十時間の長丁場の手術が終わり、疲労しきった精神と体を抱えて椅子に沈み込む。
「大変でしたね、高橋先生。急に患者さんの容態が変わって」
媚を売ったような、恋人よりも年若い女の甲高い声にやけに苛立った。
「…仕方ないさ。これが仕事だからね」
感情のままに不機嫌な声は出さない。けれど今の疲弊した自分には、そんな些細な気遣いさえ煩わしい。
座ったばかりの椅子から離れ、また立ち上がる。
「どこ行くんですか?少し休憩されたほうがいいですよ」
…だから君がいたのでは休めないんだよ。
「屋上。煙草吸ってくるよ」
「最近吸いすぎですよ、高橋先生。気をつけて下さいね」
追い縋ってくる声を振り払うように手を振った。
自分でも煙草の量が増えたことは気付いていた。
ハードな仕事。職場の女性たちの無遠慮なアプローチ。それらが積み重なり、どんどんストレスとなり涼介を疲れさせる。
屋上に着き、扉を開く。
広がった抜けるような青空に、一瞬、さっきまでの陰鬱な気持ちが晴れるような気がした。
「…もう、行った頃かな」
医者になる前からずっと付き合っている恋人は、今日、日本を経つ。
恋人に成り立ての頃はまだ素人だった恋人は、やがてプロの道を歩み、そして国内だけに留まらず世界へ飛び立っていった。
それを誰より望んでいたのは自分のはずなのに、こう忙しくてなかなか会えない日が続くと、苛立ちが募って涼介を追い詰める。
屋上をぐるりと巡るフェンスに手をかけ、空を見上げる。
昨日涼介は休みだった。
なかなか会えない恋人のために時間を割いた。
久しぶりに会う恋人と想いを交わし、ゆったりとした時間を漂っていた涼介を現実に引き戻したのは病院からの電話。
夜遅くにかかってきた電話に、涼介は職務を放棄したい自分を感じた。
だがそれを許さなかったのは涼介ではない。彼の恋人だ。
『行って来て下さい、涼介さん』
『だが、拓海は明日には発つんだろう?今日だけしかいられないんだぞ』
『別に…今日いられなくなるからって、これから先ずっと会えなくなるわけじゃないですか。でもその電話の向こうの患者さんは、もしかしたらこれから先がなくなるかも知れないんでしょう?』
『…拓海はずるいな。そう言われたら俺が行くと思ってるんだろう?』
『はい。だって、行くんでしょう?』
恋人の笑顔一つで、簡単に操られる自分は本当に骨抜きだ。
初めから、恋焦がれて彼を手に入れた。想いが叶った時は嬉しくて、柄にもなく小躍りしたい気持ちでいっぱいだった。
幸せだった。
いや、今も幸せだ。
だからこそ、離れている今はとても寂しい。
「…何だぁ?男前で有名な高橋先生が、さっきからニヤけたりショボくれたり。是非ナースの連中に見せてやりたいねぇ」
ふと横を見れば、自分と同期で入った男の姿が見える。浮いた無精髭が、彼も一戦交えた後なのだということを教えてくれる。
「さっきはお疲れ」
「ああ。悪かったな。俺だけじゃ手が足りなくて呼び出しちまったけど。高橋は休みだったんだろ?彼女に怒られたんじゃないのか?」
怒られるどころか。
「いや、逆に行って来いって怒られた」
「マジか?」
「ああ。なかなか会えないってのに、物分りが良すぎて寂しいよ」
「そういや、遠距離恋愛だって言ってたな。オイオイ、大丈夫か?向こう、浮気とかしてんじゃねぇの?」
「…いや、それはないよ」
「何で分かるんだよ」
分かるさ。拓海のことなら。
「不器用で、素直なんだよ。だからそう言う事は出来ないさ。もし、他に誰か好きな奴が出来たら、正直に言うタイプだからな。他に好きな奴が出来たからってな」
そうだ。男女に限らず、他から色々言い寄られているのは知っている。
だが拓海は変わらない。
戯言で、「浮気は仕方ないと思ってるけど、別れるのだけは勘弁してくれ」と言ったら、思い切り殴られた。
『俺はそんな事しない!見くびんなよ!俺がどんだけあんたのこと好きだと思ってんだ!!』
穏やかな瞳を、燃え盛る炎に変えて。
『それとも…あんたはそうだって事?涼介さんは、浮気…すんのかよ』
そして涙目の彼に訴えられ、散々浮気しないことを誓わされ、どれだけ自分が拓海に惚れているかと言うことを伝えた。
あの瞬間、自分がどれだけ嬉しかったことか。
男の心と体は別だ。心ではどれだけ恋人のことを思っていようと、理性とは裏腹の体がそれを裏切ることはある。だからあえて、涼介はその予防線を張っていたわけなのだが、彼の言葉に自分の心配が杞憂であったのを知る。
拓海は大丈夫だ。
そして勿論自分もまた。
だが物理的に会う時間が少ないのは辛い。
今は携帯やメールもあるが、直接触れた肌の感触には物足りない。
「あのクールだって評判の高橋がさっきからニヤニヤしたりヘコんだり…お前をそんなに一喜一憂させるなんてすごい彼女だな」
…彼女、ではないけどな。
「ああ。すごいよ。いつも負けっぱなしだ」
シラフで惚気てやると、同僚はさらに目を見張る。
「高橋が?本当にすごいんだな」
「ああ。ベタ惚れだ」
「へぇ〜。じゃ、通りで他の女の子たちに目が行かないわけだ」
「行くわけないだろう?あいつだけだよ。欲しいと思ったのは」
「おいおい…」
「馬鹿みたいだと思ってるんだろう?でもマジなんだよ。傍にいるだけで何だか嬉しいし、幸せなんだよ。本当なら、ずっと傍にいたいんだけどな…」
「…ああ、遠距離だっけ」
「そう。しかも今日またあいつは海の向こうに行っちまった。つれないよな」
涼介は空を指差す。
この場所から、彼の乗る飛行機が見えるはずがない。
だが彼も同じ空を見ているだろうか?そう思うだけで、この青空が愛しい。
「あ〜、そりゃ切ないな」
「ああ。切ないよ。なのに仕事は忙しいし、女どもは五月蝿いし、イライラするよ」
「お前の恋人が遠距離だってみんな知ってるからなぁ。女たちは、あわよくばって考えてるんだろうけど、今の話を聞いた限りじゃそんなのは無いな」
「ああ。天地がひっくり返っても、俺はあいつを選ぶよ」
「過激だねぇ。…分かったよ。恋にトチ狂ってる高橋先生のために、ナースたちにはお前が美人でキャリアウーマンの恋人にベタ惚れで、他に目が全く行かないって言っとくさ」
「ああ。頼むよ。…あ、だが、一つだけ訂正を頼む」
「何だ?」
「…美人じゃなく、可愛い、だな」
「は〜、そんなタイプか。カワイイんだ?」
「ああ。すっげぇ可愛い」
「マジ?なぁ、写真とかないのかよ?」
「見せねぇよ。勿体ない。俺のが減るだろう?」
「うわ〜、心狭いね〜。そんなんじゃ彼女に愛想尽かされるぞ?」
「うるせぇ!」
…さりげに、人の不安を突きやがって。
離れた距離に、不安を感じるのは自分の方だろう。
どんどん世界を目指す彼に、日本に留まり待っているだけしか出来ない自分がもどかしい。
再びイライラし始めた心を抑えるために、ポケットの中から黒革のシガレットケースを取り出す。
そして蓋を開いて…驚いた。
「…ん?どうした?」
一瞬、固まり、だがすぐに涼介はクスクスと楽しげな笑い声を上げた。
本当に、いつも負けっぱなしだ。
あいつは、こんなに俺を惚れさせてどうするって言うんだろうな?
「…どうやら俺はまだ愛想は尽かされていないらしい」
「ああ?」
不審そうな同僚に、シガレットケースの中を見せる。
「ん?…って、何だこりゃ?」
そこには入れておいたはずの煙草は消え、代わりに入っていたのは袋に詰められた小さな空色のキャンディ。
袋を剥がし、口に含むと、広がったのは爽やかなミントの味。
ケースを探ると、彼の手による一枚のメモが一緒に入っていた。
『煙草の吸いすぎはダメです。俺が帰るまで長生きしていて下さい』
自分の中に渦巻いていたイライラが消える。
この空の向こうに彼がいる。
同じ景色を見ているだろうか?
きっとこれから、こんなふうな空を見るたびに、そしてミントのキャンディを舐める度に拓海を思い出す。
切なく、でもほんのり甘く爽やかなこの気分とともに。
彼が向こうに到着しただろう時間に、彼に電話をしよう。
そして、伝えるのだ。今のこの彼に出会えた幸福と、共にいられる感謝の気持ちを。
『愛してる』
そして、
『だから俺のところに帰っておいで』
と。
「お〜い、高橋ィ。ダメだ、こりゃ。さっそくナースたちに教えて来ようかねぇ。高橋先生は、恋人に腑抜けで割り込む余地はありませんってな」
同僚の言葉にさえ、今はもう笑みしか浮かばない。
恋人は自分を幸せにする。
存在で。その仕草で。その行動で。
たとえ、遠く離れていても。
2006年3月26日
イラストはぴよ様より頂きました