詰ることもせず去った背中。
初めて会った時よりも体つきや顔つきは男らしく、しっかりとしたものになったが、瞳だけは最初に会った時から変わらない。
ぼんやりとした、それでいて芯を秘めた純粋で強い眼差し。
六年だ。
それだけの時間が経過して、それなりに社会に揉まれたと言うのにあの瞳は汚れることが無い。
恋人の浮気を目撃した、今の瞬間まで。
「…やる気が失せた。悪いが帰ってくれないか?」
身体を離し、服を着始めた涼介に、さっきまで熱い息を吐いていた女は呆れたような溜息をついた。
「そうね。まずいトコ見られちゃったみたいだし」
起き上がり、散らばっていた服を身に着け始める。
「あれでしょ。あなたの本命って。追いかけなくていいの?」
五月蝿い女だ。そう思った。
身体だけの関係の女。
何もそんな関係の女は彼女だけじゃない。ただ彼女が一番付き合いが長く、そして便利な女でもあった。
だが付き合いが長い分、知られたくない事も知っている。
「…俺はホモじゃねぇよ」
吐き捨てるように言った。それは真実だ。ただ…。
「でも好きなんでしょ。あの子のこと?」
その言葉には答えなかった。だが沈黙は肯定にもなる。
「小さな子供みたい。愛情を試して、愛されてるのを確かめたがってる」
「うるせぇよ」
彼女の最後に残った服を投げ捨てる。
「さっさと帰れ!」
女は婀娜に笑った。
「素直にならないと大事なものを失くしちゃうわよ?」
ひらひらと手を振って、女は部屋を出て行った。
残されたのは涼介一人。
女の言葉は正解のようであって、真実ではない。
涼介はベッドサイドに置いた煙草に手を伸ばし、口に咥え火を付けた。学生時代はそう吸うことも無かったが、医者になってから確実に吸う量は増えた。苛々とした心を静めるために、これは必要悪なのだと理解している。
出て行った背中。
何も言わない拓海。目はずっと純粋なままに、どんどん世間に揉まれていく涼介を非難しているようだ。
拓海は変わらない。
変わらなすぎるのが、涼介には怖い。
いや、ずっと涼介はあの目が怖かったのだ。
彼に、バトルで負けたあの瞬間から。
随分真っ直ぐに自分を見る奴だと思った。
その彼が、会うたびに自分を見て頬を染める。
『あいつ、アニキのこと好きなんかな?いつも顔赤くしてんじゃん』
真面目な顔でそう言ったのは弟の啓介だ。
『何を馬鹿なことを…』
鼻で笑いながら、涼介の心の奥のほうではその言葉が消えなかった。
会うたびに、眩しいものでも見るかのように自分を見る拓海。
そんな目で見られることに、苦痛を感じるようになったのはいつからだったか。
自分の矮小さなんて、自分が一番良く知っている。
そんな目で見られるほど自分は立派な人間じゃない!そう叫びだしたくなったのはいつからだった?
そんな想いが凝り固まり、とうとう酒の勢いで拓海をレイプした。
そうだ。あれは紛れも無くレイプだったはずだ。
なのに拓海は抵抗どころか、あの真っ直ぐな眼差しを柔らかなものに変えて、そして何もかも壊れる寸前だった涼介をまるで包み込むように抱きしめ返してきた。
あの時に。
怖いと思った。
例えようも無く怖かった。
まるで底無しの沼に落ちていくみたいだった。
目の前の純粋な眼差し。
その目を粉々に壊して、そして踏みつけたら気分は晴れるのだろうか?
あの頃、そんな思いから何度も拓海に対し無茶をした。
けれど彼は…全てを受け止めた。
そしていつまでも変わらないあの眼差しで、涼介を包んでくれた。
最初は苛立ちしか感じなかったあの目に、安らぎを求めるようになってきたのは、彼を抱くようになってすぐの事だった。
だがそれでも最初はそんな自分に抵抗して足掻いていたのだが、どんどん愛おしいと思う気持ちは抑えきれず、触れる手は優しくなっていき、表情や口からは彼への愛情を語らせた。
いつだったか…。
達した後、彼の身体を抱きしめて、何度も名前を呼んでやった時に、彼は子供のように声を上げて泣いた。
その時。
涼介は今まで自分がひどいことをしてきたのだと悟った。そしてあの時、確かに涼介は拓海を大事にしたい、そう思ったはずなのに…。
「なのに…今は何やってるんだろうな…」
歯車が狂い始めたのはいつからだ?
研修医として歩み始め、忙しさと現実と理想のギャップ。どうしようもない苛立ちの日々の中、伝え聞く拓海の活躍。
この世の穢れにも、苦難にも負けない純粋な眼差しのまま、どんどん頂点へと上がって行く彼。
それに比べて自分は、無力を呪い、派閥に揉まれ自分を殺し、媚びへつらって生きている。
だんだん薄汚れていく自分に比べ、華やかな世界で光のように輝いていく彼に、涼介は嫉妬した。
好きだ、と言う感情はある。
だがそれと同じくらいに憎らしい気持ちも抱えていた。
そんな相反する感情に悩まされている時に、涼介は昔の恋人であった女に出会った。
結婚はしたが、うまくいっていないと言う女。涼介は彼女とその日セックスをした。
二人でお互いの心のうちの澱みを出し合い、久しぶりに心が軽くなるのを感じた。
それからも涼介は何度も色んな女と関係を持った。
女とセックスすることで、拓海を裏切っている。その感情こそが、拓海への嫉妬心を忘れさせた。裏切っているからこそ拓海にも優しくなれた。今吸っているこの煙草と同じだ。必要悪だったのだ。そう思う。
だが拓海がその裏切りを知った事に、涼介が気付いたのはもう三年前のこと。
マンションに女を連れ込み、その後始末もせず忙しさにかまけ、部屋の掃除もせずに放置していたことがあった。そんな時期に、拓海はシーズンオフで帰郷した。
あの時、帰宅した涼介の目には拓海は迷子の子供に見えた。
だが。
涼介には拓海を手放す気はなかった。
だから。
何も気付いていない振りで、大げさに拓海に祝いの言葉を告げて、そして激しく抱いた。
拓海は何も言わなかった。
それを望んでいたはずなのに、それが涼介には気に入らなかった。
愛情を試す…その通りなのかも知れない。
その後、涼介は拓海にわざと分かるように、女との浮気の痕跡を残した。
女を抱いた、移り香の残る身体、そのままで拓海を抱いたことさえあった。
だが彼は何も言わない。
あの、変わらない眼差しに、ほんの少し寂しさの色は見えたが、だがそれだけだった。
そしてそんな事が続いて今日。
現場を目撃したというのに、拓海は詰ることさえせず、部屋を去った。
『素直にならないと大事なものを失くしちゃうわよ?』
去り際に、置いていった女の言葉が胸に刺さる。
もうとっくに、拓海の心など自分には無かったのかも知れない。
自分みたいな最低な男、見捨ててしまえ、そう心の中で呟きながら、あの眼差しを失った自分を想像する。
どうなるんだろう?
まるで月明かりのない闇夜。
何故こうなってしまったんだろう?
何度も何度も自分に問いかける。
泣けば良かったんだ。
泣いて、喚いて、俺を詰ればそれで良かった。
それさえも拓海はしなかった。
―――大切にしたい。
そう思ったあの心は、今でも自分の胸の中にあるのに。
今も昔も自分は同じ。
彼を傷つけることしか出来ない。
マナーモードに切り替えた携帯がひっきりなしに震える。
液晶の画面を見て、拓海は溜息を吐いた。
まだ、望みを捨てていない自分を知り。
着信の相手の名は彼ではない。
彼の弟である啓介だ。
分野は違うが同じレース畑で活躍する彼のことだ。きっとすぐに自分がチームから離脱したことを知り、電話してきたのだろう。
彼が今いる場所と、日本との時差を考えると電話には適さない時間だろうに、何度も諦めず電話はかかってくる。
ジクジクとまだ胸が痛む。
今は彼の声を聞きたくない。
彼ら兄弟は似ていないと言われるが、拓海には二人はどこか似ていると思う。何気ない表情だとか、目つきだとか、些細な言葉のイントネーション。啓介といるといつも涼介を思い出した。彼の影に、焦がれる人を思い、『お前本当にアニキに惚れてんだな』と呆れた口調でからかわれる事も多かった。
『…俺はまだ納得したワケじゃねぇけどさ…でも、俺は少なくともお前は嫌いじゃねぇし…だから何かアニキとのことで悩んでんだったら俺には相談しろよ。アニキと付き合ってる限り、他人じゃねぇんだから』
からかいながら、でもそうやって気遣いを見せる。
拓海は曖昧に笑うことしか出来なかった。
今も、きっと啓介は心配しかけてくれているのだろう。
けれど今、彼を思い出す啓介の声を聞き、優しくされなどしたら、やっと持ちこたえている拓海が壊れる。
だから今はまだ―――。
拓海は、震える携帯の電源を切り、そして無造作にポケットの中にしまった。