高橋涼介の恋人
act.3
同級生の女の子に告白をされた。
可愛い子だとは思うけど、好きではない。
だから「ゴメン」と断った。
けれど同い年の少女は諦めず、
「付き合ってもみないで何が分かるの?!最初はトモダチからでいいからさ、ね?付き合ってよ」
無邪気に微笑み腕を引っ張られ、脳裏に思い浮かんだのは、小さい頃に恋人の約束をした年上のあの人の姿だった。
途端、無性に悔しくなった。
あの約束を大事に守ってきた自分と違い、忘れて他の女の人と付き合っている彼が。
だから、今度は頷いた。
「…分かった。友達からでいいなら」
嬉しい、と叫び少女が拓海の胸に飛び込んできた。
小さくて、細い華奢な身体。
それにときめくよりも、羨ましさの方が先に立った。
もしも自分がこんな女の子だったら、涼介さんは…。
そう思ってしまった自分が悔しくて、無理やり拓海はその感情に蓋をした。
忘れよう。
そう、拓海は努力することにしたのだ。
けれど、女の子との付き合いは、穏やかで拓海のペースに合わせてくれた涼介と違い、激しく気儘なもので、拓海を酷く疲れさせた。
「ねぇ、拓海くん。あそこに行こうよ」
「ねぇ、あれ買って?」
断ると、
「あたしのことを好きじゃないのね?」
と詰られ、携帯の着信の履歴には彼女からのものでいっぱいになってしまった。
努力しようと思ったが、無理かも知れない。
そう思った拓海は、彼女の所属するサッカー部のクラブハウスへ向かった。
そこで拓海が見たのは彼女の裏切りの姿と言えるものだった。
同じサッカー部の先輩とキスをしていた。
「ちょっと可愛い顔してたから付き合ってみたんだけど、やっぱり御木センパイがいいな。Hも上手いし」
拓海を詰りながら。
スゥっと頭が一気に冷え、拓海は「何だ」と大笑いをしたくなった。
付き合うって言っても、こんな薄っぺらいものだったんだ。
だからきっと、涼介の「約束」を軽いものだったのだ。
馬鹿馬鹿しくて、拓海はクスクスと声をあげ自分を笑った。
約束を本気にして、大事にしていた自分の哀れさに。
けれどその笑いは、目撃された二人を激昂させるには十分だったらしい。
後ろめたいからこそ、嘲笑めいた態度に過剰反応する。
「何だよ、お前!何笑ってんだよ!?」
「た、拓海くんが悪いんだからね!いつまで経ってもキスもしないしさ。だからなつき、御木センパイに戻っちゃったんじゃない!」
どうでも良い。
無視して去ろうとしたのに、激昂した男が拓海の腕を掴み、殴りかかろうと腕を振り上げる。
冷めた頭で、拓海はその拳を避け、逆に男にパンチを食らわせた。
喧嘩は慣れていないが、武道を嗜んだ涼介と、喧嘩慣れした啓介に身を守る方法は教わっていた。
襲い掛かられれば条件反射のように手は出る。
けれど今は、拓海は意識的に手を出した。
メキリと拳に痛みが走る。
殴られた男が、床の上に倒れこむ。
少女の甲高い悲鳴が聞こえた。
無性にムカついていた。
付き合うことを軽く見る二人が。
好きだったのに。
好きなのに。
約束を簡単に破った彼のようで、悔しくて仕方がなかった。
「バーカ、立てよ」
人を殴ることに慣れていない拳の骨が軋み、皮膚が裂けて血が滲んでいる。
痛いはずなのに、拓海は拳よりも心が痛かった。
男を何度も殴りながら、けれど拓海が本当に殴っていたのは男などではなく、自分の恋心だった。
砕けてしまえとばかりに。
何度も、何度も殴った。
少女の甲高い悲鳴は人を集め、すぐに教員が呼び出され、拓海は職員室で保護者を待っていた。
『ムシャクシャしてたから』
それを理由とし、頑として何も話そうとしない拓海に、教員は停学処分を示唆したのだが、それでも拓海は何も言わなかった。
日が暮れて、真っ暗になってしまった職員室で、拓海は置物のように立ち尽くしていた。
殴り続けた拳はもう真っ赤で、保健室で手当てを受けたが、キズキと脳天にまで響くほどの痛みを伝える。
「なぁ、藤原。大人しいお前が、何の理由もなく誰かを殴るだなんて、誰も思っちゃいないぞ。理由は薄々察しているが、先生はお前の口から聞きたいんだ」
「…別に」
ただムシャクシャしてたんです。
何度も、同じ遣り取りを繰り返す。
それよりも拓海は、きっと迎えに来た父親にこっぴどく怒られるだろう事を予想してウンザリしていた。
自分のした事に後悔はないが、怒られるのはイヤだ。
けれど、拓海は怒られなかった。
ガラリと戸が開く音がして、
「失礼します」
そう声をかけ入室して来た人物。
それは拓海の父親では無かった。
「申し訳ありません。彼の父親はどうしても都合が付きませんで、代わりに参りました高橋涼介です」
忘れたい。
忘れたいと、何度も殴ったはずなのに。
目の前に現れると、昔のままの感情が拓海に蘇る。
「りょ、すけさ、ん…」
それが悔しくて、悲しくて。
拓海は唇を噛み締め俯いた。
「貴方は?」
保護者と呼ぶには若く、けれどただの知り合いとするには身なりと貫禄のある涼介の登場に、教員が戸惑った声を上げたのは当然だろう。
「はい。僕は藤原君とは親同士親交がありまして、彼とは小さい頃から兄弟のように育ちました。ですから、縁戚にはありませんが、僕は彼の保護者の一人のようなつもりでいます」
保護者。
そうだ、ずっと保護者だった。
結局、小さい頃から変わらないのだ。
涼介にとって拓海は、手のかかる小さな子供でしかない。
「彼を、引き取っても宜しいでしょうか?」
涼介の手が立ち尽くす拓海の肩を抱き、大きな涼介の胸に頭を抱えるように引き寄せられた。
今日の涼介からは、彼の匂いしかしない。
ほんの少しだけ香る煙草と、ほんのり香る汗の匂い。
そして冷静な態度に似つかわしくない、荒々しい鼓動。
俯いたままの視線の先に、涼介の手が見えた。
固く握り締められたその拳は、血の気が失せるほどに真っ白になっている。
ぼんやりとする拓海の頭上で、涼介がまだ教員と言葉を交わしている。
拓海はそれを聞くとは無に聞きながら、どんどん力が込められていく涼介の拳を眺めていた。
2010.1.11