高橋涼介の恋人
act.4
涼介と共に拓海は頭を下げ、職員室を出た。
拓海の処分は追って出ることになるが、謹慎処分は免れないだろう。
たとえどんな理由があろうと、拓海から暴力を振るった事は変わりない。
どんな処分が下っても仕方ないと思うし、正直拓海にはもうどうでも良かった。
職員室を出て廊下を歩く。
前を行く涼介は無言だった。
機嫌の悪い空気が彼から伝わる。
忙しいのに、拓海のためにこんなところまで来て、謝罪までした彼の不機嫌は分かる。
だから拓海は自身の痛みや、恋心をさておき涼介に謝った。
「…涼介さん。ごめんなさい」
すると涼介が足を止め振り返る。
その瞳は嫌いな人間を見るのと同じ、凍て付いたものだった。
今まで拓海はそんな眼差しで涼介から見られたことが無い。
恐ろしくて拓海の足が梳くんだ。
「あの…わざわざこんなところまで来させて…涼介さん忙しいのに…」
震えながらも、拓海は必死に言葉を紡ぐ。
けれど、見下ろす涼介がそんな拓海を鼻で笑う。
「どんなに忙しくても、俺はお前のためなら時間を割くさ」
嫌味のような涼介の言葉に、拓海は言葉を詰まらせ俯いた。
「ごめ…なさい…」
言葉がバカになる。
まるでそれ以外を知らないように、拓海は同じ言葉を繰り返した。
そんな拓海に、涼介は「チッ」と舌打ちをした。
「もういいから。早く帰るぞ」
そして項垂れる拓海の手を取り促すように引っ張った。
しかし。
「……これは…怪我をしているじゃないか」
涼介の不機嫌ばかりだった空気が変わる。
心底驚いたように、拓海の痛めた拳を持ち上げ、壊れ物を扱うように指先で触れてくる。
慎重な仕草だったのに、ズキンと痛んで拓海は顔を歪めた。
それと重なるように、涼介の顔も歪む。
泣きそうに、まるで自分が傷付いているかのように痛そうに。
そして長く深い溜息を吐いた。
「……ごめん」
謝ったのは涼介だった。
驚いて顔を上げると、唇を噛み締める彼がいた。
「拓海が悪いんじゃない。ただ…俺が狭量すぎるだけなんだ…」
「涼介さん?」
意味が分からなかった。けれど問いただすより先に、涼介がまた促し歩き始める。
「骨に異常は無いようだが、早く治療しよう。うちの病院でいいか?」
拓海は無言のまま頷いた。
前を歩いていた涼介が、拓海の肩を抱き横を歩く。
その距離に、たとえようもなく歓びを感じる。
恋人になれなくてもいい。
年の離れた弟して、これからも彼の傍にいたいと切実に願った。
治療をする間、涼介は終始無言だった。
けれど傷だらけの拓海の拳に触れるその表情は、とても痛そうで涼介が拓海の傷を心配しているのが伝わった。
そして「今晩は熱が出るかも知れないから」と、拓海が連れて行かれたのは自宅ではなく、高橋家の涼介の部屋だった。
「今日は風呂は無理だ。気持ち悪いようなら身体を拭くけど…」
そんな事はさせられるはずが無い。
拓海は無言のまま首を振り、所在なさげに立っていた。
久しぶりの涼介の部屋だった。
遊びに来ても、涼介は拓海が中学に入った頃から、部屋に通そうとしなかった。
いつもリビングなどでしか会えない。
三年ぶりくらいに入った彼の部屋は、三年前と変わらずシンプルで機能的なものだった。
難しそうな本がびっしり並んだ天井まで届く本棚。
啓介のように衣服が散乱しているわけでもなく、クローゼットには規則正しく服が並んでいる。
そして部屋の中心を統べるのが一人で眠るには大きすぎるキングサイズのベッドだった。
身長のある涼介は、既製のベッドだと足がはみ出るとかで、特注で作られたものだ。
昔は、このベッドによく二人で眠った。
『拓海の寝相が悪くても落ちないよう、大きなものにしたんだよ』
このベッドが届いた時に、そう涼介は笑い、拓海もまた無邪気にベッドのスプリングを確かめるようにトランポリンのように跳ねた。
「着替えは俺のものだと大きいだろうけど、着られない事はないだろう。これを使って」
渡されたのは上下の黒のパジャマ。
涼介には似合っているが、自分にはどうかと思うようなデザインのそれは、実際に着てみると、手足どころか肩幅からすべて大きく、拓海は小さな子供のような気分になった。
袖と裾を折り曲げ、何とか着ると、退出していた涼介が戻ってきた。
涼介もまた、動きやすい服に着替えている。
手には二つのカップを持っていた。
一つにはブラックのコーヒー。
もう一つはミルクココアだ。
昔から二人ともそれが好きで、涼介がカップを持っているときは見なくともその中身が分かる。
ココアの入ったカップを受け取り、ふぅ、と熱いそれに息を吹きかける。
ほんの少し、昔に戻った気がした。
けれど、すぐにそれは錯覚だったのだと思い知らされる。
ベッドに腰掛けた拓海から距離を空け、涼介が座った。
すぐ隣には座らない。
その距離感が「今」を感じさせて拓海はまた落ち込んだ。
「……彼女が出来たんだって?」
唐突に涼介は切り出した。
冷たい声音だった。
あれを彼女と呼んでいいものか、躊躇する拓海に構わず、涼介は言葉を続ける。
「その彼女が他の男といるのを見つけて、殴った…そう理由を聞いたけど?」
拓海は答えれなかった。
本当の理由を説明すると、涼介への恋心まで語らなくてはいけない。
無言のままの拓海を一瞥し、涼介は「ククッ」と吐き捨てるように笑いを零した。
「まぁ…別に答えはどうでもいいけどな」
コトンとマグカップをベッドサイドに置き、拓海に向き直る。
強い視線に、拓海もまた涼介に視線を送った瞬間、囚われた。
その射抜くような眼差しに。
「拓海」
フルリと身体が震えた。
零しそうで、まだ中身の残るカップを、涼介と同じようにベッドサイドに置く。
「女とキスした?」
「え?」
一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「な、に…?」
「女とキスしたのかって聞いたんだ。抱いたのか、女を?」
だいた…。
それがセックスを意味していると気付いた瞬間、カッと頬が真っ赤になった。
涼介の口から、性的な意味合いの言葉が出ることで意識してしまったのだ。
しかし拓海のそんな反応を、涼介は違う意味に捉えた。
「…したのか?女はお前の…身体も唇も知っているのか?」
涼介が怒っている。
それだけは分かった。
けれど何と答えていいものか、分からずに躊躇していると、さらに涼介の怒りは膨れ上がった。
「したのか?!」
あ、と思う間も無かった。
嵐のような勢いに押されたと思った瞬間、ベッドに押し倒され、目の前に涼介が圧し掛かっている。
涼介の背後に天井が見えた。
驚く、と言うよりも、その状況に現実感が無く、拓海はぼんやりと目の前の涼介を見つめた。
「ふざけるな!俺が何のために…!!」
ギラギラとした、見たことも無い眼差しで涼介が拓海を見下ろしている。
穏やかな視線しか知らない拓海には、それが怖いと感じるよりも、何が起こっているのかと戸惑う気持ちが強かった。
涼介は怒っていた。
激しく。とても感情的に。
拓海に分かったのはそれだけだ。
そして。
「後生大事に仕舞いこんで…誰かに取られるぐらいなら…!」
悲しんでいた。
怒りとは裏腹に、目には傷付いた色が見える。
「りょ……ぅン…」
彼の名前を呼びたかった。
どうしたのかと、問いかけたかった。
けれどその言葉は涼介の口の中に消えた。
拓海は、自分の唇を塞ぐものが何であるのか、暫く理解できなかった。
ヌルリと口内に得体の知れないものが侵入してくる。
拓海の口の中を探りまわり、舌を絡めて吸付いた。
息苦しくて、その激しさに飲み込まれそうで、拓海は本能的にもがいた。
だから口内で暴れまわる何かを噛んでしまったのは無意識だった。
「…ッ!」
気付いたのは、寄せられていた彼の顔が離れた時だ。
唇が切れて血が滲んでいる。
「…そんなに嫌か?」
涼介が冷笑し、無造作に唇に滲んだ血を拭う。
そこでやっと気が付いた。
自分の口を塞いでいたものが何か。
口内で暴れていたものは何か。
しかし衝撃が多すぎて、拓海の頭が付いていけない。
呆然と、目の前の涼介の一挙一動を大きな瞳を見開き凝視するだけ。
そんな拓海に、涼介はシニカルに笑い、そして手を伸ばす。
「逃げないのか?」
涼介の手が、パジャマの袷に向かう。
「逃げたくても…逃がさないけどな」
両手が袷を掴み、そして左右へと引っ張る。
ボタンが千切れ、パラパラと飛んでいくのが見えた。
むき出しになった肌に、涼介が顔を寄せる。
「拓海」
唇が…触れた。
「お前は俺のものなんだよ」
うっとりと、幸せそうに囁くその声に、拓海の頭がクラリと揺らめく。
目を閉じた。
きっと。
そうだ、これは夢なのだ。
夢が覚めないように、固く、固く目を閉じた。
むき出しになった肌に、まるで火のように熱を持った涼介の指と舌が這う。
誰かと性的に触れ合うことが生まれて初めての拓海は、その未知の行為に怯えを感じたが、けれどそれよりも強く思う感情があった。
――嬉しい。
荒々しい涼介の感情とは裏腹に、触れる手はまるで拓海を大切な宝物のように、慎重に、大事に扱う。
切ない眼差しで見下ろすその意味が、何度も「拓海」と名を呼ぶその声音の持つ意味が、分からないほど鈍くない。
昔からずっと、涼介は言っていたのだから。
『拓海が誰より一番好きだよ』
全身で、表情で、涼介は拓海にそれを伝えている。
誰も触れたことのない場所を涼介の指が暴き、感じたことのない快楽をその身に覚えさせられた。
恥ずかしいと言う感情は無かった。
一心に自分を欲しがる涼介が嬉しくて、幸せで。
何より誇らしくて。
拓海は水を吸い込む乾いた砂地のように、涼介が与えるもの全てを感受した。
「あ…あ…あ…」
溺れた人のように、何度も口を開き、何度も声を上げる。
思いもがけない最奥を指で割り広げられ、熱の固まりのような剛直が拓海の身体を割り広げる。
自分の中いっぱいに涼介を受け止めて、そこで初めて拓海は男同士のセックスがどんなものかを思い知らされた。
痛い。苦しい。
「…う、くぅ…」
喘ぐ拓海に、涼介も同じ痛みを感じているかのように顔を歪め、沈痛な声で何度も謝罪した。
「…拓海…ごめん…ごめんな…」
謝りながら、拓海の中を穿つ。
そんな悲しそうな顔をしないで欲しい。
自分は大丈夫だからと、拓海は伝えるように、涼介の背中に腕を回し、大きな胸に頬を摺り寄せた。
ドクドク。
激しく鳴る鼓動。
それがもう自分のものか、涼介のものなのか。
判別できないくらいに深く寄せ合い、混じりあった。
「りょ…すけさ…す、き」
ポロリと、大きな瞳から涙が零れ落ちる。
ぐっと深く奥まで突かれた瞬間、頭が真っ白になって、一気に意識が空に上り、そしてまるで花火のように弾けた。
心がフワフワして、うっすら微笑むと、目の前で泣きそうに顔を歪めたままの涼介が見えた。
どうしてそんなに悲しそうなのだろう?
拓海も悲しくなって、その頬に手を伸ばしたのだが、重くなった意識が身体を満足に動かせなくしていた。
伸ばした手はパタリとシーツの上に落ち、視界が霞んで、最後には視界は真っ暗で涼介の顔は見えなくなってしまった。
「…拓海」
ただ、涼介の声だけが聞こえる。
「……俺から…離れないでくれ」
離れるはずがない。
当たり前だと、そう答えたつもりだったが、確認する前に、拓海の意識は深い淵に沈んだ。
2010.1.11