高橋涼介の恋人
act.1
藤原拓海が高橋涼介の恋人になったのは五歳の時だ。
まだ幼稚園だった拓海は、父親の親友の息子である幼馴染のお兄ちゃんが大好きでこう言ったのだ。
「りょうおにいちゃん、たく、おっきくなったらおよめさんにするの」
ニコニコ、無邪気な笑顔でそう言うと、もう高校一年になっていた涼介は困った顔になった。
「お嫁さん?俺が拓海の?」
「ヤなの?」
「嫌って言うわけじゃないんだけどね…」
いつも拓海に優しくて、大好きな10歳年上のお兄ちゃん。
きっと「嬉しいよ」と笑って答えてくれると思ったのに、困った顔になって拓海はとても悲しくなった。
それに追い討ちをかけるように、五歳年上の涼介の弟である啓介が拓海に「バカだなぁ」と笑った。
「男同士は結婚できないんだぞ。お前、そんな事もしらねぇのかよ!」
ゲラゲラと、さもおかしそうに笑われて、拓海は悲しくて悲しくて涙が零れた。
「だって…たく…おにいちゃ…すきだもん」
「ああ。俺も拓海が好きだよ」
「だって…ヤなんでしょ?」
頭を撫でられても、拓海はさっきの困った顔の涼介を忘れていない。
涙目で見上げると、困ったなぁと首をかしげながらも、目はいつもの優しいものになっていた。
「そうだね。ちょっと拓海のお嫁さんは困るかな?」
やっぱり嫌なのだ。悲しくてまた涙が零れる。
涼介はその涙を拭きながら、「そうじゃないよ」と拓海の頬っぺたにキスをした。
「ちゅ〜?」
キスは好き。いつもじゃれるように涼介が頬や瞼に落としてくれる。
それをされると、いつも真っ赤になって、心がフワフワする。
「お嫁さんは可愛いものだから。俺は拓海がお嫁さんの方が嬉しいな」
涼介の言葉に、拓海の顔がパッと明るくなる。
けれどすぐにまた沈んだ。
「…でも、けいにいちゃん、おとこどうしはけっこんできないって…」
ショボンと沈み、また涙がポロポロ。
「啓介」
「だって本当のことだろ〜?」
やっぱり本当なんだ。
拓海は大好きな涼介と結婚できない。
悲しくてヒックヒックとしゃくり上げ始めた拓海を、ギュッと抱き締め、涼介は微笑んだ。
「……そうだね。確かに日本の法律では同性同士の結婚は認められていない」
大好きなのに結婚できないのだ。
悲しくて、また涙が滲む。
「でもね、拓海。結婚できなくても、大好き同士なら恋人にはなれるよ」
「こいびと?」
初めて聞く言葉に、キョトンと見上げると、涼介が涙の浮いた目じりにキスをする。
「恋人になろうか、拓海」
「こいびとになったらりょうにいいちゃんとずっといっしょ、いれる?」
「ああ。大好きだからね」
拓海の涙が引っ込み、噤んでいた唇が大きく開いて笑顔を作る。
「たく、こいびとになる!」
拓海の答えに、涼介も嬉しそうに微笑んだ。
「りょうにいちゃん、こいびと、どうやったらなれるの?」
ねぇねぇと、いつも強請るように手を引き尋ねると、涼介は笑顔のままで答えた。
「簡単だよ」
拓海の小さな身体を引き寄せて、顎を摘んで上向かせて…唇を寄せる。
触れるだけの微かなキス。
でも初めての唇へのキスだった。
「ちゅ〜??お口にちゅ〜するの?」
「ああ。恋人同士は口にキスをするんだよ」
わけも分からず、拓海の頬っぺたが一気に真っ赤に染まる。
いつものフワフワとは違う、ドキドキ落ち着かなくてモジモジする。
「じゃ、じゃあ、たく、りょうにいちゃんとこいびと、なったの?」
「そうだよ」
小さな拓海の身体を抱き上げて、涼介はまたその唇に触れるだけのキスをする。
「今日から拓海は俺の恋人だ」
小さな子供の頃の約束。
それは十年経った今でも変わらない。
中学に入ったばかりの12歳の頃。
彼の呼び名を「涼兄ちゃん」から「涼介さん」に変えた。
涼介の周りは大人の人ばかりで、子供っぽい自分が悔しかったからだ。
『涼介さん』
そう呼ぶと、彼は驚いた表情になり、そして少しだけ寂しそうになった。
その時に気が付いた。
涼介の中の自分が、「小さな子供」でしか無いことを。
あれから三年の15歳の春。
あまり勉強が得意ではない拓海は、上を目指さず自分に届くレベルの地元の高校に無難に入学した。
拓海の手には高校に入ってすぐに行われた健康診断の結果が書かれた紙がある。
それをじっと睨み、拓海は溜息を吐いた。
「……やっぱり170cmか…」
紙に書かれた身長の数値は170.5cm。
去年よりも3cm多く、そしてこれからまだ伸びるだろう事は、時折きしむ膝などの骨が教えてくれる。
三年前から、拓海は伸びるのを「止まれ止まれ」と願っている。
けれど願いに反して、身長はスクスク伸び、一般的高校生男子よりもちょっと大きいくらいにまで成長していた。
「何ムズカしい顔してんだよ、拓海〜」
幼馴染であるイツキが拓海の手の中の紙を覗く。
「すげぇ!お前、170もあるじゃん!見ろよ、俺なんてやっと160超えたばっかだぜ〜?」
すげぇすげぇと喚く親友を拓海は睨んだ。
悔しい。
本当なら拓海の理想が隣の親友ぐらいだったのに。
「別に嬉しくねぇよ…」
「ああ?何だ、贅沢な奴だな〜。ま、そりゃあれか。啓介さんたちと比べたらまだまだだもんな〜」
イツキは、小さい頃から拓海と親しくしている「お兄ちゃん」達を良く知っている。
彼らの容貌、身長が平均を遥かに超えたものである事も。
「別に…そんなんじゃねぇよ」
「あ〜あ、俺もあれだけ身長があったらなぁ」
上を望むイツキとは裏腹に、拓海は小さくなることを望んでいた。
ぼんやりと、教室の窓に目を向ければ、反射して自分の姿が映って見える。
もう小さくない、青年に近付きつつある姿。
目鼻立ちも、涼介たちのように整っているわけでもなく、ごく普通の容貌だ。
「こんなんじゃ…もう……ねぇよな」
小さい頃はずっと言われていたのに。
今はそれは適わない。
「え?何?」
「…別に」
拓海はまたハァっと溜息を吐いた。
悩んでも仕方が無いとは分かっているが、けれど望まずにはいられない。
そう、物思いに沈んでいると、制服のポケットから振動が伝わってきた。
ポケットに手を突っ込み、振動源を取り出すと、隣にいたイツキが大きな声を上げた。
「すっげぇ!お前、いつ携帯買ったんだよ!!」
いいなぁ、と何度も繰り返すイツキに構わず、拓海は携帯の画面を覗き込む。
「…高校の入学祝いだって…この前涼介さんが買ってくれたんだ」
これを貰ったとき、拓海はドキドキしたのを覚えている。
これで、涼介が少し近くなる。そう思っていたのだけれど。
「誰から?」
着信はメールだった。
そして相手は望んでいた人ではない。
「…ん。啓介さんから。メシ食いに来いだって。親父がまた啓介さんちのお父さんと飲みに行くみたいだから」
「へぇ、相変わらず仲良いんだな」
「…そうだな」
涼介たちの父親と、拓海の父親はいわゆる走り屋仲間であったらしい。
今では昔のように暴走行為は無いものの、同好の士として付き合いはずっと変わらず、その影響で拓海も高橋家とは家族ぐるみで付き合いがあった。
家業である豆腐屋が忙しく、おまけに早くに母親を亡くした拓海は、高橋兄弟に育てられたようなものだ。
啓介とは兄弟のように。
そして涼介からは保護者のように。
それにプラスアルファの感情を付け加えてしまったのは愚かなことなのだろうか?
拓海はまた溜息を吐き、携帯をポケットに仕舞った。
涼介がくれた携帯。
けれどそこにはまだ一度も涼介からの着信は無い。
小さくなりたい。
小さかったら、涼介はきっと拓海を可愛がってくれただろう。
『拓海は可愛いね』
囁き、拓海の頬にキスをくれるだろうか。
小学校の頃はまだあったスキンシップ。
それが中学に入った頃から無くなり、そして今では声を聞くことすら久しくなっている。
「俺…邪魔なのかな…」
小さい頃にしたあの約束。
それが今も有効だなんて、拓海は思っていない。
2010.1.11