夢を見た。
夢の中の拓海はいつも人形のようだった。
泣きもしない。
笑いもしない。
ただ無表情に、眼差しだけはあのままにじっと自分を断罪するように見つめてくる。
その細い体を組み敷いて、医療に携わる人間の所業とは思えないほど乱暴に、彼の内に自身を突き入れる。
たいてい彼の後ろからは血が流れた。
痛いだろう。体もきしむだろう。
なのに彼は何も言わない。
何も言わず、ただじっと自分を見つめ続ける。
その瞳が怖くて、手のひらで目を塞いだ。
だがその途端、心の中に真っ暗な闇が広がって、涼介の世界を夜にした。
灯りだ。
この瞳は灯り。
そっと手にひらを彼の目から外す。
けれどその目にはもう光はなく、組み敷いていたはずの体も蜃気楼のようにユラユラと揺れながら静かに消えた。
残ったのは情けない子供のような顔をした自分だけ。
『拓海』
手で周囲を探り、彼の姿を求めた。
『拓海』
見つからない。世界が暗い。
『拓海』
さっきまであんなに暖かかったのに、今は凍えるように寒い。
『拓海』
独りだ。自分は独り。寂しい。恐い。こんなのは嫌だ。
『拓海』
何度も何度も名を呼んだ。
けれど、答えは変わらず、そして彼もまた自分の前から消えた。
「――拓海!」
自分の叫び声で目が覚めた。
どうやらあのまま眠ってしまったらしい。
我に返った涼介は煙草の焼け焦げが残るベッドカバーに舌打ちし、灰を手で乱暴に払い落とした。身体がやけにきしむ。
ふと起き上がった自分の目に、鏡の中の自分の姿が映った。
ボサボサの髪に無精髭。落ち窪んだ目と隈。扱けた頬。ひどい有様だ。これでは百年の恋も一発で覚めるってやつだな、と自嘲しながら、冷蔵庫の中のミネラルウォーターを取り出し口を付けた。
この水。
これも確か、拓海が海外遠征で「おいしかったから」と土産に持ってきたものを自分も気に入り、探し出し買って常備しておくようになった。
ふと探せば拓海の匂いのするものは多い。この水にしても、何気ない自分の仕草一つにも拓海の影響があったりする。
自分に、一番深いところまで届いていたのが拓海だ。
両親も、弟でも知らない本当の自分を知っていたのも拓海。
だけど涼介はその深さが怖かった。
全てをさらけ出す勇気もないくせに、さらけ出したがって、そして気付かない拓海に苛立った。まるで子供だ。
昨晩からずっと堂々巡りな考えにまた陥りそうで、涼介は溜息を吐き、拓海の影を払拭しようと首を振った。
だが、その時。
電話が鳴った。
思い浮かんだのは拓海の顔。
しかし着信に出ていたのは今海外にいるはずの弟の電話番号だった。
「……はい」
いったい何だ、と不機嫌に電話に出た涼介に、いつもなら遠慮なく喚くように話し始める弟は口ごもった。
「何だ、啓介?用件なら早く言え」
焦れる涼介に、啓介はやっと口を開いた。
『あのさ…藤原、アニキのところにいる?』
啓介は涼介と拓海が付き合っていることを知っている。最初は複雑な想いもあったようだが、今は彼なりに納得したようだった。
「いや、昨夜来たが、すぐに帰った」
『………』
涼介の答えを聞き、再び啓介が口ごもった。
『…アニキ、あいつ…大丈夫だったか?』
その時点で涼介は気付くべきだったのだろう。
シーズン中に関わらず、拓海が戻ってきた理由。そして今の啓介のらしくない電話。
「何だ、いきなり。普通そうだったが…何かあったのか?」
『あいつ、アニキに何も言わなかったのか?』
「何もって…何をだ」
そこでやっと、涼介は気付いた。
拓海に何かが起こったことを。
電話を持つ指が、自然と震えた。
「啓介…拓海がいったいどうしたんだ?」
声も震えていただろう。
『…アニキ…あいつ今…』
音量は変わらないはずなのに、やけに啓介の声を遠くに感じた。
『…目…見えないんだ』
俺も、噂に聞いただけだけど…。そう付け加えながら語る啓介の言葉はもう涼介の耳には入らない。
――目が、見えない?
どういう事だ?と、普段は明晰であるはずの頭脳は停止し、何も考えることが出来なかった。
シーズン中のはずなのにやって来た拓海。何も言わない背中。
自分は拓海をずっと見ていたつもりだった。
けれど。
本当に見ていたのだろうか?
ずっと。いつも、もの言いたげに自分を見ていた拓海。そうだ…拓海は言いたかったんだ。だけど、自分が言わせなかった。
涼介はやっと気がついた。
拓海が最悪な時に。
最悪な形で彼を傷つけた自分を。
『素直にならないと大事なものを失くしちゃうわよ?』
その言葉は、今は現実となって迫っていた。
目を開けた。
ブルッと冷えた空気に体を震わせながら、体を起こす。
体の上に乗っていた布団が捲れ上がり、浴衣姿の自分が現れる。
昨夜はこのまま近場のホテルに泊まった。
家に帰り、父親の顔は見たくなかった。
啓介の時と同じだ。懐かしい場所に帰り、その顔を見た瞬間自分が脆く崩れてしまうような気がして。
だが電話はした。
『…親父?俺。今日本にいるんだ。…うん。レース出れなくて。だからちょっとブラブラしてくる』
そう言うと、父親は暫く無言で、だがいつもと変わりない声で『そうか』と言った。
『…ハチロクはいるのか?』
父親が、拓海が置いて行き乗らなくなってしまったあのハチロクを、今も変わらず整備しているのは知っている。あの車に乗ったことで彼と出会い、そして彼が自分を憎むようになってしまった車。
拓海は苦笑を浮かべる。
皮肉なものだ。あの車が全ての始まり。だが、拓海はハチロクで走っていたことも、涼介と出会ったことも、こんな結末になったことも後悔していない。
『いや、止めとく。俺、今目ェやられてるし』
重大な告白だと言うのに、あえてさらっと言った。父親もまた、『…そうか』とだけ呟いた。
けれど、
『ま、ほとぼりさめたら戻って来い』
とだけ言った。
そっけないそんな言葉に、堪えていた拓海の目尻に涙が浮かんだ。
僅かに浮かんだ涙をシャワーで流し、そして洗剤の臭いのするシーツに包まり、目を閉じた。
だが結局一晩眠れず夜を明かした。
拓海は苦笑しながら、着込んだ浴衣を脱ぐ。
露になった自分の肌。しっかりと筋肉が付いた体に、平坦な胸。
昨夜うす暗がりの中で見た涼介の相手は女で、柔らかそうな体と膨らんだ胸の持ち主だった。
「…ああ言うのが好きなんなら、いっぱい我慢してたんだろうなぁ…」
自分の体を鏡に映し見ながら苦笑する。
どんな思いで彼は自分の、こんな男にしか見えない体に触れていたのだろうか?
せめて。
せめて、気持ち悪いとか思わないでいてくれたらな…。
女々しくそんな事を思う自分を振り払うように、拓海は冷たい水で顔を洗った。
固まってしまた涼介の耳に、啓介の声が止む事無く注ぎ込まれていく。
『ずっと電話をしてたんだけど、最初はかかってたのに、途中で電源切られちまって…』
弟の言葉に不安が増した。
『あいつの家に電話しても、親父さんも行き先を知らないらしくて…』
じゃあ、拓海はどこに行った?
怒鳴りたい衝動を押さえ、震え始めた指で電話を握り締める。
『親父さんが言うには…拓海は…藤原は絶対に死なないから安心しろって。自殺とかはしないから、今はほっとけって言うんだけど…』
自殺。死。
その言葉に、初めてその可能性に行き当たり、ますます震えが激しくなる。
だが同時に浮かんだ、彼との思い出。
寝物語に、プロのとして活躍し始めた彼に「死ぬなよ」と、置いていかれる不安も混ぜてそんな事を言った。
拓海は笑い、あの強い眼差しを涼介に向けた。
『死にませんよ、俺は』
『随分な自信だな。けれど万が一と言うことがあるだろう?』
涼介は医療の現場に関わっていることから、嫌でも様々な死を見てきた。突然、幸福な人生を送っていた人の上にそれが降りかかってくることも。
『それはそうですけど…でも俺は少なくても自分で自分を殺すようなことはしませんよ。レースでも十分気をつけてます』
『…あんな無謀な突込みをしてて?』
クスクスと笑う涼介に、拓海が枕を投げた。ぶつかり、枕の中の羽毛が散る。
『あれは出来るって思うから!…頭の中に、浮かぶんですよ、ラインが。それが見えてるから行けるって思うんです』
その言葉が、凡人にはどれだけ羨ましいか、きっと拓海には分からないのだろう。涼介の口元が小さな嫉妬に軽く歪んだ。諦めた道。それを才能で持って突き進み、活躍する恋人。
『…判ったよ。だから、もう一回…な?』
だから、彼のその後も言葉も満足に聞かなかった。華々しく輝き始めた恋人を組み敷き、卑小なままの自分が優位に立つために。
『…俺、分かってますよ。母親が小さい頃に死んでるから。だから…大事にしてます、ちゃんと…』
まだ不満そうに唇を尖らせる拓海を、自分の口で塞ぎ言葉を飲み込ませた。
こんな些細な思い出一つの中でも、拓海の言葉を満足に聞こうとしない自分がいる。
恥ずかしすぎて、情けなさ過ぎて悔やんでも悔やみきれない。
『なぁ、アニキ。あいつ何も言わなかったのか?だいぶ前から、目は少しずつ悪くなってたらしいんだけど、相談とかもされてないのかよ?』
言葉を発しない涼介に、電話越しの啓介の声が不審に尖る。
涼介はその言葉に、返す言葉を持っていなかった。
震える手。唇は戦慄き、明晰であった頭脳は停止し、嵐のようになっている。
『…アニキ、聞いていいか?何であいつはアニキのところに行ったのに、相談もしないで、しかも出て行ったんだ?』
二人の間に、何かあったのだと察しているのだろう。電話の啓介の声は、軽い口調ではあったが重い響きのあるものだった。彼がこの質問を発するのに、ある程度の覚悟を決めてしたのだと窺える。
『…ずっと聞きたかったんだ。アニキさ、本当にあいつのこと、好きで一緒にいたのかよ?』
…好き?好きだったさ。自分で思っていたよりも、ずっと。
『俺の目には、アニキがあいつを憎んでいるみたいに見えてたよ』
…憎んでたさ。嫉妬して、憎んで、這い上がれないくらいに堕ちていけばいいと思っていた。だけど…あいつは堕ちないんだ。俺ばかり薄汚れて、そしてそんな俺をいつだって眩しいもののように見るんだ。うんざりしたよ。だから、だから…。
『…アニキ…泣いてんのか?』
…泣いてない。泣けるはずもない。こんな俺が、泣く資格なんてないのだから。
「…啓介――」
震える声で、弟の名を呼んだ。
受話器の向こうで、弟が黙り込む。
「…拓海に会いたい…謝りたい…土下座でも何でもする。今は…あいつに会いたい。会いたいんだ…」
しゃくりあげる声。頬を伝う涙の筋。
涼介は子供のように、心のままに涙を流した。
「聞いてくれ、啓介。俺が、俺があいつに何をしてきたか…」
初めから。
初めから全て自分が愚かだったのだ。
拓海はいつだって――。
『涼介さん』
微笑んで、優しく自分に微笑みかけてくれていたのに。