、生まれて初めて馬鹿だと思った。
「…大切なくせにさ、それを認めたくなくてずっと隠してんだよ。それを素直に出してれば、あんなふうにならなかったのにな…」
そして、と啓介は続ける。
「藤原もさ、素直にイヤなことはイヤだって、ちゃんと言ってれば良かったんだ。腹ん中に溜め込んで、それで自分を壊してんだから世話ねぇよな…」
啓介は目を閉じ、短くなった煙草を捨て足で踏んだ。煙が消える。
「…結局、二人とも不器用だったって事か」
「ああ。そうなんだろうな…」
啓介が空を見上げる。晴れ澄んだ空。
史裕もまた空を見上げた。
あの頃に常に見ていた、暗い夜空ではなく。
「…それで、藤原の目は治ったのか?」
啓介がまた新たな煙草を取り出す。火を着け、煙を深く吸い込み吐き出す。
「ああ。ゲンキンなもんだよな。ま、元々心因性のものだったから、その原因さえ解決しちまえば、良いもんなんだろうけど…」
拓海の目は、あの日の朝に既に色は戻っていたらしい。
そして見えなくなった片目は、徐々に視力を取り戻し、今ではすっかり元通りになったのだと先日連絡があった。
「来シーズンからは復帰するらしいぜ?復帰してすぐに、表彰台狙ってるみたいだな」
ブラフではなく、それは現実のものとなるのかも知れない。今の拓海には、昔のどこか不安定だった脆さが無い。その脆さは涼介が作ったものだった。それが無くなった今の拓海がどこまで行けるのか、啓介は恐ろしく感じる。つくづく、分野が違っていて良かったと、そう思うと同時に、一緒に走りたいという気持ちも拭えないので、自分もまた彼らとは違った馬鹿なのだろうと苦笑する。
「…涼介も、来年から藤原の傍に付くんだろ?無敵みたいなものじゃないか」
史裕が笑う。
いつもあの二人の話題を口に上らせる時は、困惑した表情しか浮かべなかった男が。
今は笑って語ることが出来る。
「ああ。元々、スポーツドクターの資格みたいのは持ってたらしいんだけどな。今はアメリカの大学で研修して、来シーズンから正式に藤原の専属になるんだってよ」
あの後、涼介はすっぱり病院を辞めた。そしてそのまま拓海と一緒に渡米し、拓海は目の治療とそれに合わせたトレーニング。涼介は向こうの大学で本格的にスポーツドクターの道を歩むべく研修に入った。
二人で同じ部屋に住み、同じリズムで生きる。
啓介は空を見上げた。
この場所から遠いところに住んでいるだろう二人に思いを馳せ。
「…幸せなんだろうな」
史裕が呟く。空を見上げながら。
「…ああ。幸せだろ?」
やっと二人でいれるのだから。
真昼の空。夜空に浮かぶ月は見えない。
啓介は、二人にとっても、見上げる空がこの澄んだものであればいいと願った。
月が見える。
真白の月。
昔は切望しながら見つめていたものが、今は懐かしい思い出でしかない。
カーテンを開き、ぼんやりと窓の外を眺める拓海の背後に、覆いかぶさるように涼介が腕を回し腹の上で交差させる。
「…何を見ている」
ぎゅっと力を込めて引き寄せられ、拓海は涼介の肩に頭を預けた。
風呂上りの心地好い体温と、耳に感じる彼の吐息。
それに一緒に暮らし始めた今でも慣れず、拓海は身を竦めた。
「…月…昔、涼介さんに抱かれながら、よく見てたなって思って…」
照れくさそうに笑いながら、そう答えると涼介の顔が歪む。彼は昔の拓海への行為を悔やんでいる。不必要なほどに。拓海を抱く腕の力が強まった。拓海はその腕の上に、自分の手のひらを這わせる。
「…あの時の俺は…どうかしてたな」
悔やむ言葉が欲しいわけではない。拓海は自嘲する涼介の腕を抓った。
「どうかしてた、なんて言わないで下さい。…俺は幸せでしたよ?」
「あんな事をされてか?」
「はい」
拓海は微笑んだ。
「俺はいつも幸せでしたよ。涼介さんの傍にいれて。今も、もちろん昔も」
涼介の腕が強くなる。彼の視線もまた、頭上の月を眺める。
「……静かの、海…だったかな?」
ぼそりと呟かれた言葉に、拓海は過去の彼の言葉を思い出す。
「…人類が、初めて月に降り立った場所…でしたっけ?」
「ああ。…お前に言ったっけ?」
「言いましたよ。忘れたんですか?」
ふと、涼介の目が遠いものになる。だがすぐに拓海に戻り、その肩の上に顎を預ける。
「…いや、覚えてる。…あの時俺は、あれを見ながら、あんな静かな空間に二人だけでいられたら、もっとお前に優しく出来るのにと思っていた」
涼介の声音に後悔が滲む。
どんなに拓海が気にするなと言っても、ずっと涼介は後悔し続けるのだろう。
だから拓海はそのたびに言えばいい。
涼介の体を抱き締めて、彼の耳に届くように囁く。
「…どんなことをされても、何があっても俺は涼介さんが好きです」
顔を上げ、振り返るように涼介を見つめると、柔らかな眼差しが降ってくる。大切な宝物を愛おしむように、指が拓海の頬を這い、唇を寄せる。
「……俺もだ」
かつて望みながらも与えられなかった言葉。
それが今は許される。
「愛してるよ」
涼介の腕が拓海を引き寄せ、淡いブルーグレイのシーツの上に二人で倒れこむ。スプリングの利いたベッドの上に寝転び、自分の上に覆いかぶさってくる涼介の体の重みを受け止めながら、拓海はうっずらと微笑んだ。
このベッドシーツを選ぶとき、二人で一目惚れのようにこの色を選んだ。
あの時は漠然とだった理由が今なら分かる。
この色は、あの月に似ている。
あの静かの海の中で、淡い月の光に抱かれながら二人だけの世界でいられる。
涼介の望みは、図らずも適ったのだろう。
あの時は乱暴だった手つきは、今は拓海を害することは無い。
ゆったりと、優しく常に拓海を扱う。もう間違えないように。
拓海は微笑みながら、涼介の頬に両手を這わせながら、下からついばむようなキスを送る。
彼が好きで。
好きで仕方なかった。
同じ気持ちで自分を思ってくれる日が来るとは思ってもみなかった。
かつて、月に願い、夢見ていたことは現実となった。
―――涼介さんが俺だけのものになりますように。
あの夜空の月に願うことはいつも同じだ。
「愛してる…もう、離さないで…」
そう囁くと、涼介もまた微笑んだ。拓海の耳を噛み、首筋を噛み、嬉しそうに。
「お前が逃げ出したくなっても、俺はお前を離せないよ」
…嫌と言うほど、判ってるだろう?
そう耳に囁かれ、拓海は吐息とともに「嫌になんてなりません」と囁き返す。
願いは叶った。
二人、いつまでも静かな海の中で、お互いだけを見つめ溺れていく。
拓海は涼介の背中に腕を回す。爪を立て、彼の背中に血を滲ませる。
傷つけても、傷つけられても離れない。
そして拓海は自分の全てで涼介を手に入れた。
あの頃願い続けていた月は今は拓海の手の中に。
「…あんたは俺のものですよ」
「…お前は俺のものだ」
幸せだ。
今は心から、そう思える。
拓海は目を閉じ、この腕の中の幸せを享受した。