いつもここに来る時は夜だった。
ここには優しい思い出が無い。
エンジンブローしたのはここだし、プラクティスの合間に涼介に手荒く扱われていたのもここだった。
だけど、拓海は赤城が好きだった。
涼介がホームグラウンドにしていたと言うだけで。
そこかしこに、彼の名残が残っているようで。
昼間に見る峠は、夜とは違った姿を見せる。それがたとえモノクロしか映さない、おぼつかない目であっても。
夜にはギャラリーと改造車で埋め尽くしていた駐車場には、観光客の車とタクシー、そして観光用のバスが溢れている。
拓海も今日はバスで来た。
自分で運転しない車に乗るのは久々で、荒い運転に冷や冷やしながら揺られ、観光客と一緒に色々回る。
穏やかな時間。
思えば、デートらしいデートなどしたことなどなく、会えば体を繋ぎ、食事はともにするが、忙しい合間と言うことで二人で昼間にぶらつくことさえなかった。
それに不満などなかった。
ただ一緒にいられるだけで良かった。
でもそれさえ許されず、車で走ることも出来ず、迷子のままただ彷徨っている。
見えない目のせいで、すれ違う観光客にぶつかった。ドンと言う衝撃に、ぼうっとしていた拓海は体制を崩し尻餅をつく。
「あ、ごめんなさい」
謝罪の言葉とともに、手を差し伸べられる。
けれどそれを掴もうにも、片目だけになってしまった拓海の視力は、それの位置さえまともに測れない。
拓海は自力で立ち上がり、頭を下げた。
「…こっちこそ、すみません。ぼうっとしてて…」
何をやっているんだろう、自分は。
赤城に来たのは、理由があってのことではなかった。
ただどこに行っていいのか分からず、捨て犬のように、元の飼い主の臭いがする場所を探して歩いているだけ。
ふらふらと歩きながら、あの白い車がいつも止まっていた場所へと向かう。
いつも彼は同じ位置に停めていた。
だからそれを知る地元の走り屋たちは皆、ここは避けて停めていた。
FCを中心に、メンバーの車が慕うように周りを囲み、そして離れたところにいつもハチロクは停まっていた。
あの距離が、涼介と体を繋いだ後も、変わらず二人の間には残っていた。
一番近くにいるはずなのに、一番遠い。
フラフラと歩きながら、隙間を縫うように連れ込まれたトイレの薄汚れた壁に手をつく。
昼の明るい光の下で見ると、よくこんな不衛生な場所でやっていたものだと感心する。
あの頃は、あらゆる意味で夢中だったのだろう。
拓海は涼介に。
そして涼介は、きっと拓海を貶めるのに。
床に残る点々とした染みの中には、きっとあの時流された拓海の血の跡も残っているだろう。
いつも、彼の行為は手荒だったから。
初めの頃はいつも血を流していた。
やがて、拓海の体が慣れ、そして涼介の拓海を貪る指が優しくなっていった。
『…拓海…拓海…』
拓海の名を呼び、体を抱きしめて。
あの時間はもう戻らない。
拓海は壁に手をつけた。
過去、彼にその体勢で後ろから突き入れられた時のように。
もう彼はいない。
自分は一人。
迷子のまま、どうしていいか分からない自分だけだ。
あの時間は戻らない。
戻らない…。
拓海は、自分に言い聞かせるように何度も何度も呟いた。
拓海がいない。
自分のそばに。
当たり前のように傍にいた存在がもういない。
涼介は無気力のまま、ただ惰性で体を動かした。
義務感から仕事はするが、身の入っていないことをすぐに見咎められ、暫く長期の休暇をとるよう薦められ、涼介はそれに頷いた。
ただ拓海のいない部屋で、彼の残り香を抱きしめ、日々を過ごす。
『……アニキは…悪い意味で藤原に執着しちまってたんだよな…』
涼介の告白を聞いた啓介は、全て語り終わった涼介にそう言った。
その通りだと、涼介は自身を嘲笑った。
『アニキには悪いけど、俺は藤原を探さない。ほうっておくよ。アニキにはもう関わらないほうが、藤原には幸せだと思うから』
…自分に関わらないほうが拓海には幸せ?
『…だから、アニキももう藤原に関わるな。今でも、藤原のことを好きなんだったら。…分かるだろう?』
…そんな事は六年前から知っている。
『…嫌だ…』
だがそんな事が出来るくらいなら、今こんなふうにはなっていない。
泣き言のような涼介の呟きに、思いがけない啓介の怒声が返ってきた。
『嫌じゃねぇんだよ!そうせざるを得ない状況にアイツを追い込んだのは、アニキだろ?!』
『…だが…俺は拓海に…』
『…何だよ。会って、謝って土下座でもすんのかよ?そんで、もう一回やり直してくださいって?そしてアニキはまた同じことを繰り返すのか?』
苛立った啓介の声。弟が、こんなふうに自分に向かい怒りを見せるのは初めてのことだった。
『…もういい加減にしてやれよ。藤原を解放してやれよ。…そんで、アニキも自由になれよ。女と結婚して、子供でも作ってさ、アニキは本当はそんなふうになるはずだったんだよ。今はただ、道を外しちまってるだけでさ…』
そうだ。拓海と出会うまでは、漠然と自分は普通に結婚し、子どもを作って家を継ぐのだと思っていた。
だが拓海に出会い、彼を大切にしたいと思うようになってから、そんな希望は捨てた。
拓海さえいれば良かった。
あの眼差しが自分のそばにあれば、それだけで幸せだったんだ。
『だから…もういいじゃねぇか。忘れてやれよ。そんで、二人とも、幸せになれよ』
幸せ…。
もう、自分は彼に幸せをやれない。
彼の存在も、もう自分を幸せにしない。苛立ちばかりが募り、自分ばかりが醜くなっていく。
啓介の電話に、何と言って切ったのか分からない。ずっと無言のままだったのかも知れない。気付いたときには無音のままの電話を握り締めていた。
拓海のいない未来を涼介は予想した。
適当な居心地の良さそうな女と結婚し、子供を作り、拓海の事を忘れて笑う自分。
そして拓海もまた、自分とは違う、優しい女、または男と一緒に、自分を過去のものにして笑う。
休暇に入って、もう一週間が過ぎている。その間ずっとそんな事を考え続け、拓海の中から自分が消える未来が許せず、物に八つ当たりして投げる。
理性では分かっている。
けれど感情では許せない。
イライラと歩き回ったかと思うと、一歩も動く気力がなく座り込む。
頭がおかしくなったようだ。
ただ、本能に近くなった心の領域が、ただひたすらに拓海を求め続けている。
だから、あれはそんな自分の見せた夢なのだ。
涼介はそう思い込み、目の前に現れた拓海の体を組み敷いた。
涼介に会いに行こうと決意したのは、色々過去を辿り始めて一週間目のことだった。
女々しく彼に縋りたいわけではなかった。
ただ、最後に、ちゃんと自分は彼のことが好きだったと、そう思い出を巡る間に思い始めていた。
思えば、拓海は満足に涼介に気持ちを告白した事が無い。
最初はレイプであったし、その後もなし崩しに関係が始まり、さらにその関係が緩和した後は、言わなくても伝わるだろうと暗黙の了解で言葉を惜しんだ。
どうせ避けられない別れなのだったら、最後にきちんと自分は真剣であったことを伝えよう。そう思った。
一週間前に暗い気持ちのまま歩いた涼介のマンションへの道程。今日はまだ決意したためだろう。すっきりとした気持ちで拓海は歩いた。
とは言っても、日頃から忙しい彼の事だから、行ったとしても会える確立は低い。
合鍵は返したし、そして今の拓海は彼の部屋に勝手に入る資格を持っていない。
会えないなら、会えるまで通うだけだ。
拓海はそんな気持ちで涼介のマンション前のインターフォンを押した。
だが予想に反し、インターフォンから返ってきた涼介の声。
『……誰?』
かつて、こんなぞんざいな口調で応答されたことはない。それに何だか涼介の声がしわがれているように聞こえ、拓海は眉根を寄せた。
『…あの…藤原です…』
『…………』
インターフォンの向こうが、無言になる。
やはり来たのは間違いなのだろうかと思い始めたとき、沈黙が破られた。
『……入って来い』
オートロックが解除される音がして、開いた自動扉を潜り一階に止まったままだったエレベーターに乗る。
すぐにエレベーターは動き、涼介の部屋のある階まで運び、拓海はこの前は失意のままに歩いた行程を緊張感とともに逆に辿る。
見慣れた彼の部屋の黒い扉。扉の横のインターフォンを押すと、名乗るより先に扉は開かれた。
「…拓海」
現れた涼介を見て、拓海は驚いた。
一週間前に見たときは自信に溢れた様子が見受けられたのに、今日の涼介は病気のように面窶れしている。目は落ち窪み、頬は扱け、顎には無精髭が浮いていた。
そして服はいつもきっちりとしている彼とは思えない、薄汚れたシャツとズボン。
目を見張る拓海に、涼介は苦笑しながら顎をしゃくった。
「上がれよ」
後ろに付き歩きながら、また拓海は驚いた。
部屋が、散らかっていると言う表現は正しくない。まるで、台風か何かが来たのかのように、何もかもぐちゃぐちゃに荒れていた。
「…涼介さん…いったい…?」
詮索するつもりは無かったが、あまりにも常の彼らしくない様相に、拓海は思わず尋ねると、涼介はキッチンのテーブルの上に置いたままになっていた飲み残しのビールの缶を取り、一気にそれを煽った。そしてそのまま空になった缶を放り投げる。
「…さあな。いったい俺はどうしちまったんだろうな?」
クスクスと、今度は楽しげに笑い始める。
体を曲げ、まるで発作のように笑う涼介の背を、拓海は撫でた。
「…何か…あったんですか?」
そう尋ねると、ピタリと涼介の笑いが止まった。
そして見上げるように拓海の顔を見つめる。迷子の瞳。この人も迷子なんだ、と拓海は困惑する頭の中でそんな事を感じた。
「…あったさ」
縋るような目。この人はこんな目をしていなかったのに。
「…お前がいなくなった」
端整な目元に涙が浮かぶ。ぎゅっと拓海の腕を掴む指は震えていた。
「…それは…」
呟いた拓海の声も震えていた。
「…判ってるよ。俺が悪い、全部な」
拓海の中に、荒れた様子の涼介と、今の言葉。
それが甘い期待となって広がった。
「だが…俺はどうすれば良かったんだ?…お前を見ているといつもイライラしたよ。目障りでしょうがなかった」
けれど吐き捨てるように続いた言葉に、一瞬湧いた期待は脆くも崩れ去る。
そして拓海は気がついた。
自分の存在が、涼介をずっと苦しめていたことを。
だからあれは裏切りではないのだろう。
涼介の…正当な復讐だ。
あの自信に満ち溢れ、理性的であった人が、こんなにも混迷し、ボロボロになっている。
それらは、どんな形であれ傍にいたいと自分の恋心を優先し、彼を突き放さず受け入れ続けてきた自分の罪だ。
「どうしようも無かったんだ!…なのにお前は何も言わない。女の事も…目の事も」
目…。そうか、啓介に聞いたのだろうか?
拓海は苦笑が浮かんだ。
…医者としての責任感か…。
涼介がこんなに荒れているのは、気付かなかった自分への罪悪感もあるのだろう。
拓海が苦しい時に、裏切りを目の前に突きつけてしまった自分への。
だがそれは拓海が欲しい感情ではない。
後悔は無いのだ。
彼といたとことも。目が見えなくなったことも。
全て自分が招き、望んだことだ。
――俺は何も見なかった…。
そう言い聞かせ、実際に見えなくなってしまっただけの事だ。
拓海は、項垂れる涼介の背中に手を置いた。
いたわるように撫でると、彼の体の震えが止まる。
そして顔を上げ、濁った目を拓海に向けた。
…終わりにしなければいけない。
そう思った。
涼介のために。
これ以上、彼を苦しめないために。
「…俺は涼介さんが好きでした」
自分が微笑んでいる自覚はなかったが、彼の目の中に映る自分の顔は笑みを浮かべていた。
「だから…もういいです」
涼介の顔がくしゃりと歪む。
泣く寸前の子供のように。
「…別れましょうか」
そう言ったのは、自分の精一杯の強がりだった。