自分がゲイだと思ったことはないけれど、何故か恋をした相手は同性だった。
相手の名前は高橋涼介。
彼が発起した新チームに誘われ、参加したのは今からもう六年も前のことだ。拓海はまだ18歳だった。
彼に対し恋心を自覚したのは、いつだったかもうはっきりとしない。確実に言えるのは、最初はただ単に憧れだけの感情だったのだ。
彼といると緊張して真っ赤になる。
周囲からは「おかしい」と何度も言われた。自分でもそう思っていたが、あの頃はまだ尊敬だけで、恋ではなかったはずだ。
指導者とドライバー。その関係が崩れたのは、何でもない一夜。
彼が乱暴な手つきで自分を女のように抱いた。
涼介はひどく酔っていた。
「いつも俺を見て顔を赤くする。俺に気があるんだろう?」
酒臭い息で、嘲笑するように言った涼介は、いつもの冷静で寡黙な態度が嘘のような下卑たものだった。けれど、だからこそ拓海はそれが涼介の本音なのだと知った。
あの時、もし自分が抵抗していたなら、今の事態は変わっていただろうか?
そんな事をふと思う時がある。
けれど拓海は、どれだけ時間を引き戻しても、あの時と同じ行動をするだろう自分を知っている。
酒に溺れ、自分を辱めるあの人が本当に疲れて見えて、この手を拒絶したら脆く崩れそうに感じたから。
――慰めてあげたい。
そう思ったのが最初だ。
中心をきつく握られ、おざなりに解した後ろに熱塊を突き入れられた。流れ出る血と、裂ける肉の音。
上から圧し掛かった涼介の体は重く、そして硬く、苛立ちにしかめた顔からは疲労の色が濃く見えていた。
そっと、その体を抱きしめ返すと、涼介の体に震えが走った。汗まみれのその顔には驚愕の色が貼り付けられ、だがすぐに憤怒の色へと塗り替えられた。
肉が裂けて血が溢れ、抑え込まれた手首には涼介の手の跡が残った。
事後、拓海は気を失い、目覚めた時に拓海が見たのは、しわくちゃになった自分の服と、痣だらけの自分の体。そして氷のように表情の無い涼介の顔だった。
涼介は目覚めた拓海に何も言わず服を放り投げ、そして「帰れ」と一言だけ言った。
拓海もまた何も言わなかった。
言う言葉を持っていなかった。
それが自分と涼介の始まり。
何も言わない関係は、やがて暗黙の了解のように体の関係を作らせた。
プラクティスの合間に。または急に呼び出され体を繋げさせられる。
拓海が自分の恋心に気付いたのは、そんな一夜を繰り返した何でもない日のことだった。
抱かれ、彼に無理やり揺さぶられ、快楽とともに歓喜の心が湧いた。
好きだ。
この自分を痛めつけることしか出来ないこの人が好きだ。そう思った。
けれどその恋心は一方通行。
涼介が自分を好きではなかった事を拓海は知っていた。
あのころ。
涼介が自分に恋愛感情を抱き、手を出したのではないことを拓海は理解していた。唯一彼に勝った男。その存在が自分。
彼は心密かに自分を屈服させたかったのだろうと拓海は思っている。
それは何度も肌を合わすうちに感じたことだ。
涼介のセックスは自分本位で、決して優しいものとは言えなかった。
いきなり彼の萎えたペニスを咥えさせられ、前戯も何もなく突っ込まれる。そんな事が何度もあった。それ以外でも、拓海にだけ恥ずかしい格好をさせ、嘲笑いながら焦らされ挿入される。
拓海は涼介以外の肌を知らない。
けれど、涼介のセックスが愛し合った恋人同士のセックスと言うには程遠いことぐらいは分かる。
それを悲しいとは思わなかった。
それで、自分は構わなかった。
それで涼介が救われるなら、それで良かったのだ。
けれど、そんな関係を変えたのは涼介のほうだった。
だんだん、乱暴だった手つきが優しくなり、拓海の内で痙攣しながら射精することも多くなった。射精の瞬間、拓海の身体を抱きしめ、何度も何度も愛おしそうに自分の名を呼ぶ。その声に拓海は声を上げて泣いた。
彼が始めた新チームプロジェクトDの活動が終わる頃には、自分たちは確かに恋人同士と呼ばれる関係にあったのだと拓海は思っている。
終了間際。プロから誘いを受けている拓海の背中を押したのは涼介だ。
「行って来い。俺はずっとここでお前の活躍を見ているから」
最初の頃には考えられなかった柔らかな笑顔。
その笑顔に励まされ、拓海はプロの道へ進んだ。そして涼介も、研修医へと医者の道への歩み始めた頃だった。
あの頃は良かった。
そんな言葉が出てくることが、今は幸せではない証拠なのだろう。
実際に拓海はそうだ。
あの頃は紛れもなく自分は幸せだった。
けど今は――…。
歯車が狂い始めたのはいつからだった?
遠距離恋愛で駄目になった恋人たちの話を、ドラマや映画、日常の中でも溢れるほどによく聞いた。
自分だけは大丈夫だなんて、そんなふうに思ったことはない。
けれど。
遠く離れることで、愛情も離れていくだなんて、実感したくはなかった。
最初の切欠は何だっただろう?
最初はほぼ毎日メールをやり取りしていた。
だが日が経つにつれ、一週間に2,3回になり、やがて一週間に一回、一ヶ月に一回。そして今では三ヶ月に一回あればいいほうだ。
メールを送っても「今忙しい」そんな返事ばかりが返ってくる。やがて拓海は自分も送ることを止めた。
会えるのは半年に一度か二度。
セックスは会うたびに必ずする。
彼が自分の身体をむさぼるように抱いていたのは離れた最初の頃だけだ。
最近では最中でも電話がかかって来ると、放って置かれることも多くなった。
決定的だったのは、彼が他の誰かを抱いているのだろう痕跡を見つけた時だった。
あれは今から三年前のこと。
拓海は涼介から、彼が住むマンションの部屋の合鍵を貰っていた。
いつものように遠征先から帰郷して、真っ直ぐに彼の部屋へと向かう。
涼介はまだ仕事中で帰宅してはいなかった。
散らかった部屋。仕事が忙しいという言葉通りに、まるで過去の彼の弟のように部屋は荒れていた。
彼のそんな何気ない日常が愛おしく、拓海はせめて彼の為になるならと部屋の片づけを始めた。
そして見付けた。
ベッドのマットレスの下の女物のピアス。ゴミ箱の中の使用済みのコンドーム。
世界が、凍ったような気がした。
だけど、ずっと自分はこうなる事を知っていたんじゃないか?そうも思った。
離れた間に、彼がずっと自分の事だけを思っていてくれているだろうなんて自惚れた事はない。
いつか自分なんかには飽きて、他の人のところへ行くだろう。そんな覚悟は付き合い始めた最初から抱いていた。
だけど現実にこうして目の前に出されると、拓海はどうして良いのか分からなかった。
涼介から離れた自分。
それを想像しただけで、足元が崩れて真っ逆さまに落ちていくような気がした。
だが混乱し、呆然とする拓海を、帰宅した涼介は笑顔で自分の帰郷と仕事での活躍を祝った。そしてそのまま離れていた時間を埋めるように激しく抱かれた。
拓海は泣いた。
そして心の中で何度も呟いた。
――俺は何も見なかった…。
何度も。何度も。
その後も涼介の誰かと情事の痕跡は見られるようになった。携帯の履歴。部屋の中の落し物。さらにひどいのは、他の女を抱いたすぐに、自分を抱いた夜もあった事。
女の香水の移り香のする身体で、背中に爪あとを残した身体で、拓海を抱いた。
――俺は何も見なかった…。
拓海はそのたび何度も何度も呟いた。
だから。
だから今、こうなってしまったんだろう。
チームのホームドクターから言われた言葉が耳に蘇る。
『残念だけど、君の目は今、全く正常に機能していない』
その言葉を聞いた時、拓海は素直に頷いた。
拓海の目は今、色彩が全て失われ、そして片目に至っては全く見えなくなってしまっていた。
自分の目がおかしいことには暫く前から気付いていた。
あの移り香が残る彼に抱かれた翌朝、拓海の目は色を失った。
そして徐々に色彩のない目は視力さえも失わさせ、とうとう左の目が暗闇になったのは昨日の事だ。
『原因は不明…心因的なものだと思う。その様子だと、心当たりがありそうだな』
拓海は彼の言葉に、「すみません」とだけ返した。その頑なに心を閉ざす拓海に、ドクターは諦めの溜息を吐いた。
『監督には俺から言うか?』
拓海は首を横に振った。
もう中年の域に差し掛かってきた、と快活に笑う拓海よりも遥かに年上な医者は、お人好しそうな顔を痛ましそうに歪め、拓海の頭を小さな子供のように撫でた。
『まだ若いんだから、一人で悩んでるなよ?』
相談できる人は一人だけいた。けれど、その人は今、一番相談できない人になってしまった。
監督には自分から言った。自分の父と同じくらいの年配の恰幅の良い彼は、拓海をクビにはしなかった。拓海の成績は年々上がってきていて、来年こそ頂点を目指せるかと言うところまで来ていた。その一番好調な時期での自分の離脱。拓海はクビを覚悟していたのだが、彼は拓海の頭をドクターと同じように、しかし彼よりも乱暴に撫で、
『目が治ったら戻って来い』
そしてこうも言った。
『今のお前は、迷子の子供のような顔になっている』
自分では分からない。
鏡の前の自分の顔は、いつも見慣れた自分のものでしかない。
チームから離れる時、拓海は泣いた。
皆は優しい。
けれど。
拓海が一番優しくしてほしい人ではなかったから。
中途半端な目だと思う。
見えなくなるなら、全部見えなくなってしまえばいいのに。
だから、あんなものを見てしまった。
チームを離れ、拓海が向かったのは涼介のところ。
合鍵で彼の部屋に入り、そして玄関の靴を見たときに、あのまま引き帰しておけば良かった。だが拓海は見たかったのだとも思う。
自分を壊す、決定打を。
玄関には二人分の靴が並び。
そして彼のベッドには、知らない裸の女と、裸の彼が睦みあっていた。
「…拓海。どうした?今、シーズン中だろう?」
彼は焦っていなかった。女のほうは恥ずかしがり、シーツの中に消えたが、彼の態度はいつものように冷静なままで、拓海はまだ彼が焦って、自分に言い訳してくれたなら救われたのになと、やけに静かなままの心で思った。
「…勝手に入ってすみません」
頭を下げた。ベッドの中の二人に向かって。
「お邪魔みたいなので帰ります。失礼しました」
本当なら、泣き喚いて、涼介を詰ってもいいのだろう。だけど本当に今の自分に、その資格があるのか?拓海は思った。
何もかも。
自分の信じていたもの。すべてこの瞬間に壊れたなと感じた。
足先から、指先から、すべての感覚が失せ、そして冷たい氷の世界に支配されてゆく。
心の中でさえも同じ。
涙も出ない。
悲しいとも思わない。
ただ、来るべき日が来たのか。そんな事を考えた。
監督に言われた「迷子のよう」。今の自分は本当の迷子になってしまった。
何をしているんだろう?
何でこんなところにいるんだろう?
自分は何がしたかった?
何も分からない。
何も見たくない。
いっそのこと、このまま世界が消えてしまえばいいのに。
涼介は追っても来なかった。
電話もない。
それが涼介の答え。
ただ、馬鹿みたいに自分がいつまでも信じていただけ。
ただそれだけの事だったのだ。