金魚池で会いましょう
act.5
彼の指に触れた瞬間、体が震えた。
押し殺せなかった動揺は表情にも現れていたようで、見つめる彼の瞳の中の自分は、まるで女のような目で彼を見つめていた。
恥ずかしい。
そしてこの気持ちに気付かれたくないと、体を引こうとしたのだが、思いがけず強い腕が拓海の手を掴んだ。
ハッとして彼を見る。
「…藤原」
ドキリと、心臓が戦慄いた。
どうしてこの人はそんな目で自分を見つめるのだろう?
うっすら染まった頬。潤んだ瞳。そして熱のこもった眼差し。
彼の表情は、まるで自分が彼に向けるものと同等だ。
「りょう、すけさん…?」
名を呼ぶ拓海の声が掠れた。咽喉にからみ、そしてたまった想いともに吐き出す。
掴まれた腕が痛い。ぎゅっと握られ、そこから灼熱のような熱さが伝わる。
何の熱?どうしてこんなに熱いのだろう。
「藤原」
彼の形のよい唇が再度自分の名を紡いだ。そしてそれと同時に腕を引かれ、体を引き寄せられる。
手に持っていた弁当箱がその勢いで落下する。
カツン。
地面に落ちた音が響き、二人の間に漂っていた緊張を壊した。
お互いに、ハッとしながら見詰め合う。
一瞬で、熱が消え、浮かんできたのは後悔だ。
『今、俺、何をやった?何をしようとした?』
バクバクと心臓が先ほどとは違う激しさで震えだす。
恐々と目の前の彼を窺えば、涼介もまた呆然とした表情で自分を見つめていた。
ズキリと胸が痛む。
その表情が拓海に教えてくれた。
今のあの空気が、彼の意思ではなく、衝動でしかなかったのだと。
そして涼介が、今のあれを、後悔しているのだと。
タイミングのマズさに舌打ちをしたい気分だった。
弁当箱の落下音で、夢に浮かされたようだった拓海の意識が戻ってしまった。
そして衝動のまま行動してしまった、自分の理性も。
あのまま何もなければ、間違いなく二人はキスをしていた。実際に涼介はそれをするつもりであったし、拓海にそれを受けいれさせる自信もあった。
けれど些細な異音が全てを壊した。
常の涼介なら、そんな状況さえも計算に入れ、失敗のないようにことを運ぶ。けれど拓海の前では、そんな小ざかしい知恵など働かせる余裕もなく、そして通じない。
いつもの固い表情に戻ってしまった拓海が、涼介から体を離す。
拓海の手を掴む涼介の腕の力が弱まったのも知り、スルリと涼介の手の中からも消えていく。
さっきまであったあたたかな熱。それが去っていく。
…嫌だ。
子供のように頑是無く想う。
再び訪れた衝動。ぐっと緩みかけた腕の力を強める。
ビクリとまた彼の体が跳ねた。戸惑いながら自分を見つめるその視線。先ほどまでの熱はない。けれど、嫌悪もない。
タイミングなど知ったことか。なりふり構っていては、欲しいものなど手に入らない。
腕を無理やり引き寄せ近づける。
そして拓海に襲い掛かるようにキスをした。
なりふり構わぬ行動は、涼介にらしくなく下手なキスをさせた。
ガチンと歯が当たり、彼の歯で唇が切れ、ピリっとした痛みが走る。
このキスに甘さは無かった。ただ、熱とわずかな痛み。それだけがあった。
そして…。
「っ、…イヤだ!」
ドン、と体を突き飛ばされ、涼介はベンチから転がり落ちた。みっともなく地べたの上に倒れこむ。
視線を上げた涼介の眼前に、怒りの表情を浮かべた拓海が自分を見下ろし立っている。
その光景に、涼介は自分が失敗したのだと悟った。
終わりだ。全て。
「酷いです、涼介さん!」
いつも緊張で固い声は、今は怒りで尖っている。
謝罪のしようもなく、涼介はただ項垂れた。
怒って、殴られるぐらいがいい。この愚かな恋を終わらせるには。
けれど涼介の望みは叶わなかった。
「お、俺が…涼介さんのこと、好きなの、分かったからって、からかうのは酷いです!」
「……え?」
「涼介さんには、遊びなのかも知れないけど、俺は……」
男にしては、大きな瞳に涙の粒が浮かぶ。
「…俺、本気で涼介さんのこと、好きだったのに…」
…俺は夢を見ているのだろうか?
頬を抓って確かめたくなる。
だが頬を抓るよりも早く、衝撃が涼介を襲った。
ガン、と感じた衝撃。その理由は拓海の拳だ。
ああ、自分は拓海に殴られたのだな、とやけに冷静な頭で考える。
そしてじわじわと襲ってくる痛みに、これが夢ではない、紛れもない真実であるのだと実感してくる。
夢でないのなら。
涼介のすべきことは一つだ。
「は、離してください!」
逃げようとする腕を掴んだ。
そして引き寄せ、ベンチの上に押し倒した。
「からかわないで下さい!」
今の自分はみっともない。
目は血走っているだろうし、髪は乱れボサボサだ。多少人より良いと評価される顔は、殴られ頬が赤く腫れていることだろう。
だが、そんな事に構っていられない。
自分の下で暴れる拓海を懇親の力で押さえつけ、そして言った。
「本気だ」
ピタリと拓海の動きが止まった。けれどそれは一瞬で、すぐにまた暴れだす。
「か、からかうなって…」
「俺は本気だ」
言い聞かせるように、再度言う。すると暴れていた拓海の顔が戸惑いに揺れた。
「本気じゃなきゃ、キスなんてしない」
「う、そだ、だって…」
「何が嘘なんだ。どうやったら信じて貰える?大学中に藤原を好きだと叫べばいいか?お前の前で、土下座でもすればいいのか?」
「だ、だって…俺、男だし…」
「俺も男だ」
「…何のとりえもないし…」
「あるだろう。たくさん」
「顔も普通だし、年だって涼介さんと五歳も違うし…」
「お前の顔が普通なら、俺の顔も普通になるぞ?それに、五歳も年上の男は…嫌か?」
信じられない、と頑なだった拓海が、固く閉ざされていた蕾が、ゆっくりと花開くように咲いていく。
ほんのり染まった頬と、潤んだ眼差し。その瞳からは隠せない涼介への熱が感じられた。
「嫌…じゃないです」
…クソ、限界だ。
咲き開いた花の艶やかさに、押さえていた理性が崩壊する。
「目、閉じて…」
上からのしかかりながら、顔を寄せる。
拓海は涼介の意図するところを察し、目を閉じた。
ゴクリと生唾を飲み込む。
手が震える。唇もまた。
ゆっくりと顔を寄せ、吐息が感じられる瞬間にまで近付くと、拓海の唇もまた微かに震えているのに気付いた。
「藤原」
彼の名を呼ぶ。
大事な、心の奥底に秘めた名前。そして感情。
「――好きだ」
今はもう、それを隠すことなく、涼介は解放した。
ずっと心の中で柔らかそうだと思っていた彼の唇は、想っていた通りの感触を涼介に与えた。
腕を回し、彼の体を抱きしめる。
するとおずおずとではあるが、下から拓海の腕も持ち上がり、涼介の背中に回された。
お互いに引き寄せ、感情のままに重なり合った。
2006.9.20