高橋涼介の恋人

act.5



 咽喉が渇いて目が覚めた。
 何か飲もうと、身じろぎした瞬間、身体の中心に鈍痛が走った。
「いって…ぇ…」
 思わず、呟いた声も掠れている。
 何でだろう?と考えたのは一瞬で、すぐに意識を無くす前の光景が頭の中に蘇る。
 一気に顔が真っ赤になって、羞恥心が蘇る。
 勢い良く布団を被って顔を隠す。
 ――俺、涼介さんとしちゃったんだ…。
 ずっと望んでいた。
 涼介の一番になること。
 あんな事をしたんだ。
 きっと涼介は自分を一番だと思ってくれている。
 そっと布団から顔を出し、周りを見回す。
 まだ拓海は涼介の部屋のベッドに寝ており、そしてどうやら身体は拭かれたかしたらしい。ベタついた感じもなく、真新しいパジャマに着替えさせられている。
 けれど部屋に涼介はいなかった。
 しんとした空気だけが広がっている。
「涼介、さん?」
 名を呼んでも応えは無い。
 無性に寂しくて、痛みを押し殺し、拓海は身体を起こしてベッドを降りた。
 そしてふらつく足取りで部屋を出る。
「涼介さん?どこ??」
 廊下に出ても人の気配は無かった。
 よろめきながら階段を降り、リビングへ向かう。
 灯が点いていた。
 涼介がいるに違いない。
 嬉しくて、そのドアに手をかけようとした瞬間、声が聞こえた。

「拓海に手を出したのは過ちだと思っている」
 
 そう言ったのは誰か。
 声だけですぐに分かった。
 幸せでいっぱいだった身体から、一気に幸せが消えて悲しみが足元からジワジワと侵食してくる。
「分かってんだったら、何で手なんか出したんだよ!」
 激昂した啓介の声が聞こえた。
 怒っているらしい。涼介を相手に。
 心臓がドクドクと戦慄いた。
 ブルブルと手足が震えて、立っているのもやっとだ。
 身体の痛みは消えた。
 胸がキュウッと絞られるように苦しい。
「はずみだと、そう思っている」
 ――はずみ。
 はずみって何だろう。
 どう言う意味?
 俺は「はずみ」なんだ…。
 言葉が徐々に拓海の中に浸透し、そして完全に理解した瞬間、拓海は自分を保つことを止めた。
 足がクラリと力を失い、床の上に音を立てて崩れ落ちた。
 瞳からは涙が滝のように溢れ、子供のように口からは引っ切り無しに嗚咽が漏れる。
「拓海?!」
「拓海か?!」
 バタンと目の前でリビングの扉が開いた。
 潤んだ視界に見えるのは、ぼやけた涼介と啓介の姿だけだった。
 声も出ない。
 考えることも出来ない。
 壊れた人形のように、拓海はうずくまりながら涙を流した。



 涼介さんが好き。
 ただそれだけのことなのに。
 どうしてそれが許されないような事ばかりなのか?
 やっと手に入ったと思った涼介は、やっぱり遠い存在のままで、一度手の中に掴んだからこそ悲しみが深かった。
「拓海、お前、聞いて…」
 啓介が呆然と泣く拓海を見下ろしている。
 そして涼介は、啓介の背後から驚愕の表情で固まっている。
 けれど、拓海が涼介に視線を合わせた瞬間、ハッとしたように固まりが解け、気まずそうに視線を外した。
 ――何で何で何で?!
 混乱する頭が、その言葉ばかりを繰り返す。
 そして突然湧いたのは怒りだ。
 視線を外す涼介。
 それが許せない。
 涼介が嫌がっても、涼介はもう拓海のものなのだ。
「涼介さんのバカ!!」
 大きな声だった。
 泣きながら、涼介を睨む。
 驚いたように涼介の視線がまた拓海に戻る。
 戸惑えばいい。もっと、拓海のせいで感情を乱せばいいのだ。
「は、はずみって何だよ!ふざけんな!!」
 願うのは一つだけ。
「お、俺は……」
 涼介の一番が拓海でありますように。
「俺は…涼介さんが好きなのに…」
 ブワッとまた涙が溢れ、嗚咽が漏れ始める。
「だから…う、嬉しかった、のに…」
 うぅ、と呻いて涙を零す。
「…拓海」
 視界に影が入り、見上げると涼介が傍にいる。
 ほんの少し、嬉しそうに、けれど困った顔で拓海を見つめている。
 悔しくて、拳を振り上げ殴ろうとしたら、その手を取られて抱き締められた。
 感じる体温。彼の匂い。
 その心地よさを一度知ってしまった身体が、勝手にうっとりしようとする。
 それがまた悔しくて、腕の中で暴れて振り払おうとすれば、許さないとばかりに涼介の腕の力が強まった。
 苦しいくらいに、抱き締められる。
「ごめん」
 悔しい。
「あ、謝っても…!」
 嬉しかったって言ってるのに、謝られればまるでそれが過ちのようだ。
 そんなの悲しい。
 涙をびっしり滲ませた瞳を眇め、涼介を睨むと、この上なく嬉しそうに微笑む涼介がいた。
 それに虚を衝かれ、拓海の抵抗する力が止まる。
「俺が好きか、拓海?」
 嬉しそうに、涼介が拓海に問いかける。
 そんなの今更だ。
 悔しくて、ぷいとそっぽを向いた。
「…知らない」
 けれど涼介は構わず、フフフと声を漏らし微笑み、さらに問う。
「お前は俺のものか、拓海?」
 決まってる。
 十年前から、拓海はずっと涼介のものなのに。
「…し、知らないって、言ってる!」
 涙が滲む目を隠すように俯いた。
 顔を上げれば、涙がきっと零れ落ちてしまう。
 そんなのは惨めすぎる。
 けれど、拓海のそんな反応に答えを得たのか、涼介はさらに拓海を抱き締め、その柔らかな髪に頬ずりをした。
「ああ、ああ」
 涼介らしからぬ、浮かれた感嘆の声を上げ。
「拓海」
 そして、
「拓海」
 何度も拓海の名を呼び、目に、頬に、耳に、顔いっぱいに啄ばむようなキスを降らせる。
 その激しさに、思わず拓海は顔を上げ、涼介の顔を見返した。
 そこに見えたのは満面の笑顔。
 嬉しそうに、まるで蕩けそうなほどに甘い恋情を眼差しに湛えた涼介がいた。
 びっくりしてキョトンとしていると、その唇にキスが降る。
 柔らかな感触を楽しむように吸付き、音を立てて離れていく。
 さっきセックスまでしたと言うのに、そんな可愛らしいキスがやけに照れくさくて恥ずかしかった。
 拓海が可愛くて仕方が無いと、そう代弁するかのようなキスだったから。
 カァと一気に頬が熱くなる。
「俺が好きだよな、拓海!」
 そしてまたキス。
「俺のものだよな、拓海!」
 可愛い、可愛いと涼介のすべてが拓海に伝える。
「たとえお前が俺を好きでなくても」
 だから、もう分かった。
「俺はお前が好きだよ」
 涼介が拓海をどう思っているかなんて。
「たとえお前が俺のものでなくても」
 ジワジワと嬉しさが胸に込み上げる。
「俺はお前のものだよ」
 笑顔の涼介と同じように、拓海もまた笑顔になりかける。
 けれど、すぐに思い直して顔を引き締める。
 わざとふてくされた表情を作り、そっぽを向いた。
「…はずみって言ったくせに」
 けれど涼介には、もう拓海のそんな演技は分かっているのだろう。
 そっぽを向いた頬に、キスが降る。
「ああ。お前が18になるまで待つつもりだった。なのに…嫉妬に駆られてお前に手を出してしまった。はずみと言えば、はずみだろう?」
「嫉妬って…?」
 どう言う意味だろう。
 不思議に思って聞き返すと、涼介の顔にまた不機嫌が戻る。
「…付き合ってたんだろう、女と」
 それで思い出した。そう言えばそんな事もあったかも知れない。
「付き合ってたって言うか…友達でいいからって言うから…」
「じゃあ、何で相手の男を殴ったんだ?」
 嘘は許さないとばかりに、さっきまでの柔らかさが消えた厳しい目付きで追求する。
 なぜ殴ったか。
 そう問われると、一言で言い切れないほど複雑だけど、結局は…。
「涼介さんのせい」
「…俺?」
 拓海はコクンと頷いた。
「涼介さんが俺に冷たくするから、だからムカついたんだ」
 きつさが消えて、また眼差しに柔らかさが戻る。
「俺のせい?俺のせいで、関係のない男を殴ったって言うのか?」
 拓海は頷いた。
「あいつら、いい加減なんだもん。涼介さんもいい加減じゃん。だからムカついたんだ」
 まるで暗号のような拓海の言葉を、けれど涼介はしっかりと理解した。
「俺がいい加減?心外だな。どうしてそう思ったんだ?」
 むぅ、と唇を尖らせる。涼介の笑みが深くなった。
「だって…約束破った」
「約束?」
 キッと拓海は涼介を睨んだ。
「俺のこと、恋人だって言ったのに!他の人を恋人にした!!」
 胸に顔を埋めると、あの時香った匂いが鼻腔に蘇る。
 世界一嫌いな匂いだ。
 あんな匂い、この世から無くなってしまえばいい。
「涼介さんは俺のものなのに」
 ギュウギュウと、拓海のほうからも涼介を抱き締める。
 今は涼介からは彼の匂いしかしない。
 そして今度は、自分の匂いを擦りつける様に身体にしがみ付く。
 頭上から涼介の笑い声が降ってくる。
「俺は拓海のものだよ」
「嘘だ」
「俺の恋人は十年前から拓海ただ一人だ。他になんていない」
「嘘吐き」
「…困ったな。どうしたら信じてくれる?」
 そっと頬を撫でられ、顔を上げる。
 信じたいのは拓海も同じだ。
 だけど。
「だって…匂いしたよ。涼介さんから。女の人の匂い」
 ああ、そんな事。
 クスクスと涼介が笑う。
「あのな、拓海。職場には女なんて山ほどいるんだぞ。そんな彼女たちの匂いが移ったからって、どうしてそれが彼女になるんだ?」
 何も知らないと思って!
「…ちょっと一緒にいたぐらいじゃ移らないもんなんだよ。匂いって」
 現に、こうやって一生懸命こすり付けてるのに、一向に拓海の匂いは涼介に移らない。
 だから今の拓海よりもずっと、もっち近くに涼介の傍にいたに違いない。
「…どう説明しようかな?」
「騙そうとしてる」
 違うって、と拓海の鼻を摘む。
「こんな事を自分で言うのも何だけどな。俺はモテるんだよ」
 そんな事、嫌って言うほど知ってる。
 じわっと目に滲んだ涙を、涼介が慌てて拭った。
「バカ、違うよ。だからさ、職場の飲み会なんかがあると、彼女たちは香水をこう…頭から振りまいたみたいにキツくしてさ。近寄ってくるんだ」
 頭から振りまく。
 そんなジェスチャーをしながら、悪戯っぽく笑いながら拓海に説明をする。
 その涼介の仕草がおかしくて、ちょっとだけ笑うと、涼介が安心したようにまた微笑んだ。
「だから、どうしても飲み会の後とかは彼女たちの香水が移ってしまうことがあるんだ。つまりはそれだけだから、安心していいよ」
 ニコリと微笑まれ、同じように微笑み返しかけて、けれど気付く。
 また唇を尖らせ、そっぽを向く。
「じゃ、じゃあさ。何で中学に入った途端、俺に冷たくしたの?」
 そうだ。中学に入ったら、いきなり態度がよそよそしくなった。 
 部屋にも入れてくれなくなったし、一緒にいることさえ拒んでいたのに。
「それ…か」
 初めて涼介の言葉が淀む。
 不安になって、縋るように涼介を見上げると、そんな拓海に苦笑しながら、涼介は安心させるように拓海の頭を撫でた。
「…軽蔑するなよ?俺は…お前より10歳も上の大人なんだよ」
 子供扱いをしている。
 悔しくて睨むと、
「子供じゃないから厄介なんだ」
 と、苦々しく呟かれ、尖った拓海の唇を指先でなぞった。
 触れるか触れないか。
 そんな微妙な感触の指に、ゾクリと背中に悪寒めいたものが走る。
 瞼がうっとりと下がり、尖っていたはずの唇はうっすら開き、白い歯を覗かせる。
「それだよ」
 それって何?
「そんな、色っぽい顔を見せる恋人が傍にいて、襲いたくないと思う男がいるはずないだろう?」
 言葉の意味を理解した途端、カァっと全身が熱くなる。
「い、色っぽいって、そんな…」
「小学校の頃はまだ良かったんだよな。子供だって意識があったから。けど、中学に入って、お前、俺の事を名前で呼ぶようになっただろう?身長も伸びて、そこらの女の子ぐらいにまで大きくなられると…こう、我慢がさ」
 ドキドキと、心臓が激しく鳴り始める。
「涼介さん…俺がそんな小さい頃から?」
「悪いか。俺はお前にベタ惚れなんだよ」
 照れたように笑う涼介が、可愛いと思った。
 嬉しくて拓海も笑顔になる。
「そうやって、俺は拓海が大人になるまで頑張って我慢してたのにさ、勝手に彼女なんて作りやがって…」
 ブツブツと呟き始めた涼介に、拓海の顔から笑顔が零れる。
 そうか。だからあんなに怒っていたんだ。
「手も繋いでないよ?」
 拓海の言葉に、涼介がハッとしたように振り向いた。
「キスもか?」
「うん。涼介さん以外となんて嫌だから」
 誇らしげに答えると、けれど大人な彼はまだ疑わしそうに拓海を見つめる。
「まさか…キスはしてないけど、それ以上は…なんて…」
「Hのこと?」
 はっきりとそう言うと、涼介の切れ長の目が見開いた。
「したのか?!」
 大人って…本当にもう。
「するわけないじゃん。キスもしてないのに、どうやってそれ以上に進めるの??」
 まずキスをしてH。
 拓海の頭にはそうある。
 だから飛び越えて進むというのは不思議だった。
「キスしてないのにHって出来るの??」
 心底不思議で、涼介にそう問うと、やっと安心した彼はニッコリと微笑んだ。
「いや、無理だ」
「ふぅん…」
 やっぱりそうなのだ。
「拓海は俺じゃないとキスは嫌なんだろう?」
「うん。涼介さんじゃないとイヤ」
「キスは俺だけとだな」
「うん。ずっと涼介さんだけだよ」
 パァ、と眩い光が照らすように。
 明るい笑顔に涼介はなった。
「好きだよ、拓海」
 ぎゅっと拓海を抱き締めて、涼介に教えてもらった大人のキスをする。
「…うん。俺も…涼介さん…好き…」
 何度も、何度も涼介の身体にこすり付けたせいで、彼の身体から拓海の匂いがうっすらした。
 ――俺のものだって印だ。
 ニンマリ、微笑んで拓海はその胸に顔を埋めた。




2010.1.11


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