「好きだ」
囁かれた言葉に信じられない思いを強くする。
けれど真剣な彼の眼差しと、そしてのしかかる重く固い体の感触。そして触れてくる熱っぽい彼の唇の感触。
「…ん、ふ、…」
息苦しく、開いた唇の隙間から彼の舌が潜り込む。拓海の口腔内を蹂躙し、縮こまった拓海の舌を引きずり出して絡ませる。
触れた互いの唇の間からは、ひっきり無しに唾液による水音が響き、触れているその箇所のみならず、耳からも音で愛撫されているような心地になる。
彼の背中に回した腕に力を込める。
熱い体。拓海だとて若い男だ。理性の切れる瞬間など早い。無意識に腰を彼にすりつけ、強請るような仕草をした。
クス、と彼が笑う。
「…可愛いな」
唇を離した彼が言う。拓海の頬を撫で、その言葉がからかいなどではない本心であるのだと知らせる、可愛くてたまらないものを見つめる嬉しそうな眼差し。
その視線に射られ、拓海は羞恥から一気に頬を染め目を逸らす。
そして、そんな拓海の視界に映ったのは、彼の背後に見える病棟。
拓海の2.0はある視力が、その並ぶ窓辺に立つ色んな人影を見た。
瞬間、我に返る。
背中に回していた腕は、抱きしめるものではなく叩くものに変える。
慌ててドンドンと彼の背中を叩き、のしかかる体を押し戻す。
「藤原?」
悲しそうな彼の表情。だが拓海にはそれを気にかける余裕がない。
「そ、そ、外!ここ!見られてる!」
アタフタと叫ぶ拓海の様子と、向かっている視線の先を見やり、涼介も気付いたらしい。
「ああ……」
けれど拓海とは違い、窓の人影に気付きながらも涼介は平静だ。
鮮やかに微笑みながら、体を起き上がらせベンチに座りなおす。
「うっかりしてたな。そう言えば外だったか」
拓海にも手を差し出し、起き上がるのを手伝う。
「ど、どうしましょう、見られてたら…」
自分はいい。誰に何と言われようとも。
けれど社会的に立派な立場になろうとする彼に、悪評など立てさせたくない。
しかしあっさりと彼は拓海の心配を切り捨てる。
「別に構わないよ。恋人同士でイチャついてただけの事だ。誰に恥じることもない」
「こ、恋人って…」
恋人同士…その響きにまた頬を染める。確かに好きだと言われ、キスもしたがそうなった自覚は拓海には全然ない。
「恋人だろう。違うのか?それとも藤原は恋人じゃない奴とでも平気でキスするのか?」
「違います!俺は、涼介さんだから……」
「だろう?だったら、恋人でいいじゃないか」
「そ、ですけど…俺、男だし……」
おずおずと拓海が言えば、涼介は空を見上げ大きく溜息を吐いた。
後悔してる?
不安に拓海の目が潤む。
けれど…。
「そうなんだよ。お前、男なんだよな…」
しみじみと言われ、自分の存在自体が嫌になる。
「おい、言っておくが俺はゲイじゃないぞ。男が好きとか言う性的嗜好は持っていない」
だが打って変わり、拓海に向かいそう真剣に言う。話に付いていけず、きょとんと首をかしげれば、涼介は眉間に皺を寄せた。
「…ったく。またそんな顔をして」
変な顔をしてしまっただろうか?慌てて手で顔を覆う。だがその手を涼介が阻んだ。
「その顔で、どれだけ俺を惚れさせれば気が済むんだ?本当に可愛くて仕方ないよ」
そして瞼にキス。
ぶわっと、首筋まで朱色が広がる。
「りょりょりょ、涼介さん!な、何?!」
愛しそうに涼介は拓海を見つめ、林檎のように赤い頬を大事そうにその繊細な指でなぞった。
「惚れちまったら、男も女も関係ないよな。藤原が好きだ。俺にとってはそれだけが大事だよ」
拓海に語りかけるわけでもなく、独り言のように呟かれた涼介の言葉は拓海に胸を射た。
ジン、と熱く甘いものが広がり、拓海の全てを涼介一色に染め上げる。
涼介の言葉は拓海も同様だ。
元々、同性が好きだったわけではない。現に初恋は女性だし、今までも女性にしか目がいかなかった。
なのに彼を見た瞬間に、理屈ではなく惹かれた。
まるで引力に引かれるように。
仕方がないのだ。目が離せなくて、だんだん自分の中が涼介でいっぱいになっていく。
「…俺、も…男とか女とか、関係ないです。…涼介さんが好き、です」
精一杯の告白。
それにらしくなく、涼介は目を丸くし、そして続いて子供のように照れくさそうに微笑んだ。
初めて見せる表情。
けれどそれら全てがまた拓海の心を掴む。
好き。
その言葉が、今の拓海の心情の全てだ。
ずっと叶わないと、押し殺していた感情。解放されたそれは、拓海の全身にいきわたり、そして涼介へと伝う。
心の中で叫んでいた言葉。
「好きだ」
同じ気持ちを、笑顔の彼から返された。
そっと、また唇が重なる。
けれどその唇は、深くなる前に離された。
「外、だからな」
ニヤリと、悪戯っぽく笑う彼の顔。
その言葉に、拓海は現在の状況を思い出し、真っ赤な顔であたりをキョロキョロと見回した。
その拓海の仕草に、また涼介が可愛いと微笑んだ。
恥ずかしくて、幸せで。そして照れくさい。
これが夢ではありませんように。
そう願いながら、拓海は涼介に見えないように、手の甲をこっそり指で抓った。
痛かった。
夢ではなかった。
拓海は俯き、微笑む唇を隠した。
ふわふわと、まるで現実味のない夢を見ているみたいだ。
けれど殴られた頬の痛みが、これが夢ではないことを教えてくれる。
「…すみません、殴っちゃって。痛い、ですよね?」
荒れてカサついた彼の指が涼介の赤くなった頬を撫でる。とても心地好い。うっとりと目を閉じそうになる自分を押し殺し、涼介は不安そうな拓海に安心させるように微笑んだ。
「いいよ。いきなりキスした俺が悪い」
そう言えば、拓海がそのことを思い出したのだろう。またポッと頬を染め、視線を逸らせる。
「藤原は、この後会社に戻らなきゃいけないんだったか」
「え…あ、はい…」
寂しそうな彼の表情が、この瞬間の時を惜しんでいるのが見て取れる。
本当に可愛い。この生まれたての涼介の恋人は。
「迎えに行くよ」
「え?」
「会社に。仕事が終わったら。…一緒にいてくれるだろう?」
拓海はしばらくじっと涼介の言葉の意味を飲み込むように聞いていた。そしてやっと理解したのだろう。ぼうっと頬を盛大に染め、そして俯いた。
「………はい」
その髪に顔を埋め、その頬に唇を寄せ…。夢の中でしか叶えられなかったことはいまや現実だ。
「あ、じゃ、俺すぐに帰って事務手続きしないと!」
けれどこの予測不可能な存在は、いつまでも大人しく涼介の腕の中にはいてくれない。
ぼうっと照れていたのかと思うと、慌しく立ち上がる。
そして涼介を振り返らず、踵を返そうとするその連れなさ。
涼介を翻弄して止まない。
彼へと伸ばしていた腕が宙に浮く。先ほどまで味わっていた感触の名残を惜しむように、涼介はしばらくその腕を下ろせなかった。
スタスタと歩き始める拓海。何か声をかけないと、そう思った矢先に彼が振り向いた。
「あの……」
「うん?」
振り向いた彼の顔は真っ赤だ。
「すぐ、行きますから…だから…待っててください」
可愛い恋人は、お願いごとが下手なようだ。
気後れして甘えることすら出来ない。
そんな彼を、これから甘やかし、自分に頼らせ、いないと生きていけないぐらいに変えさせたい。
「藤原」
「は、い?」
「…明日の朝は豆腐の配達があるのか?」
「いいえ。明日は親父の番ですから」
そう、と頷き、艶のある笑みを浮かべた。
「じゃあ、明日の朝まで一緒でも大丈夫ってことだな」
微笑み、彼を見つめれば、言葉の意味をじわじわと理解し始めたのだろう。「それって…」と呟いた後、真っ赤な顔で口をパクパクと酸欠の金魚のようにさせる。
「覚悟しておいで」
急ぎすぎだろうか?けれど今すぐ全てを自分のものにしたい。
「待ってるよ」
彼の中に自分と言う存在を刻み込み、これが夢でも、妄想でもないのだと、自分にも彼にも教えたいのだ。
そして自分の我がままに、可愛い恋人はおずおずとではあるが頷いた。
小さな小さな返事。
「……はい」
染まった頬と潤んだ瞳の熱に、これが自分の我がままだけではないことを涼介は知る。
運命の歯車の悪戯で、思わぬことに願いが叶う。
そして今、それを永遠に変えるための第一歩が踏み出された。
「拓海」
初めて苗字ではなく名前で呼ぶ。
これがその始まりの合図。
「好きだ」
そしてこれが根源となる気持ち。
にっこり、心のままに微笑めば彼もまた微笑んだ。
パシャリ、と池の金魚が跳ねる音と同時に、彼が言った。
「俺も、好きです」
素直な笑顔に、涼介は幸せを噛みしめた。
END?
2006.9.20