柔らかな頬


 カーテンの隙間から漏れた朝の光が眩しくて目が覚めた。
 身体を起こそうとして、左腕が動かないことに気付き視線をやれば、そこには絶対に手に入らないと思っていたものが、あどけない顔で眠っていた。
 藤原拓海。
 起き上がりかけていた身体をまたベッドに戻し、自分の左腕を枕にし、眠る彼に寄り添うように横たえる。
 柔らかな髪に触れるように顔を寄せれば、眠る彼の小さな寝息の音が聞こえた。
 薄明かりの漏れる部屋の中で、眠る彼の顔を覗き込む。
 長い睫に縁取られた大きな茶色の瞳は今は閉じられている。その瞳が開き、自分を見つめる瞬間を思い出しただけで、胸の中になんとも言いようのない激しいまでの恋情が沸き起こるのを感じた。
 今すぐ、寝息を立てるうっすらと開いた唇を、己れの口で塞いで何もかも奪ってしまいたいほどに。
 だが。
 それとは正反対の、この穏やかな眠りを守ってやりたい、そんな気持ちも沸き起こる。
 相反する気持ちを抱きながら、そっと眠る拓海のすべらかな頬に手で触れた。
 指先に伝わる、温かな彼の肌の感触。
 そして、微かな鼓動。
 …幸せだ。
 たったそれだけの事で、そんなふうに思える自分に苦笑する。
 誰かに触れただけで、こんなにも幸せを感じるようになれるだなんて、彼に出会うまで知らなかった。
 胸を焦がす想い。
 そんなものがあるのさえ知らなかった。
「好きだよ」
 彼の耳元に囁くように、自然と胸の内から溢れた言葉を落とし、そして涼介はその頬に触れるだけのキスをした。
 ささやかな接触。
 それだけで体中が幸福感でいっぱいになる。
 単純なものだ。そう思う。
 この年若い恋人の一挙一動に感情を左右され、あげくこんな子供騙しな触れ合いでもう満足する自分がいる。
 純粋で。無垢で。ひたむきで。でも頑固で。
 彼の性格を描写する言葉に限りは無い。
 会うたびに違う顔を見せ、そのたびに自分が彼に惚れ直している気がする。
 フッ、と甘い自嘲の笑みを零しながら、涼介はそっと拓海の頬に触れていた指を外し、頭が乗っていた拓海の左腕をゆっくりと抜いた。
 身体を起こし、ベッドの下に落ちていた服を取り身に着けようとしたとき、背中に触れる手の感触があった。
 振り返るとそこには、泣きそうに顔を歪めた恋人の姿。
「拓海?起きたのか?」
 拓海の手が涼介の差し伸べた腕に触れた。すぐにそれは縋るようにしがみついてくる。
「…拓海?」
 フラフラとした身体。そして焦点の合わない目。
 そして涼介にしがみ付いた途端、半開きだった目は再び閉じられ、そしてまだ泣きそうに歪めた表情のままで呟いた。
「…りょ…すけさん…行かないで…」
 …寝ぼけてる?
 拓海は寝起きが良くない。彼の話では、昔寝ぼけてトイレを間違ったり、妙な行動をしたりして驚かせたことが何度もあるそうだ。
 今まで拓海のそんな姿は見たことがなかったが、それはずっとどこか彼が緊張していたから。
 一緒に眠ることがあっても、目覚めはいつも涼介よりも早かった。
 無防備な姿。表情。大人になろうとする彼がこの頃では見せてくれない子供のような顔。
 涼介は微笑んだ。
 初めて見せた無防備な彼の姿が、しかも自分を引き止める姿だなんて、これ以上に嬉しいことはない。
 愛してる。
 そんな言葉を自分が使うようになるだなんて思いもしなかった。
 けれど拓海の前では素直にその言葉が、感情が溢れてくる。
「どこにも行かない。ずっと拓海のそばにいる」
 そう囁き、ぎゅっとしがみついてくる身体を抱きしめ返してやると、途端に拓海の泣きそうだった顔が、綻ぶように笑顔になっていく。
「愛してるよ」
 その笑顔に魅せられながら言葉を贈ると、
「おれも…あいしてます…」
 さらに幸せそうな笑顔で答えてくれた。
 柔らかな頬。
 笑ったり。泣きそうだったり。たまに怒ったり。
 様々な表情を作る頬。
 その頬に、自分の頬を摺り寄せた。
 伝わる熱。
 伝わる鼓動。
 この恋人に出会えた事を、そして想いを返してもらった奇跡を、涼介はどう感謝していいのか分からない。
 ぎゅっと抱きしめ、その熱をただ感じていると、不意に恋人の身体に重みを感じた。
 顔を見れば、その目はしっかりと閉じられ、口元からは再び寝息が聞こえてくる。
 そのあどけない寝顔に、涼介は笑みを浮かべた。
 そっと起こさないように拓海の身体をベッドに横たえさせ、涼介はその頬にキスをした。
 もうこれ以上はないぐらいに好きだと思っているのに、さらにその気持ちが増えていく。
 この先の未来。
 決して自分たちに優しい未来が待っているとは思っていない。
 だけど。
 それを乗り越えれるほどの、確かな気持ちがここにある。
「ずっと…一緒にいような、拓海」
 そう囁いてやると、眠る恋人の穏やかだった顔に、また笑顔が浮かんだ。



2005年8月30日


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