〜Platonic〜
頬に触れた指が温かかった。
勝手なイメージから、あの人の指は冷たいのだと思い込んでいた。
温かな指が、手のひらが拓海の頬を包んで引き寄せた。
耳に響くのは、激しい音を立てて限界値までスピードを上げる自分の鼓動。
だけど、引き寄せられ、包まれた彼の胸の奥からも、自分と同じように激しく鳴り続ける鼓動を感じた。
車体さえも軋むかのような咆哮を上げるエンジン音のように、鳴る二つの鼓動が、やがて重なり一つの音へと変化する。
そっと躊躇うように触れてきた彼の唇は、手とは反対に冷たかった。
微かに奮えるその唇の冷たさに、拓海は彼の緊張を知り、これが夢でも何でも無いことを知った。
目を閉じて、拓海はその唇を享受した。
合わさった互いの肌から、唇から、熱が生まれ、体中を支配する。
静かな、けれど深い、蒼い炎のようなその熱は、拓海の奥深くまで浸透して、今でも消える事無く燻りながら、時には激しく熱を発しながら今も燃えている。
さて人間の原形がかく両断されてこのかた
いずれの半身も他の半身にあこがれて
ふたたびこれと一緒になろうとした
そこで彼らはふたたび体を体を一つにする欲望に燃えつつ
腕をからみ合って互いに相抱いた
(プラトン「饗宴」より)
彼の腕の中で時を過ごすことが多くなり、最初の時ほど緊張する事も無くなったが、それでもそこで寛げるほど拓海は図々しくなれない。
突然、背後から自分を包んできたその腕に、ビクリと反応して強張ってしまったのは、拓海にとって当然とも言える事だった。
しかし腕の主にはそれが不満だったようで、震えた拓海の体をすぐに離し、呆れたような溜息が背中から聞こえてきた。
「…いつまで経っても藤原は慣れないな」
付き合い始めた当初は、微笑とともに言われていた言葉は、今では苦々しさしか感じないらしい。彼の声音が冷たかった。
「もう三ヶ月だろう?いいかげん慣れてきてもいいと思うが…」
自分の態度が、彼の不況を買っている。それに不安と恐怖を感じながらも、拓海は首を横に振った。
「…無理です…そんなの…」
たぶん、一生慣れることが出来ない。そう思いながら言葉を返す。
再度、背後から彼の溜息が聞こえた。
腕がまた拓海の体に絡みつき、そしてぎゅっと引き寄せる。さっきのように震えても、もう腕は離れなかった。
ドクンドクンと規則正しく鳴る彼の心臓の音が聞こえる。
そして自分の鼓動が、どんどん速度を速め、静かなままの彼の音と不協和音を奏で始めた。
「もし…俺がお前に告白しなかったら…どうなってたんだろうな」
独り言のような呟き。
あの時。三ヶ月前のあの日。
意識しすぎて彼を避ける拓海の腕を掴み、彼は言ったのだ。
『お前が好きだ』
シンプルで、それでいて重い言葉を。
拓海はただそれに頷いた。言葉は返せなかった。あまりにも驚いて、幸せで、それでいて恐くて、言葉にすると何もかもが消えてしまうようで、拓海は何も言えなかった。
「…たぶん…」
「たぶん?」
「…今と変わらないです」
そう答えた瞬間、拓海の体を包む彼の腕が強張った。
そんな些細な変化を感じながらも、拓海にはそれがどんな意味を持つのかが理解できない。
「変わらない?…どう言う意味だ?」
甘さの抜け落ちた声音。冷たささえ感じるその声に、拓海はますます萎縮して、その腕の中で身を縮ませた。
「…どう言うって…その、言葉の通りですけど…」
そう言った次の瞬間、拓海を包んでいた温かな腕が離され、冷えた空気が拓海を襲った。
怪訝に思い、背後を振り返ると、そこには拓海の方を見ず、眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに顔をしかめる彼の姿があった。
「…涼介さん?」
呼びかけると、彼の目はちゃんと拓海を見た。けれどその目の中に、拓海は寂しそうな色を見つけて、竦んで次の言葉が出ない。
戸惑い、口ごもっていると、涼介の目の中の寂しさはますます色を深くする。
「…傍にいて、どんなに言葉を交わして、肌も触れ合っていても、俺には藤原が遠いよ」
「えっ?」
「お前の事が好きで、片思いしていた時よりもタチが悪い」
拓海には涼介が何を言いたいのか判らない。けれど、自分の態度や言動が、彼を悲しくさせているのだろう事は理解できた。
「…あ、あの、俺…何か悪いことしましたか?」
「…悪い…そうだな、ある意味、最悪と言っていいかな」
やはり自分が何かを涼介に対ししたらしい。拓海は突然振ってきた最悪な事態に、項垂れ唇を噛み締めた。
「藤原は俺が好き?」
拓海は彼の顔を見ないまま、俯いたままで頷いた。
「……はい」
「本当に?」
「…嘘じゃ、ないです」
「ただ流されてるだけじゃなくて?」
「…流されてなんかいません」
「じゃあ、同情か?」
涼介が何を言いたいのか判らない。拓海は焦燥に項垂れていた顔を上げ、彼の顔を見ながらきっぱりと言った。
「そんなんじゃないです!
な、何なんですか、もう…。どうせ俺は、女じゃないし、可愛くもないし、頑固だし、涼介さんより五歳も下の子どもだし、いいトコなんて全然ないけど…、だからって、そんな風に苛めなくてもいいじゃないですか!
わ、別れたいなら、そうはっきり言って下さい!俺、どうせ、覚悟は出来てますから!」
そう怒鳴った瞬間、恐いまでに真剣な、激情を孕んだ彼の表情を見た。一瞬竦んだその時、乱暴な手に頬を捕まれ、貪るような口付けを受ける。
舌を噛まれ、唇を痛いぐらいに吸われ、呼吸が苦しくなり、必至に彼の背中を叩いて逃れようとする。しかし涼介の腕は緩まず、拓海の全てを口から吸い取るように奪い、涙で視界が潤むまでに拓海を追い詰め、やっと彼の唇が離れた。
けれど。
その目の中の激情は激しいままに。
「その覚悟がムカつくんだよ!」
じんじんと、痺れたような唇。涙はもう目から零れ落ち、幾筋も頬を伝って滑り落ちている。
「お前は俺を何だと思っているんだ?!」
「な、何って…」
大好きな人。それは間違いない。
「俺をお前の中で、遠いままに終わらせるなよ!」
…遠い。確かにこの人は遠い人だった。思うばかりで手が届かず、いつも背中ばかりを見ていたような気がする。
「俺は…誰よりもお前の近くにいたいんだ!」
だけど、今はもう誰よりも、何よりも拓海の一番近い側にいる。
あの日、あの時。初めて言葉を交わしたあの頃から拓海の心の中に住み着いて、いつでも拓海の中にいる。
それなのに…。
「俺には…お前が遠いよ…」
泣きそうな顔で、自分の肩に顔を埋める涼介の姿に、拓海は混乱した。
大人で、冷静で、いつも物慣れない自分をリードする余裕のある態度しか見たことがなかった。
けれど今の彼は恋に焦燥する普通の男で、まるで子供のように拓海に向かい不満を言う。
「お、俺はちゃんと涼介さんの近くにいます!」
「…じゃあ、なぜ言ってくれないんだ?」
「え?何をですか?」
「…好きって事を」
「ええ?俺、ちゃんと言ってます…よね?」
「言ってない。俺が聞くと、頷きはするけど、それだけだ」
そう答える彼の顔は拗ねた子どものようで。
「……もしかしてその事で、俺の気持ち、疑ってたりします?」
「もしかしなくてもそうだ。藤原は俺に告白されて、本当は迷惑だったのに、同じチームだから気まずくならないように、頷いたのかな、とか思ってる」
拓海は自分の目の前にある、涼介の形の良い耳をぎゅうっと引っ張った。
「そんなワケないじゃないですか!」
「だが、藤原は俺に何も言わないじゃないか…。仕事の相談や車の事も、俺じゃなくて松本や史裕には相談しているだろう?」
「…え、ああ、はい。まぁ、そうですけど…」
「それだけ俺に、心を開いていないって証拠だ」
何だかなぁ、と拓海は溜息を吐いた。
「それは…松本さんたちには、やっぱり言いやすいってのもありますけど…、涼介さんにそんな事言って、忙しいのに面倒じゃないかな、とか思うし…」
「俺は気にしない」
「俺は気にします。ただでさえ、俺、涼介さんより子供だし、あんまり頼ったら重たいと思われるかな、とか気にしてたりしますし…」
…ああ、そうじゃない、と拓海は思った。
こんな言い訳をしたいわけじゃない。
一番言わなければいけない言葉が先にある。
整った、初めて見たときから見惚れて止まない涼介の顔を見つめ、しっかりと目を合わせる。
「…俺、涼介さん好きですよ。すっげぇ好きです」
そう言うと、不機嫌だった涼介の表情が緩む。口元を必至に引き締めているが、笑みを作りたがっているのが鈍いと評されている拓海にでさえ分かる。
「じゃあ、どうして俺に告白されなくても一緒だとか言ったんだ?」
「一緒ですよ」
また涼介の顔が不機嫌になる。
けど。
「変わらないですよ。俺は涼介さんを好きなままです」
そう言うと、彼の顔はぽかんとした、いつもの彼らしくない隙だらけなものになって。
そして。
「自信ありますよ、俺。きっと両想いになれなくても、ずっと涼介さんに片想いしてます」
だから変わらないんです、そう言ってやると、また彼の腕が拓海を包む。
彼の自分とは感触の違うサラサラの黒髪が頬をくすぐる。この感触にも、少しずつ慣れてきた。
「…じゃあ、一生片想いしててくれ。俺も、お前にするから…」
この腕の中は心地好い。
けれどいつまでも胸を騒がせて、拓海の心を泡立てる。
「…一生ですか。死ぬまで?」
「死ぬまで」
「両想いにはなれないんですか?」
「違う人間だから、全て分かり合えると言う事は無いのに今気付いた。だからお互い、ずっと、永遠に片想いだな」
ドクドクと早鐘を打ち始める拓海の心臓の音に合わさって、涼介の心臓の音も同じように早くなる。
合わさり、同じスピードで音を奏で、一つの音になったように見えても、ふとしたタイミングでまた音は擦れ、これは別々の音なのだと教えさせる。
別の体。別の心。一番近くにいるのに、一番遠くに感じる。
触れ合う距離にいるのに、それでも手が届かないようで、いつも必至に手を伸ばす。
この人を、まるで自分の一部のように、一つに感じていたいから。
「…難しいですね、それ」
指を絡める。
「そうだな。でも…」
初めて触れた時と同じ、彼の指は温かかった。
「こうしていれば、あっという間な気もするが…」
手のひらを通して、彼の熱が自分に伝わり、自分の熱もまた彼に伝わる。
拓海はぎゅっと涼介の指を握った。
ドクドクと慌しい鼓動を奏でる音を聞きながら、彼の胸に頬を寄せ目を閉じた。
「そうですね、きっと…」
きっとこの感触に一生慣れない。
触れ合うたびに、嬉しくて幸せで、幸せすぎて不安になって、もしかしたら嫌われるのではないかと緊張するから。
クスリ、と頭の上で微かに笑った彼の声に気付き、視線を上げる。
「いや、こんな話を思い出したんだ」
問いかける拓海の眼差しに、涼介の笑みが深くなる。
「何ですか?」
「昔、人間は二人で一つだったって話」
「え?そうなんですか??」
「違うよ。昔の哲学者の説なんだ。
人間は二人で一つの完璧な存在で、それゆえに傲慢になって神の怒りをかって二つの体に別られてしまった。
だから人は、別れてしまったお互いの半身を求めて、相手と一つになりたがる」
拓海を抱きしめる涼介の腕が強くなる。
「今みたいに?」
「今みたいに。それが人が恋をする理由なんだ、とね」
難しい話は拓海には分からないけれど。
でも、こうやって一つになりたがり理由も、別れるときの悲しさも理解できる。
「そうやって人は、永遠に自分の片割れを求め続けるんだ」
…今みたいに。
そう涼介の眼差しが言っていた。
拓海は涼介の体を強く抱き返し、その答えとした。
ドクドクと彼の鼓動が聞こえる。
そしてその音に、自分の鼓動が重なり、外れ、また重なる。
これからも、今までも。
この音に重なることを拓海は求めて止まない。
初めてキスを交わしたあの日。
感じた熾火のような熱は、今も燻り、そしてこれからも拓海の中でずっと燃え続けている。
2006年3月
ステキ企画「拓海アミダ」に投稿した作品。
ものの見事に難解なお題、「永遠の片思い」と言うのを引き当て、悩みながら結局こんな形に。