暗い夜空に真白の月。
車のスキール音が響く峠で、温いコーヒーを片手に彼は言った。
「“静かの海”と言うんだ」
振り返り、月を指差すあの人の顔はまるで子供のようで、いつもの厳しい表情しか知らない拓海はそれを意外に感じた。
「人類が初めて月に降り立ったのが、あの場所だ」
月の薄暗いところにあるその場所に、拓海はじっと目を向けた。
「…真夜中に昇る月を見ると、願い事が叶うって言いますよね」
「そうなのか?」
拓海の目に映る月の形は、満月になるには少し欠けた歪な月。
「昔、ああいう形の月を見ながら、母親からそんな事を聞いた気がします」
「……へぇ…」
月に向けていた視線を拓海に戻したあの人の目には、もうさっきまでの子供のような輝きはなかった。
「藤原だったら何を願う?」
「…俺…だったら…」
拓海は月を見つめた。
真白の月。淡い光を放つ月を、拓海はじっと見つめそして俯いた。言葉に出せない願い事だったから。
彼は、そんな拓海の様子をしばらく見ていたが、フッと嘲笑うように鼻で笑い目を逸らした。
「…どうでもいい事だけどな」
乱暴に手を捕まれる。
「来いよ」
引きずられ、人気の無いトイレの裏の汚れた壁に手を着いて、立ったまま背後から解されもせず後ろに彼の熱を突き入れられた。
「…もっと、緩めろよ…」
ギシギシと軋む自分の体。痛みを覚える揺すられる場所。
「……っ…う…」
唇を噛み、必至に声を殺した。
ぐい、と彼の抜き差しが激しくなった。拓海の髪を掴み、そして耳元に拓海の内で動く熱い強張りとは正反対の冷たい氷のような言葉を注ぎ込む。
「…緩めろって言ってるだろう」
掻き回すような彼の動きに、堪えきれず拓海は細い漏れるような吐息を零した。
涙が零れるのは生理的な反応だ。
自分は悲しくない。
悲しいはずなんてないのだから。
「内が動いてる…こんなのがいいのか?淫乱だな…」
結合した部分から、いやらしい水音とともに溢れる粘液と真っ赤な血。
痛くはない。
ふと横目に映る真っ暗な夜空に輝く月。
激しく揺さぶられながら、赤い血を流しながら、拓海は微笑んだ。
『“静かの海”と言うんだ』
子供のような彼の顔。そして声。
幸せだ。
そう胸の中で自分に言い聞かせた。
大好きな人に抱かれて、幸せじゃないはずがないじゃないか。
だから悲しいなんて思わない。
幸せだ。
きっと。
幸せなはずなのだ。
夜空の月に願うこと。
それは―――。
不器用なのだと、拓海は自分の性格を把握している。
素直に感情を表すことが出来ず、溜め込み、そして爆発する。
学生時代からそうだった。色々なものを溜め込み、そしていきなりキれる。
自分のそんな傾向を十分に理解し、成人を超えた当たりからそんな事も無くなってきたのだと思っていたが、培われたそんな自分の性質は、一長一短で修正できるものではないのかも知れない。
だから、今こんな事になっているのだろう。
それを見た瞬間、拓海はやけに冷静な頭のまま、そんな事を思った。
「…拓海?どうした?今、シーズン中だろう?」
予感も、予想はしていたことだった。
だから動揺はしていない。
ただ、思い通りにならない自分の心が、真っ暗に染まっただけだ。
満足に映さなくなった目であったはずなのに、それはやけにはっきりと見えた。
安眠に効果があるのだと言っていた、深い青で統一されたベッドの上のシーツに包まる二つの体。
そのシーツから零れた剥き出しの白い肌が、フットライトの光だけが照らす部屋の中で、やけに鮮やかで目に付いた。
色んなものがガラガラ壊れていく音が聞こえる。
自分を崩し、もう戻せないほどに。
けれど、こうなることを知っていて、この扉を開いたのは自分だ。
「…勝手に入ってすみません」
頭を下げた。ベッドの中の二人に向かって。
「お邪魔みたいなので帰ります。失礼しました」
玄関の靴箱の上に、使い慣れたこの部屋の合鍵を置き、扉を閉める。
引き止める言葉も、追いかける言葉もなかった。
彼の部屋があるマンションをの敷地内を出て、星が瞬く夜空を見上げる。
夜空の中心に輝いているはずの月は、今日は新月で頼りない姿しか拓海に見せなかった。
昔、あの時に願いを込めた欠けた月は見えない。
「…ああ、これじゃ願い事は出来ないな」
あの頃の願い事でさえ叶っていないのに、まだ願おうとする自分がおかしく、拓海は夜道を歩きながら微かに笑った。
月は好きだ。
あのどこか寂しそうで、でも美しく輝く姿が、あの人に似ているから。
あの夜に見たほんのり欠けた白い月。
目を閉じれば、あの人の顔と一緒に、願いをかけた真白の月が浮かぶ。
「きれいだな…」
あのきれいな姿に憧れた。
そして恋をした。
腕を空に高く上げ、手のひらを薄く細い形の月に伸ばす。
あの月に、手が届くように。
壊れかけの目には、拓海の手が月に届いているかのように見えた。
だが。
手を下ろしたその先の月は変わらず遠いままで、拓海はそれが錯覚でしかないのを思い知らされる。
涼介もそれと同じで。
――触れ合っていた。
そう思っていたのは拓海の錯覚。
暗い夜空。
真白の月。
遠くから眺めているだけなら良かった。
手を伸ばさなければ良かった。
そしたら、そんな想いもしなくて済んだのに。
いつでも。
いつだって、あの月に祈る言葉は変わらない。
だけど―――。
願いは、いつだって空しく、自分の心の中に降り積もる。