空回りの毎日に
束の間の愛をくれた
張りつめた心にただ
ありふれた愛をくれた
「海に行こうか?」
そう言うあの人の言葉に俺は頷いた。
「はい」
微笑んで、そう言うと、あの人も笑顔になった。
ずっと、怜悧な表情しか知らない時は、この人がこんなに優しく笑う人だなんて思わなかった。
でもその笑顔を、誰でも見れるわけではないことを、今の俺は知っている。
そして自分が、彼にそんな笑顔をさせていることも。
一年かけた夢が終わり、新たな旅立ちにそれぞれが行こうとしていた。
彼が進む道は自分とは離れ、現実に取り残された自分と違い、彼は弟と同じ少年の頃の夢を叶えに行こうとしている。
離れていく背中。彼を引き止めるつもりはなかった。
それが彼のためだと知っているから。
「藤原が行くのは来週だっけ?」
はっとしたような彼の顔。俺はその顔に、彼にしか見せない柔らかな笑みを返した。
ぎゅっと握り締めた指先に、さらに力が込められる。
「はい」
彼の顔は真っ直ぐに前を向いていた。その場所に俺はいない。
「啓介さんはもう行ったんですよね?」
だが隣にはいる。
「ああ。大騒ぎして出ていったよ」
その情景を想像したのだろう。彼はクスリと笑みを零した。
「…寂しいですか?」
含みのある表情。その言葉が弟に向けてか、それとも彼に対してのものなのか。いや、両方なのだろうな。
「そりゃあ、うるさいのがいなくなったらな」
俺はそれに気付かなかったような顔で笑う。
彼の大きな瞳が伏せられる。
ぎゅうぎゅうと音を立てて踏みつけられる砂浜。黄土色の砂の粒が風に煽られ、藤原の髪をなびかせた。
彼が目を上げた。
縋るような瞳。初めて会った頃から変わらない、真っ直ぐな眼差しは、じっと俺に注がれる。
「…俺がいなくなっても…寂しいって思ってくれますか?」
彼の目の中の悲しそうな色。
それは俺との別れを予感しているのだろう。
だけど――。
Dが始まってすぐに、俺は涼介さんと付き合うようになった。
ついあの人を追ってしまう目。染まる頬。高鳴る胸の鼓動。
それらが何を意味するのかはすぐに気付いた。
男同士だと知っていても、こんなに心を揺さぶる人に、俺は生まれて初めて会ったのだ。
彼は惚れた欲目を抜かしても、いや誰が見ても優秀すぎる人だった。その見た目も頭の中身も家柄も。
しがない豆腐屋のいたって普通の俺とは、車になんて乗っていなかったら絶対に接点のなさそうな雲の上の人。
そんなあの人に、恋心を向けるだけでも恐れ多いようで、俺は出来るだけあの人を避けるようにしていた。ついつい追ってしまう目を逸らし、目も合わさないようにしていた。
「藤原は涼介が苦手なのか?」
あの人の親友がそんな疑問を投げかけるほどに、俺はあの人を避けた。
「違いますよ。ただ、涼介さんの前にいるとすごい緊張するんで…」
曖昧な言葉でごまかして、それで色んなものから目を背けていた。
だけど。
ふとすれ違う瞬間。
恐い顔をしたあの人に腕を捕まれて、そして突然、「好きだ」と言われた。
信じられない言葉。
でも射抜くような嘘を許さないあの人の瞳が、それが真実なのだと教えてくれた。
だから。
俺は束の間の夢だと思っていても、それでも答えたのだ。
「俺も涼介さんが好きです」
藤原の目の中に現れている覚悟。
そんな覚悟をさせてしまった自分が恨めしい。
そういやこいつは、意外と頑固なところがあったなと思い返す。
食事一つにしても、奢るといっても聞かないで、
「じゃあ、次は俺が奢ります!」
と言い張った。
甘えるばかりの人間が多い中、彼のそんな潔さみたいなところに改めて自分の目の確かさを確信したのを思い出す。
彼とのことを思い出せばきりがない。
全部幸せな思い出ばかりなのだから。
「フッ…」
突然噴出した俺に、藤原の瞳に今度は怒りの色が見える。誤解させたかな、と思うが、俺は彼のそんな感情に素直なところにも惹かれていた。
「藤原」
俺は彼の肩に手をかけた。
そして引き寄せ、彼をこの腕の中に閉じ込める。
ずっとこのまま、俺の腕の中だけに閉じ込めておけたらいいのに。
そう思う気持ちは確かにあるが、それでは俺の惚れてる藤原ではなくなってしまう。
彼はいつだって、前を向いて走っていてほしい。
「俺を捨てるなよ」
前へとどんどん走っていけばいい。
けれど、たまには後ろを振り返れよ。
俺はいつだってお前を見ているから。
そんな想いを込めて彼を見れば、彼の瞳からはどんどん涙が溢れ、そして俺の身体にしがみつき、子供のようにしゃくりあげ始めた。
そうだよ。
疲れた時や、苦しい時は、俺に甘えて頼ってくればいい。
泣きたいなら、俺の腕の中で泣けばいい。
いつだって俺は藤原を見ているから。
だから、藤原。
頼むから俺を捨てるなよ。
「俺を捨てるなよ」
そう言われ、自分があの人のことを見ていなかったことに気付いた。
いつだって。
あの人は俺のそばにいてくれた。
優しく。
でも時には厳しく。
けれどそうかと思ったら、たまに子供のように甘えてきたりもする。
Dが終わったことで、進む道が離れてしまうことで、俺はきっとあの人との関係にも終わりが来るのだと思い込んでいた。
でも、そうじゃない。
離れても、いつだってこの人は俺を見ていてくれる。そして俺だって、涼介さんの夢の分まで走り続ける。
大事なことを俺は忘れていたんだ。
離れたくない。
その気持ちさえあれば、たとえ遠くにいても、心はいつだってそばにいるのに。
藤原が涙顔のままで笑う。
その顔が好きだと言ったら、彼は悪趣味だと怒るだろうか?
涼介さんが笑う。
いつも釣りあがった目尻を下げて、嬉しそうに。
「好きだよ」
「好きです」
潮風が激しく吹いて、さっきまでの迷いを吹き飛ばす。
波の向こうの青い空。
たとえ遠く離れても、あの空は海の向こうまでずっと続いているのだから、きっと自分たちも変わらないはず。
そう信じて、想う心さえあれば。
息が止まるほどの風に 吹かれてた
瞳を逸らさず全てのもの 見つめてた
「たとえ今は遠い空の 下としても…」
GLAY 「Life~遠い空の下で~」より一部歌詞引用
2005年11月3日